Frege and the Proof-Conditional Semantics

この項目の内容は、言うまでもないことだが、単なる備忘録、感想文であり、大したことは書かれていない。
(なお、2009年1月25日の日記も参照のこと。)

先日、この論文を拝読させていただき、興味を感じた点があった。そのことを二つだけ記したい*1。そこでまず、上記論文の興味を感じた箇所全体を以下に引用する*2。引用に際しては、金子先生の註は省く。

では、もしフレーゲが『基本法則』においてもなお、存在論的カテゴリーが言語的カテゴリーに随伴するという『基礎』での考え方を維持していたとすれば、それはフレーゲの言語観に何をもたらすであろうか。明らかな帰結の一つは、彼が表象主義的な言語観をとることはできないし、モデル論的な真理条件をとることもできないということである。「7は素数である」を例にとろう。この文の真理条件を、数字7の意味するものが「素数」という概念を満たすか否か、というような形で与えることはできない。なぜなら、数字7の意味、すなわち数7という対象の存在が前もって確保されているわけではないからである*3。そして、そのような数を導入する手続きを実行するにあたっては、われわれはすでに言語を用いなくてはならない。実際、『基本法則』の構造を考えてみれば、「7は素数である」の真理性を確保する手段は、真なる公理から、真理を保存する推論規則を介した導出以外に何もないのである。
これに対し、いやフレーゲは通常のモデル論的な真理条件を「充足」という言葉を使って与えているではないか、という反論があるかもしれない。たしかにフレーゲは次のように語っているからである。


つまり、我々の約定によって、どのような条件のもとでその名前が真を意味するかが確定するのである。この名前の意義、思想はこれらの条件が充足されているという思想なのである[Grundgesetze I, §32]。


この箇所は、フレーゲが真理条件的意味論の祖型を考えていた証拠としてしばしば言及される箇所である。しかし、引用中の最初の部分[を]よく見ていただきたい。「我々の約定」は、その前の節§31での約定であり、それは公理Vと、それに基づく真理値の定義である。したがって、そうした約定から「どのような条件のもとでその名前が真を意味するかが確定する」とは、公理や定義からの導出によって真と確定するということ以外の何ものでもない。それ以外の道は『基本法則』にはないのである。それゆえ、もしこの解釈が可能であるとすれば、真理値の名前(つまり文)の意義・思想、すなわち「これらの条件が充足されているという思想」は、公理からの導出にあたって、それら公理の前提条件が充たされているという思想であり、言い換えれば、それは証明条件にほかならない。
フレーゲについてのこうした読み方は、「意義」について従来とは違った見方を与えてくれるかもしれない。言明の意義が通常の真理条件によって与えられるとしよう。この場合、もしその言明が真理値を欠いているならば(例えば、その言明中の名前が指示対象を欠いているがゆえに)、その言明の真理条件もまた欠落していることになるであろう。したがって、このように考えるかぎり、フレーゲが、意義はもつけれども真理値をもたない文の存在を認めている、という事実はきわめておかしな事態だということになる。しかし、偽な前提や真偽の定まらない原理からの導出を認めることにまったく問題はない。もし意義が単なる真理条件ではなく、そのような導出への貢献をも含むとするならば、真理値を欠いた思想という発想に何の問題もないことがわかる。


興味を感じた点その1: Frege's Semantics is not Truth-Conditional.
まず最初に私が興味を感じたのは、通説だと、Fregeは真理条件的意味論の先駆者と考えられていると思われるのに対し、先生はそれを否定するような発言を上記の引用文中でなされているということです。
Frege の意味論を真理条件的意味論の先蹤とする通説は、例えば次のように述べています。

さてフレーゲは、主張文の意義を思想と称し、思想は「一般にそれについて真理が問題になりうる当のもの」「真理と密接に連関するもの」と規定している。さらに、「ある文の真理条件を知ることが、当の文の意義を理解することである」といういわゆる「真理条件的意味論」の locus classicus と称される規定を、フレーゲは次のように与えている。


(G) 「真理値名は、我々のトリキメによって、いかなる条件の下で真を意味するのか、それが規定される。これら真理値名の意義、すなわち、思想とは、これらの条件が充足されているという思想である」(GGA, I [Grundgesetze der Arithmetik, Band I], §32, S. 50)*4


また次は Frege に見られる真理条件的意味論が、Wittgenstein に伝えられ、展開せしめられたとの記述です。

まず、フレーゲとの対比でいえば、ウィトゲンシュタインは、[…] (5) 文の意味は否定するが、文の真理条件としての意義というフレーゲの考えを継承発展させ、真理条件的意味論の礎を築くことになる*5


私が知っていたところでは、Frege は真理条件的意味論の先駆者だった、というものでした。しかし金子先生によると、Frege は真理条件的意味論の先駆者ではなかった、と解し得る発言を上記最初の引用文中でされていると思います。これは私にとってちょっと驚きです。通説に反するという点でちょっと驚きです*6


興味を感じた点その2: Frege's Semantics is Proof-Conditional.
では金子先生は、Frege にとっての文の Sinn を、モデル論的な真理条件ではないとすると、それを何と解されるのであろうか。そのことを明らかにされている先生の文の一部を、再び次に挙げて確認してみよう。

真理値の名前(つまり文)の意義・思想、すなわち「これらの条件が充足されているという思想」は、公理からの導出にあたって、それら公理の前提条件が充たされているという思想であり、言い換えれば、それは証明条件にほかならない。

ここからして金子先生によると、文の Sinn とは証明条件のことである。では、証明条件とは何か。
私は最初、文の証明条件とは、証明自身のことなのだろうか、と思った。そこで仮に、証明条件とは、端的に言って、証明そのもののことであるとしてみよう。
しかし文の Sinn をその文の証明だとすると、不合理が帰結することがすぐにわかる。以下に四つ、不合理な点を指摘してみよう。


(1)
例えば、文の Sinn が証明だとすると証明がまだない文の Sinn はどうなるのだろうか。双子素数問題を表わす次の文「双子素数は無限個ある」を例に取るとよい*7。この文を理解することは可能だろう。そして誰もが、大なり小なり、似たような理解を持つであろう。ところで、ある文に対して誰もが共通に持つ理解の内容が、Frege にとって Sinn であった。したがって、双子素数を表わす文を通してその文の Sinn を私達は何らかの形で得ていると言えるだろう。しかし文の Sinn がその文の証明だとすると、私達は双子素数問題を表わす文の Sinn を得ていないことになる。これは矛盾である。


(2)
あるいは証明があるとしても極度に長い証明を持った式や文はどうなるのだろうか。例えば四色問題を表わす次の文「どの地図の領域も四色以下で塗り分けられる」を考えてみるとよい。この文を理解することは可能だろう。また誰もが似たような理解に達するだろう。しかしこの文の証明はコンピュータを使わなければ追えないほど極めて長い。そのような証明を一人の人間が survey することはできないだろう。するとここでも私達は一方でこの文の Sinn を把握しつつ、他方でこの文の Sinn を現実には把握できないということになる。ここにも矛盾がある。


(3)
あるいはまた、証明がない訳ではなく、かつその証明が極度に長すぎるということもない、そのような証明を持った式や文があるとしよう。そしてその式や文は簡単に理解できるものであるとしよう。この時、その式や文の証明が極度に難しく、ほとんどの人が理解できないとしてみよう。具体的にはフェルマーの最終定理を考えてみればよい*8。この定理自身を理解することは容易である。またこの定理には証明がある。しかも四色問題の証明ほど長くはないだろう。しかしほとんどの人にとって、この定理の証明は難しすぎて理解できないだろう。ここでの問題は、定理は簡単に理解できるのに、証明は簡単には理解できないという gap の存在である。ここにも矛盾がある。
以上は、文の証明のあるなしや、長短、難易度にまつわる話である。


(4)
これとはまた別に、ある文が公理そのものとなっている、そのような文を考えてみると、この文は自身が証明そのものである。このような文の把握には、循環もしくは論点先取が含まれてしまうだろう。例えばそのような文を‘S’と呼ぶことにすれば、S の証明が S の Sinn だとすると、S を把握するのに S 自身を持ってする、ということになってしまう。これは循環もしくは論点先取を示している。

以上から、証明条件を証明そのものと見なすことはできないであろう。そうすると証明条件とは証明そのものではなく、一体何だということになるのだろうか。



証明そのものが Sinn でないとすると、例えばその文の依拠する公理や定義が Sinn なのだろうか。金子先生の文の一部を今一度挙げてみよう。

真理値の名前(つまり文)の意義・思想、すなわち「これらの条件が充足されているという思想」は、公理からの導出にあたって、それら公理の前提条件が充たされているという思想であり、言い換えれば、それは証明条件にほかならない。

偽な前提や真偽の定まらない原理からの導出を認めることにまったく問題はない。もし意義が単なる真理条件ではなく、そのような導出への貢献をも含むとするならば、真理値を欠いた思想という発想に何の問題もないことがわかる。

前者の引用文中における「公理の前提条件」という部分が文の証明条件のことと、私には解することができる。そしてこの場合の公理の前提条件とは、公理という前提条件だ、と解することができるように思われる。つまり文の証明条件とは、その文の証明の前提となる公理のことであると思われる。

また後者の引用文からは、文の Sinn とは、その文の、何らかの原理からの導出に当たって、この導出に貢献するもののことであると解することができる。つまりある文が何らかの原理より証明されるに際し、この証明に貢献するものが、その文の Sinn である。ところで公理は、ある文の証明の際に、貢献するものの一つである。したがって、文の Sinn とは、その文の証明において前提されている公理のことであると解することは、少なくともこの場合、整合的である。

以上から結論として、金子先生は文の Sinn として、その文が証明される際の元となる公理をお考えになっていたであろうと推測できる。


さて今、文の Sinn とはその文の依拠する公理であるとしてみよう。
しかしそうすると不合理と見える事柄が、最低でも二つ帰結すると思われる。


(1)
例えば文の Sinn がその文が依拠する公理だとすると、同じ公理系の異なる定理は皆、同じ Sinn を持つということになってしまう。例えば Peano の公理系からは様々な定理が出てくるが、文の Sinn がその文が依拠する公理であるとすると、それらの定理は皆同じ内容を持つということになるだろう。しかしこれはまったく直観に反する。


(2)
また同じ定理が異なる公理系において証明されるということがある。命題論理の公理系を考えてみよう。
命題論理の公理系には様々なものがあることは、よく知られている。例えば33文字から成る次の式を一つだけ公理に持つ命題論理がある*9。この公理は Lukasiewicz が1930年に見つけたものだそうである。ポーランド記法で書き下す。

    • CCCpCqpCCCNrCsNtCCrCsuCCtsCtuvCwv.


また C. A. Meredith は1953年にこれより短い21文字から成る、命題論理の公理系となる唯一つの公理を見つけた。

    • CCCCCpqCNrNsrtCCtpCsp.


これらそれぞれの公理からなる命題論理の公理系は、当然完全であろうから、次の恒真な式が導かれるだろう。

    • Cpp.


この恒真式は、Lukasiewicz の公理系でも証明されるだろうし、Meredith の公理系でも証明されるだろう。
さて、ある文の依拠する公理がその文の Sinn だとすると、ある定理が、異なる公理から証明される場合、その定理は同時に異なる内容を持つということになる。上記の‘Cpp’は、異なる公理から証明可能なので、異なる Sinn、異なる内容を持つということになる。つまり‘Cpp’は、その内容として CCCpCqpCCCNrCsNtCCrCsuCCtsCtuvCwv と CCCCCpqCNrNsrtCCtpCsp とを同時に持つということである。しかしこれは明らかに私達の直観に反するであろう*10


こうして文の Sinn をその文の依拠する公理とすることには問題があると思われる。


では、文の Sinn とは公理だけでなく、公理からの導出過程をも含むものと考えられないだろうか。つまり文の Sinn とは、公理+導出過程である、とするのである。金子先生の文をもう一度挙げてみよう。

偽な前提や真偽の定まらない原理からの導出を認めることにまったく問題はない。もし意義が単なる真理条件ではなく、そのような導出への貢献をも含むとするならば、真理値を欠いた思想という発想に何の問題もないことがわかる。

文の Sinn とはその文の導出への貢献を含むものである、と読める。公理のみならず、公理からの導出自体もその文の Sinn の一部だ、とこの金子先生の文からは解することができるかもしれない。しがたって、文の Sinn とは、公理+導出過程である、としてみることも可能かもしれない。しかしそうするとこれは証明そのもののことである。Sinn が証明そのものだとすると、上記の Sinn≠証明 を示した反証の根拠がここでも妥当する。したがって Sinn を公理+導出過程とすることはできない*11


いずれにしても証明条件とは一体何であろうか。Frege の Sinn についての説明ではしばしば「〜への貢献」という文言が使われる。今回の例では「導出への貢献」という言葉が使われている。しかし私は個人的に常に思うのだが、「〜への貢献」という言葉はとてもあいまいに感じられる。これだけでは何ら実質を語ったことにはならないと思われる。雰囲気はわかるが雰囲気しかわからない。「〜への貢献」という場合、具体的で詳細なメカニズムを特定しない限り、何も達成されていないと思われる。導出への貢献ということは何であるのか、私はその点が詳しく知りたい。なお、一番最初にも述べた通り、金子先生のこの論文は、事柄の素描を与えることだけを差し当たり目指してお書きになられた論考なので、私はここで先生を批判しているのではなく、個人的にわからない点を書き止めているだけです。もちろん先生は「導出への貢献」と言うことで具体的に何をいみしておられるのか、そのお答えを既にお持ちであろうと思います。何かの機会にそのご説明を発表していただけると幸いです。私達の勉強にとっても大変助かります。


最後に、一つだけ追記しておく。それは私には厄介と感じられることである。
金子先生は先程からの引用文中で、次のように語っておられた。

もし意義が単なる真理条件ではなく、そのような導出への貢献をも含むとするならば、真理値を欠いた思想という発想に何の問題もないことがわかる。

この文章の前半では、文の Sinn が単なる真理条件ではなく、その文の導出への貢献をも含むものとするならば、と述べられ、「単なる〜ではなく」、「〜をも含む」と書かれている。これは通常の日本語理解からすると、文の Sinn とは、真理条件だけではなく、真理条件と、それに加えて導出への貢献をも合わせたもののことだ、と解される。つまりここでは文の Sinn とは、真理条件と証明条件だ、ということになる。図式的に書くならば

    • 文の Sinn = 真理条件 + 証明条件


である。単に文の Sinn が証明条件に尽きるとするならまだしも、その Sinn が真理条件と証明条件とを合わせたものだとすると、話がややこしくなってくるように思われる。両条件は、正確に言って、どのような関係にあるのだろうか。文の Sinn は必ず両条件を持つものなのか。一方だけ持って、他方は持たないということはあるのか。そもそも一番初めに引用した金子先生の文章では最初、文の Sinn は実は真理条件ではなく証明条件なのだ、と主張されていたように思われるのだか、ここに来て文の Sinn はやっぱり真理条件をも含むとすることは、一体何を表わしているのだろうか。


結局、文の Sinn を真理条件 + 証明条件とすることは、事をいたずらに複雑化させるだけなのだろうか、それとも難問題解決に対する福音なのだろうか。この部分の解明も待たれることになると思われます。

(以上の金子先生の idea に対し、いわゆる Proof-Theoretic Semantics や Conceptural Role Semantics は何か関係してくるのだろうか。この点はまた機会があれば追って勉強していきたいです。)


以上の記述においては、誤解や無理解や勘違いが多々含まれているものと思います。また誤字・脱字などもあると思います。前もってお詫び申し上げます。特に、はなはだしい無理解や生意気な物言いが含まれているとしましたら、金子先生にお詫び致します。大変すみません。今後とも精進致します。

*1:金子先生は、この先生の論文の論述について、「議論の全体はかなり見取り図的なものになる」と、164ページで断りを入れておられる。詳細に論を展開されている論文ではなく、事柄を素描されている限定的で暫定的な論文のようである。したがってこの点を踏まえ、以下では単に感想を述べ、個人的に思いついた疑問をただ提示するのみにとどめたい。

*2:金子、167-68ページ。

*3:使用と言及の違いを明確にしたい場合には、ここでの文章を次のように書き換えるとよいであろう。「この文の真理条件を、数字‘7’の意味するものが素数という概念を満たすか否か、というような形で与えることはできない。なぜなら、数字‘7’の意味、すなわち数7という対象の存在が前もって確保されているわけではないからである。」

*4:野本和幸、『現代の論理的意味論 フレーゲからクリプキまで』、岩波書店、1988年、41ページ。野本先生の原文に付されている傍点は、手間がかかるという理由だけで引用の際に省いている。この他に次も参照。飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、112ページ。また、Michael Dummett, “An Unsuccessful Dig: A Review of G. P. Baker and P. M. S. Hacker, Frege: Logical Excavations,” in his Frege and Other Philosophers, Clarendon Press/Oxford University Press, 1991, pp. 181-82.

*5:野本、『現代の論理的意味論』、97ページ。ここでも野本先生の付された傍点は省いている。

*6:例外のない規則がないように、分析哲学において、反論のない通説というものはないのでしょうけれど…。

*7:双子素数とは、5と7、11と13のように、その差が2であるような素数の組である

*8:n≧3 とする時、x の n 乗と y の n 乗の和は、z の n 乗に等しいという式を満足させる x, y, z の整数解はない。ただし、xyz≠0 とする。

*9:以下、本文中の二つの公理は次に見られる。井関清志、『記号論理学 (命題論理)』、数学選書、槇書店、1968年、102ページ。なおついでに記しておくと、次の書を見れば、Jan Wolenski, Logic and Philosophy in the Lvov-Warsaw School, Kluwer Academic Publishers, Synthese Library, vol. 198, 1989, p. 102, Lukasiewicz がさらに短い単独の公理を1936年に見つけていることがわかる。その公理とは23文字から成るもので、‘CCCpqCCCNrNstrCuCCrpCsp’である。

*10:だがこの場合、一つの定理が複数の Sinn/内容を持つということに、整合性を持たすことも可能かもしれない。問題の定理を各公理系に相対化してやれば、各々の公理系においてはどの定理も一つだけの Sinn を持つとすることが可能だろうからである。そうすると文の Sinn というものは、証明条件というものが何であれ、単なる証明条件ではなく、その文の証明条件とその文が定理となっている公理系との組だと考えられるかもしれない。文‘p’の Sinn を‘S(p)’と表わし、p の証明条件を‘B(p)’、p が含まれる公理系を‘A(p)’と表わすならば、文の Sinn とは次のように書ける。S(p) = < B(p), A(p) >. このようにすれば一つの文が異なる内容を持つということに整合性を持たせることができるだろう。そうすると次の問題は、どの文の Sinn についても常にその文が含まれる公理系が特定できなければならない、ということであろう。

*11:この他にもいくつかの疑問が思い浮かぶ。その疑問点だけを記しておく。(1) 今までは、真であるか、おそらく真であろう文について、その Sinn が証明条件だとする話を続けてきた。それでは偽である文の Sinn が証明条件だとすると、そのような偽な文の証明条件とは何であろうか。偽である文の典型である矛盾した文、例えば‘p∧¬p’などはその Sinn をどのような証明条件とすればよいであろうか。(2) また、文に Sinn があるように、文の部分表現にも Sinn があった。そうすると文の Sinn が証明条件だとすると、文の部分表現の Sinn は何になるのだろうか。例えば文に含まれる単称名や述語の Sinn は何になるのだろうか。これらの疑問に答えることができなければ、文の Sinn を証明条件とすることに今後希望を持つことは難しいであろう。しかしもちろん金子先生はこれらの疑問に答える用意は既にお持ちなのだろうと推測致します。