入手文献: 純正なパラドクス

  • 長谷川吉昌  「ヒュームの原理は論理的真理か」、『哲学年報』、北海道哲学会、no.46、1999年
  • 中川大  「フレーゲ的記号法とルイス・キャロルのパラドクス」、『哲学年報』、北海道哲学会、no.49、2002年
  • 岡本賢吾  「「純正なパラドクス」は、なぜパラドクスか」、『春秋』、春秋社、410号、1999年
  • 柳沼重剛  『語学者の散歩道』、岩波現代文庫岩波書店、2008年 (初版1991年)

「賽は投げられた」は,本当は「賽を投げよ」だった?「健全な肉体に健全な精神」のもともとの意味とは? 西洋古典学者として高名な著者が放つ,西洋古典が起源の英語のことわざや,意外な英語の語源,語学学習の落とし穴など,語学学習だけでなく日本語を書くうえでも役に立つ,蘊蓄とウィットに富んだ楽しいエッセイ集.


前二者は既にcopyして持っていたが、電子テキストとしても入手可能となっている。そこで電子版もDLして入手。
岡本先生の文は、出版社のPR誌に載っているもの。
ここでの「純正なパラドクス」とは、実例を挙げると、嘘つきのparadoxやRussell Paradox、WittgensteinのRule-Followingに関するparadoxのあるversionのこと。
Paradoxとは一般に、前提、論証過程、帰結の三つの部分を持つが、そのうち論証過程が非の打ち所がなく、 難点を指摘し得ないようなparadoxのことを先生は「純正なパラドクス」と読んでおられる。
論証過程が完璧ならば、結論は受け入れればよい訳である。完璧なのだから安心して受け入れればよい。しかしその結論が矛盾していたり、直観的・常識的にはおよそ受け入れ難いものならば、安心しては受け入れられない。ならば諸前提のどれかを拒否すればよい。しかしその前提どもがあまりに基本的・基礎的な事柄ばかりである故、そんな前提を拒否してしまったならば、諸信念の大規模な根本的改訂を免れ得ない。これもまた安んじて受け入れられるものではない。さて困った。ここにおいて我々はparadoxical predicamentに立たされているのである*1。立たされたままに、やりくりしているのである。真理述語も概念の外延を表すoperatorも、paradoxの危険にさらされながらinformalには使っているのである。
大体先生のお話は、このような感じだったと思います。ざっと読んで、ざっと書いているので、正確には先生の文をお読み下さい。

*1:‘paradoxical predicament’なる言葉を先生は使ってはおりません。私の勝手な造語です。