Entry ‘Sinn und Bedeutung’の疑問点

先日、以下の図書を購入した。

この本は現代哲学の基本的な用語を取り上げて、西洋哲学の用語ならば外国語原典からの原文を抜粋しつつ解説を加えており、便利でためになる本です。しかし、一部疑問を感じる点がありましたので、そのことを次に記してみます。取り上げる項目は以下のものです。

  • 中山康雄  「意義と意味 Sinn und Bedeutung」


中山先生の原文をすべて引きながら、私が感じた疑問点を順次列挙してみます。まず第一段落はこうなっています。

 意義 (significance) と意味 (meaning) という区別を導入したのは、論理学者ゴットロープ・フレーゲ (Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848-1925) である。フレーゲの仕事には、現代記号論理学の確立と数学を論理的に基礎づける試みと並んで、言語の論理的解明を通して分析哲学の基盤を与えたことがある。意義と意味の区別は、この三番目の仕事に属している。

まずここで違和感を覚えるのは、Fregeの意義と意味に対し、ドイツ語の原語‘Sinn’,‘Bedeutung’を上げるのではなく、英語の‘significance’,‘meaning’が与えられていることです。SinnとBedeutungを解説する項目で、‘Sinn’,‘Bedeutung’を上げずに、なぜわざわざ英語の単語が上げられているのか、不思議な気がします。
しかも‘Sinn’に対し、‘significance’が当てられているというのも、あまり普通ではなく感じられます。通常は大抵の場合、英語では現在‘Sinn’に対し‘sense’が当てられているものと思います。ただし、もしも‘Bedeutung’に‘significance’を当てるというのなら、その理由は比較的明解です。なぜならFrege自身がそのことをapproveするような発言を行っているからです。FregeはPeanoに対する書簡の中で、‘Bedeutung’にイタリア語を当てる場合には‘significazione’がよいと言っています*1。ここからして‘Bedeutung’に英語を当てる場合には、‘signification’または‘significance’がよいと推測することもできます。一方、Fregeは同じ書簡中の同じページで‘Sinn’に対するイタリア語としては‘senso’がよいと言っています*2
いずれにせよ、SinnとBedeutungの話の中で、‘Sinn’,‘Bedeutung’を上げずに英単語が上げられ、しかも‘Sinn’に対し、普通上げられることのない、かつ上げるとするなら‘Bedeutung’に対して上げられる‘significance’が当てられているというのは、初学者を主に念頭に置いて書かれていると思われるこの本の中で、読む者に充分配慮しているようには感じられず、いくらかの困惑を覚えます。


次に第二段落を引きます。

 フレーゲがこの区別を導入したのは、論文「意義と意味について」(1892) においてであった。フレーゲの「意味」という語の使用は特殊であり、それは、現代の意味論で「外延 (extension) 」と呼ばれているものにほぼ対応する。名前の外延は、その名前が指示する対象 (Gegenstand, object) である。

ここにおいて、FregeがSinnとBedeutungの区別を初めて公表したのは、彼の1892年の論文“Über Sinn und Bedeutung”であると、人は容易に解すると思います。しかしこれは非常にmisleadingです。あるいはほとんど誤りに近いと言えます。
Fregeを勉強している人なら皆知っていると思いますが、SinnとBedeutungの区別が最初に公にされたのは、1891年のFunktion und Begriffというよく知られた文献です。これを読めばはっきりとこの区別をなすべきであるという記述が出てきます。ですから件の区別が最初に公表されたのは1892年の“Über Sinn und Bedeutung”ではなく、1891年のFunktion und Begriffです。
では中山先生は完全に間違っているのではないか、と思われるかもしれません。しかし実は完全に間違いだとも言えないのです。ですから「misleadingだ」と言ったのです。というのも、1892年の論文“Über Sinn und Bedeutung”の原稿が書かれた時期までも考慮するならば、その原稿が書かれたのは、1889年の12月頃から1890年の6月終わり頃にかけてと考えられていますので*3、この点まで考慮するならば、論文“Über Sinn und Bedeutung”(の原稿)において初めてFregeは件の区別を導入したという可能性は残ります。1891年のFunktion und Begriffは1891年1月9日になされた講演を文字に起こして刊行されたものなので、この講演の原稿がいつ執筆されたのか、不明である限りは、もしかして“Über Sinn und Bedeutung”の原稿の方が早く書かれていたという可能性は残ります。
以上から中山先生の記述「フレーゲがこの区別を導入したのは、論文「意義と意味について」(1892) においてであった。」は、完全に間違いだ、とは言わないものの、上に見たような深読みをしない限り、ほとんど間違いである、あるいは極めてmisleadingであると言えるものと思います。


また、次に出てくる先生の記述では、Bedeutungをextensionになぞらえている点が問題なしとはしませんが、Bedeutungが厳密にextensionと同一であるとおっしゃっている訳ではありませんので、この点は今は置いておきます*4


そしてこれとは別に、「名前の外延は、その名前が指示する対象 (Gegenstand, object) である。」と記されていますが、これはかなり誤解を招く記述だと思われます。なぜならここでの「名前」として、いわゆる固有名詞や確定記述句、単純な文を考えている場合には、確かにそれらのBedeutungはGegenstandですが、いわゆる述語を考えてみた場合には、述語のBedeutungはGegenstandではないので*5、その場合「名前の外延は、その名前が指示する対象 (Gegenstand, object) である。」は間違いとなってしまいます*6
恐らく初学者は、ここまで思い至らないでしょうから、「名前の外延は対象だ」という記述から「Bedeutungとは対象なのだ」と早合点してしまい、誤解を生んでしまうものと思います。したがって、Bedeutungとは対象であり、それ以外のものではないという印象を与える記述の仕方は避けられるべきだと思います。


次にFregeの文章が引かれていますので、そこを引用*7し、加えてこの項目にはない勁草書房版からの和訳を補っておきます*8

Aus dem Zusammenhange geht hervor, daß ich hier unter 》Zeichen《 und 》Namen《 irgendeine Bezeichunung [sic] verstanden habe, die einen Eigennamen vertritt, deren Bedeutung also ein bestimmter Gegenstand ist (dies Wort im weitesten Umfange genommen), aber kein Begriff und keine Beziehung, auf die in einem anderen Aufsatze näher eigegangen werden soll.
(G. Frege, “Über Sinn und Bedeutung”, in: G. Frege, Funktion, Begriff, Bedeutung, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1980, p. 41)
「以上の議論の脈絡から明らかになることは、まず私がここで「記号 (Zeichen) 」や「名前 (Name) 」として理解しているものが固有名 (Eigenname) の役割を果たす何らかの表記手段であるということと、それゆえに、その記号法の意味は特定の対象 (Gegenstand) (ただし、この語の最も広い意味において理解するとして) であり、他の論文でさらに詳しく検討するはずの概念 (Begriff) や関係 (Beziechung) ではないということである。」

ここで覚える困惑は、SinnとBedeutungを説明する項目なのに、SinnとBedeutungを区別すべしというFregeの文章を掲げずに、なぜかEigennameのBedeutungはGegenstandである、という文章を上げていることです。差し当たりそれが何であれ言語表現のいみとしては、SinnとBedeutungを区別するべきだとFregeが主張したことが大切なのであって、EigennameのBedeutungはGegenstandであると彼が主張したことが何よりも大切だ、ということではないはずです。そして正に今上で引用した文章の直前の段落で、FregeはZeichenにはSinnとBedeutungの両方が結び付くのであり、両者は区別されるべきだと述べているのです。なぜこちらを引用されないのか、私個人的には非常に困惑を感じます*9


次の段落を引用してみます。

 例えば、「白石太郎」という固有名 (Eigenname, proper name) の意味は、この名前で呼ばれる人物ということになる。また、「(現在の)日本の首相」という語句も単独の対象を指しているので、フレーゲは「(広い意味での)固有名」と呼ぶ。「(現在の)日本の首相」の意味は、(2007年3月では) 安倍晋三氏である。これに対し、文の真理値 (真か偽のこと) を、彼は「文の意味」と呼ぶ。このように、固有名と文の意味を定めることにより、関数を用いた意味論が可能になる。例えば、「( ) はプロ野球選手だ」という表現は、ある固有名を ( ) に挿入すると真理値が得られる関数を表すと考えられる。このように、関数を用いることにより、フレーゲは正確な意味論を描くことに成功した。

「また、「(現在の)日本の首相」という語句も単独の対象を指しているので、フレーゲは「(広い意味での)固有名」と呼ぶ。」 この記述にも困惑してしまいます。単独の対象を指しているから、その言語表現は固有名だ、というのがFregeの真意ではないはずです。
例えば次の文を考えてみます。

    1. Mars has two moons.
    2. Jupiter has sixty-three moons.
    3. The Earth has one moon.

これらの例文において各々の‘moon’はどれもいわゆる一般名として用いられています。最後の三番目の文における‘moon’も一般名として使われています。単独の対象に対応していると思われるこの三番目の文の‘moon’も一般名であって固有名ではありません。Frege自身、単独の対象しか対応していないと思われる言語表現であっても、固有名でないことがありうることを、はっきりと主張しています*10。Fregeにとって、一つのものに対応しているかどうかが固有名かどうかの目印ではないのです。
さらに言えば、Fregeの考えていたと思われる論点を大きく引き出して解してやるならば、Fregeにとっては、単独の対象を指すものが固有名なのではなく、まったく逆に、ある表現が固有名というcategoryに属するからその表現は対象を指すのです。対象を指すから固有名なのではなく、固有名だから対象を指すのです。まったく逆なのです*11


次の段落を引用してみます。

 ここで、「直線 a と直線 b との交点」という表現を考えてみよう。この語句は単独の対象を指しているので、フレーゲの用語では、固有名に相当する。この語句は、二つの直線が交わる点であるというこの対象の与えられ方も表現しており、このように固有名により表された対象の与えられ方のことを、フレーゲは、固有名の「意義」と呼ぶ。意義は、内包 (intension) にほぼ対応する。内包は、「内容」という概念にほぼ対応し、私たちがある表現から理解しているものと言ってもよい。「文の意義」とは、その文が表している内容であり、これをフレーゲは、「思想 (Gedanke, thought) 」と呼んだ。

「ここで、「直線 a と直線 b との交点」という表現を考えてみよう。この語句は単独の対象を指しているので、フレーゲの用語では、固有名に相当する。」 この記述にも疑問符が付くことは、上に述べたことであるので、その疑問に感じる内容についてはここに繰り返しません。

「固有名により表された対象の与えられ方のことを、フレーゲは、固有名の「意義」と呼ぶ。」 この記述については二つ、疑問点がわいてきます。一つは自然言語において対象を欠いている言語表現においては、対象が存在しないので、対象の与えられ方ということもあり得ません。よってそのような言語表現のSinnをうんぬんすることもできません。この点についてはどうなのか、疑問がわいてきますが、しかしこれは先生の記述の仕方の問題というよりも、FregeのSinnという概念固有の難点です。したがってこの点については置いておきます。
問題はいわゆる述語のSinnです。固有名のBedeutungを考え、そこから固有名のSinnを考えている限りは、差しさわりはないのですが、述語のSinnを考慮した場合、またそれは考慮せねばならないのですが、その述語のSinnを考えた場合、述語のSinnは述語の対象の与えられ方ではありません。述語のBedeutungの与えられ方なのかもしれませんが、述語の対象の与えられ方ではありません。述語のBedeutungは対象ではありませんから。先生のように、固有名について語り続けている間は問題ないのですが、ありふれた述語に対し目を移してやるならば、そしてFregeは述語についても検討を加えているのですが、その場合、「対象の与えられ方を「意義」と呼ぶ」という言い方は、非常にmisleadingとなることがわかります。「アリストテレスプロ野球選手だ」という文、およびこの文の「アリストテレス」について、それらのSinnとはそれらの表現のBedeutungという対象の与えられ方だ、と説明しても、筋は通るかもしれませんが、「  はプロ野球選手だ」という述語のSinnについては、この述語のBedeutungという対象の与えられ方だ、とはなりません。述語のBedeutungは対象ではないのですから。
以上から「対象の与えられ方を「意義」と呼ぶ」という説明の仕方は、非常にmisleadingだと感じられます。


最後の段落を掲げます。

 フレーゲは、意義は持つが意味を持たないような語句の存在を認めた。例えば、「地球から最も離れている天体」という語句は、私たちがこの語句の内容を理解できるので、意義はもっているはずだ。しかし、そのような天体が本当に存在するかどうかはわからないので、この語句が意味も持つかどうかは定かではない。また、「アリストテレス」のような (本来の) 固有名の場合、意味はひとつに定まっているが、意義は人によって異なるということもありうるとフレーゲは言い、この原因を日常言語の曖昧さに帰している。

ここまで来て、この解説で何よりも大切だと思われることが、語られていないことに気がかりを覚えます。
この項目におけるSinnとBedeutungの説明ですが、なぜ言葉のいみにSinnとBedeutungを区別すべきなのか、あるいはFregeなり現代のいくらかの論者なりがなぜSinnとBedeutungを区別すべきだと考えているのか、この点の説明がまったくありません。この点を示唆するなり説明することが最も重要だと考えます。なぜまたそんな区別をする必要があるのか、なぜそんな区別をした方がよいのか、細部は置くとしても何よりもまず、この点を説くべきだと思います。その点さえ読者に伝われば、細部はしかるべき参考文献に当たってみよう、当たらねば、と読者も思い、進んで勉強して行くことになるでしょうが、SinnとBedeutungの区別の重要性、あるいは区別すべきか否かの重大性がわからないようだと、はっきり言って何だか全体としてよくわからない、区別したはいいが何のためにやっているんだか、ぜんぜんpointがわからない、ということになると思います。
そもそも、(1) なぜそのような用語が導入されたのか、(2) その用語はどのように使われているのか、(3) その用語の導入の結果、どのような理論的帰結が招来されるのか、少なくともこれらのことが説明されていない限り、その用語の解説としては、一般的に言えば、不十分な解説であることを免れないのではないでしょうか。この(2)についてはある程度説明されているものの、(1), (3)に関してはまったく解説されていないものと思われます。ただ、そこまではこの短くて初学者向きの解説では、無理だったのかもしれません。すべてを説明するのはとても無理でしょうから。それに私自身も代案となる原稿を書くよう命ぜられても、とてもではないですが上手には書けません。確かになかなか難しいです。
先生も今回のこの「意義と意味」の項目の他に、多数の項目を執筆されていて、大変だったのかもしれません。私などたった一項目でも無理です。先生みたいにversatileな人間になりたいです…。


以上の記述につきましては、念入りな校正を経ていませんので、間違いが含まれているかもしれません。誤字・脱字・無理解・誤解も含まれているかもしれません。そのようでしたら大変申し訳ございません。訂正致します。また先生にも前もってお詫び申し上げます。何卒お許し下さい。

*1:Gottlob Frege, Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und wiss. Briefwechsel, Band 2., 1976, S. 196, G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、51ページ。

*2:‘Bedeutung’に対し‘signification’または‘significance’を上げる可能性に関しては、Michael Beaney ed., The Frege Reader, Blackwell Publishers, Blackwell Readers Series, 1997, p. 44, および同ページのnote 103、E. トゥーゲントハット、「フレーゲにおける‘Bedeutung’の意味」、高橋要訳、『理想』、理想社、1988年夏号、no. 639、21ページを参照。

*3:Cf. Göran Sundholm, “Frege, August Bebel and the Return of Alsace-Lorraine: The dating of the distinction between Sinn and Bedeutung”, in: History and Philosophy of Logic, vol. 22, no. 2, 2001. この論文の内容報告は当日記の2006年4月9日、10日に記してある。

*4:一言だけ述べておくと、Fregeにとって、いわゆる述語の、いわゆる概念の外延は、Bedeutungではありません。Vgl. Gottlob Frege, [Ausfürungen über Sinn und Bedeutung], Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, SS. 128-9. G. フレーゲ、「意義と意味詳論」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、103-4ページ。このことを考慮すればBedeutungをextensionになぞらえることには大きな問題があります。

*5:いわゆる述語のBedeutungは概念(Begriff)であり、概念は対象ではない。Frege, a. a. O., SS. 128-9, 135. また次も参照。Gottlob Frege, 》Funktion und Begriff《, Kleine Schriften, Zweite Auflage, Hrsg. von I. Angelelli, Hildesheim, Georg Olms Verlag, 1990, S. 135. G. フレーゲ、「関数と概念」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、31ページ。

*6:そもそも述語を名前だとは通常は見なさないので、私のここでの疑念は杞憂かもしれません。それならよいのですが、ただ、単に「名前」と書かれているので、そこから初学者がいわゆる一般名を考えてしまうならば、述語も一般名も同じようなもので、述語にしろ一般名にしろそれらの外延は対象なのだろう、と誤解してしまいそうな気がします。まったくの取り越し苦労ならいいのですが…。

*7:ドイツ語で使われる二重引用符が原文中に出てくるが、それは‘》 《’で、代用してある。

*8:G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 第 4 巻 哲学論集』、黒田亘、野本和幸編、勁草書房、1999年、73ページ。

*9:加えてこの引用文では、ますますBedeutungは対象に他ならないとの誤解を招いてしまいます。

*10:Vgl. G. Frege, Grundlagen, § 51.

*11:これはいわゆる統辞論優先テーゼのことです。このテーゼをFregeは堅持していたとの解釈をここで私は述べています。このテーゼがFregeの解釈として妥当であるかどうかは、今ここで結論を出すことができません。この点については例えば次を参照。飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、69-72ページ、金子洋之、『ダメットにたどりつくまで 反実在論とは何か』、双書エニグマ 10、勁草書房、2006年、「第 1 章 背景としてのフレーゲ哲学 第 2 節 フレーゲプラトニズム」。