According to Frege, Natural Number Isn't a Property Attributed to Objects. Why Did He Think So?

Frege によりますと、自然数は対象に属している性質ではないそうです。なぜ彼はそのように考えるのでしょうか。また彼によるその根拠の一部は、自然数が対象の性質ではないとすることの決定的な理由となっているでしょうか。

自然数が対象であって、外界の事物の性質なのではないと Frege が言っていることは、比較的よく知られていることと思います。自然数が外界の事物の性質ではないことは、彼の Grundlagen, §§21-25, 29 に説明があります。そこでの説明もいいですが、先日、本を読んでいると、自然数が外界の事物の性質ではないとする非常に succinct な、印象に残りやすい解説が Frege によってなされているのに気が付きましたので、以下に引用してみます。引用文献の情報は次の通りです。

  • Gottlob Frege  ''Numerical Statements about a Concept,'' Winter Semester 1910-1911, dictated to Rudolf Carnap, in Erich H. Reck and Steve Awodey ed., Frege's Lectures on Logic: Carnap's Student Notes, 1910-1914, Open Court, Full Circle: Publications of the Archive of Scientific Philosophy, Hillman Library, University of Pittsburgh, vol. 1, 2004, p. 84.

ここでの説明は、Grundlagen, §29 の末尾に見られるものと同種のものなのですが、以下の引用文の方が、多分一目瞭然でわかりやすいかもしれません。そのような訳で、引用してみます。

In everyday language we take ''two'' and ''tall'' in ''two tall towers'' to be adjectives of equal status.


   But: each tower is tall

   not: each tower is two.


Plato already realized that the attribute ''one'' does not apply to the object, but the concept; for example: the concept ''chairs in the auditorium'' has the feature of uniqueness.

例えば今、向こうに二つの高い塔が見えるとしましょう。そこで「向こうに二つの高い塔が見える」と言えば、これは真です。ここから次のように言ったとしましょう。「あの向こうに見える左の塔は、高い。かつあの向こうに見える右の塔も、高い。」 これは真です。一方、次のように言ったとしましょう。「あの向こうに見える左の塔は、二つである。かつあの向こうに見える右の塔も、二つである。」 これは偽です。ここから推測できることは、次のようなことでしょう。即ち、高いということは、対象に備わったり備わらなかったりする性質と考えられますが、二つということは、そもそも対象に備わる備わらない云々を言えるようなものではない、ということです。より一般的に言えば、性質の或るものは対象について、属する属さないが問題となりますが、自然数は対象に属したり属さなかったりするということが、そもそも問題となるようなものではない、ということです。


上の引用文の最後辺りで、自然数が外界の事物の性質ではないことは、既に Plato が気が付いていた、と書かれています。Plato の著作のどこにそのようなことが書かれているのでしょうか。今引用した文献とは別のところで Frege 自身がその出典箇所をある程度明らかにしてくれています。次の文献がそうです。

  • Gottlob Frege  ''Aufzeichnungen für Ludwig Darmstaedter,'' in: Nachgelassene Schriften, Hrsg. von H. Hermes, F. Kambartel, F. Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, 邦訳、G. フレーゲ、「ダルムシュテッターへの手記 [1919]」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年

その箇所を引用してみます。ここでの引用文中の '[ ]' は引用者によるものではなく、訳者によるものです。

Von der Mathematik ging ich aus. In dieser Wissenschaft schien mir die dringlichste Aufgabe in einer besseren Grundlegung zu bestehen. Bald erkannte ich, dass die Zahl nicht ein Haufe, eine Reihe von Dingen ist, auch nicht eine Eigenschaft eines Haufens, sondern dass die Zahlangabe, die auf Grund einer Zählung gemacht wird, eine Aussage von einem Begriffe enthält. (Plato, Hippias d. Gr.*1 ) *2


私は数学から出発した。この学問における最も緊急の課題は、よりよき基礎づけを与えることにあるように私には思われた。間もなく私は、数がものの堆積や系列ではなく、また堆積の性質でもなくして、数えることに基づいてなされる […が幾つあるという] 個数言明が一つの概念についての言明を含む、ということに気づいた (プラトン 『ヒッピアス (大)』 [300e 以下])。*3


そこで、参考までに、Greater Hippias の該当箇所を、和訳から引用してみましょう。次の文献から引用してみます。

  • プラトン  「ヒッピアス (大) 美について」、北嶋美雪訳、『プラトン全集』、田中美知太郎、藤沢令夫編、第10巻、岩波書店、1975年

引用する前に、いくつか断っておきます。まず、「[300 B]」などは、ステファヌス版プラトン全集のページ数と各段落記号を、おおよそのところ表しており、翻訳文を参考に、引用文中に引用者によって挿入しています。「〔 〕」は翻訳者の挿入語句を表します。「[ ]」は、引用者によるものです。引用文中で「各々」、「各各」という、同じことの二種類の語句が現れていますが、それは翻訳のままに従っています。それらは翻訳文における行末の禁則処理の結果、生じている不統一性によります。そして翻訳文中の訳者による註は、すべて省いて引用します。また、翻訳書の原文にあった傍点は、太字にして引用します。但し、どちらのせりふかを示す Hippias と Socrates の名前と、章番号「二六」は、この限りではありません。

最初に簡単に内容を説明しておくと、以下の引用文中で、Hippias と Socrates は、ものに何らかの性質なり状態なりが、備わっているとか備わっていないということを、問題にしています。例えば、二人の女性がいて、彼女らの各々が美しいなら、二人としても美しいし、逆に、二人の女性が美しいならば、その各々も美しいでしょう。Hippias はこのように、各々が美しいなら二人としても美しいし、二人が美しいならば各々も美しいのであり、どんな性質や状態にしても、このようなもののはずだ、と主張しています。これに対し Socrates はその反対の論陣を張り、二つのものの各々が持っていても、二つのものとしては持っていないような性質なり状態なりがありえ、かつ二つのものが持っていても、その各々には備わっていない性質なり状態がありえると主張しています。

それでは引用します。

[300 B]

[…]

ヒッピアス いったいどうしてそんなことがありえよう、ソクラテス、二つのうちそれぞれどちらも何らかの性状をもっていないというのに、両方としては、それぞれがもっていないその当の性状を、もち合わせているなどということが−。
[300 C] ソクラテス あなたは、そういうことがありうることだと思いませんか?

[…]

[300 D]

[…]

ヒッピアス […] つまり君は、ぼくも君ももち合せていない性状、それをわれわれ両人としてはもち合わせている、などということを見いだすようなことはけっしてあるまい[…]ね。
[300 E] ソクラテス どういうことをおっしゃっているのですか、ヒッピアス? おそらくあなたは一理あることを言っているのでしょうが、わたしにはわかりかねます。が、わたしの言わんとするところを、わたしの口からもっとはっきり聞いてください。つまりわたしも、そうあることを性状としてもってもいないし、現にそうありもしない、またあなたにしてもそうありもしないそういう性状、それをわれわれ両人としてはもち合わせている、ということがありうることだとわたしには思えるのです。他方逆にまた、われわれ両人としてはそうあることを性状としてもっているもので、われわれのいずれもないということもね。
ヒッピアス 君はどうも、ソクラテス、またしても、もう少し前の君の答えよりもさらにはなはだしい奇怪な答えをしているようだ。いいかね、よく考えてもみたまえ。それそも [ママ] われわれ両人が正しいなら、われわれ各人としてもまた正しいのではないだろうか? あるいはもしわれわれ各人が不正なら、両人としても不正なのでは [301 A] ないだろうか? あるいは両人が健康なら、各人としても健康ではないだろうか? あるいはもしわれわれ各人が何かしら体を悪くしていたり、怪我をしていたり、打撲していたり、あるいはその他何であれ患いを身に受けているとしたら、そうした患いをわれわれ両人としてもまた身に受けているのではないだろうか? さらにもしわれわれ両人が黄金であるとか、銀であるとか、象牙であるとかするなら、またなんなら高貴の生まれであるとか、賢いとか、名誉があるとか、あるいは年をとっているとか、若いとか、あるいはその他、人間の身の上に見受けられるもののどんなことでもよいが、そうした何かでたまたまあるならば、われわれ各人としてもまたそういうものであるのは、必然性の大なることではないかね?
[301 B] ソクラテス むろんそうですとも。
ヒッピアス たいたい君はいけないのだ、ソクラテス、事物の全体をよく見てみないのだからねえ。君のみならず、君がいつも問答をするのを習わしとしているあの連中にしてもだが。−全体をよく見ないで、君たちは美や存在する一つ一つのものを〔全体から〕抜き取って、議論のなかで細かく切り分けて、験してみるのだから。それゆえにこのように、本来大きくて連続したものである実在の全体が、君たちには気づかれないのだ。そしていまもいまとて、それに君は気づいていないことかくのごとしで、いま言ったようなものの両方に関しては同時 [301C] にあるのに、それぞれに関してはないとか、もしくは逆に、それぞれに関してはいずれにもあるのに、両方に関してはないといったような、何かものの性状なり、在り方なりがあると君は思っているといったありさまなのだ。これほどまでに君たちときたら考えることに理を欠き、思慮が足りず、単純、無知なのだ。


二六


ソクラテス われわれの身の上のことは、ヒッピアス、人々がよく口にするあの諺にあるように、「希うがごときものならず、能うかぎりのもの」ですよ。でもあなたに忠告していただいて、いつもわたしたちには為になるのです。げんにいまも、あなたにこうしたことを忠告していただかなかったうちは、わたしたちがどんなに愚直な心情にあったか、このうえなおあなたに披露しましょうか−これらの問題についてわれわれが考えていた [301 D] ところをお話しして。それとも言うには及びませんか?
ヒッピアス 知っている者に君は言うことになるだろうがね、ソクラテス。ぼくには言論に携わる人たちが各各どういう心情か、よく知っているからね。しかしまあ、もし君にそのほうがいくぶんでも望ましければ、言いたまえ。
ソクラテス ええ、それはもう、そのほうが望ましいですとも。わたしたちは、すぐれた人よ、あなたがそれを言ってくださらないうちは、これほどまでに馬鹿だったのです、−わたしとあなたについて、われわれの各各一人だが、両人としては、われわれの各々がそうであるようなものではありえないだろう−なぜなら、われわれは一人ではなく二人なのですからね−と、このような考えをもっていたほどわたしたちは愚直だったのです。
[301 E] ところがいまではもはや、あなたからもっとよく教えていただきました、−もしわれわれ両人が二人ならば、われわれ各人も必ず二人でなければならないし、各人が一人なら両人としても一人でなければならない、と。というのはヒッピアスによるところの存在の寸断されていない連続性をもった規定にしたがえば、そうではない別の在り方はありえないのであって、もし両方がそれであるならば、それぞれとしてもそのものであり、またもしそれぞれがそれであるならば、両方としてもそのものでなければならないのですから。
かくていまやわたしは、あなたにすっかり説き伏せられて、ただここにこうしてじっと坐っているばかりです。ただ、ヒッピアス、その前に次の点に関してわたしに思い出させてください、−わたしとあなたとでは一人なのですか? それともあなたは二人であり、わたしも二人なのですか?
ヒッピアス 何のことを言っているのかね? ソクラテス
ソクラテス まさにお聞きのとおりのことですが。実はわたしははっきり申しあげるのがこわいのです。あな [302 A] たはご自分が何か一理あることを言っていると信ずる場合にはいつも、わたしに腹を立てますからね。それでもなお、どうか言ってください。われわれ各人は一人であり、そしてまたそれを、つまり一人であるということを、性状としてもっているのではありませんか?
ヒッピアス たしかに。
ソクラテス ではいやしくも一人なら、われわれ各人はまた奇数でもあるのではありませんか? それとも一は奇数とは考えませんか?
ヒッピアス 考えるとも。
ソクラテス はたしてそれでは、両人としても奇数ですか? われわれ両人は二人ですが。
ヒッピアス そんなことはありえない、ソクラテス
ソクラテス そうではなくて、両人としては偶数である。そうでしょう?
ヒッピアス むろん。
[302 B] ソクラテス ではよもや、われわれ両人が偶数であるからといって、そのために各人としてもまた偶数であるということはありますまいね?
ヒッピアス いや、けっしてない。
ソクラテス してみると、いまさっきあなたが言っておられたように、もし両人がそれであるなら、各人としてもそのもので必ずなければならないし、また各人がそれであるならば、両人としても必ずそのものでなければならないという絶対的な必然性はないわけですね?
ヒッピアス たしかにその種のものはそうでないかもしれないが、ぼくが先に言っていたようなものはそうだ。*4


二人の美しい女性が美しいならば、その各々の女性も美しい。その各々の女性が美しいならば、その二人の女性も美しい。美しいということは、複数のものに当てはまる場合には、各々の単数のものにも当てはまり、各々の単数のものに当てはまるならば、複数のものにも当てはまります。

では数についてはどうだったでしょうか。二つの高い塔は二つですが、各々の塔は二つではありません。一方、各々の塔は一つですが、二つの高い塔は、一つではありません。二つということは、複数のものに当てはまる場合があっても、各々の単数のものには当てはまりません。また、一つということは、各々の単数のものに当てはまっても、それら単数のものから成る複数のものには当てはまりません。一般に、数は、複数のものと、それを成す単数のもの、および単数のものと、それから成る複数のもの、これら複数から単数へ、単数から複数へと、自在に当てはめることができません。

しかし、これは数が対象の持つ性質ではないことを表しているのでしょうか。複数のものに当てはまれば単数のものにも当てはまり、単数のものに当てはまれば複数のものに当てはまる、数についてはこのことが成り立たちませんが、よく考えてみると、これが成立しないのは、何も数に限ったことではありません。

例えば、丸い小石がたくさんあるとしましょう。個々の小石は丸い。これら丸い小石を積み上げて、円錐形を作ったとしましょう。すると小石たちは円錐形をしています。これはつまり、各々の小石は丸いが、小石全体は円錐形であるということです。丸いということは、単数の小石には当てはまりますが、複数の小石には当てはまりません。あるいは逆に、複数の小石は円錐形ですが、このことは単数の小石には当てはまりません。
また例えば、Socrates は体重 80kg としましょう。また、Plato も体重が 80kg としましょう。すると Socrates と Plato とで 80kg でしょうか。そんなことはありません。各々が 80kg であるとしても、二人では 160kg です。体重は各人に当てはまっても、両人には当てはまりません。逆に両人が 160kg であっても、各人まで 160kg であることが当てはまる訳ではありません。
あるいは例えば、個々人の奢侈 (luxury) は私悪 (private vice) であり、はっきり言ってしまうと一種の悪徳 (vice) とも言い得ますが、一つの社会や一つの国としてみれば、それは公益 (public benefit) に適っており、美徳 (virtue) とも言い得ます(Bernard Mandeville)。この逆もまた真であり得ましょう。*5

すると、今の例からするならば、複数のものが単数のものに当てはまらず、単数のものが複数のものに当てはまらないことにより、数が性質ではないというならば、取り分け、個々のものに実際備わっていると思われる形や重さも対象の性質ではないということになってしまいます。しかし、形や重さが性質の一種ではない、などということはないでしょう。

したがって、複数のものが単数のものに当てはまらず、単数のものが複数のものに当てはまらないことが、何らかのものについて、それが性質ではないということの印なのではないと結論してよいように思います。この結論から、一番最初に引用した Frege の説明は、数を性質ではないとする説明としては、決定的なものではない、ということを表していると考えられます。


それでは数が対象の性質ではないとする決定的な論証は、あるのでしょうか。あるとするならば、それはどのようなものなのでしょうか。それがあるのかどうか、決定的かどうかもわかりませんが、Harold Noonan さんは、Frege の言葉を引用しつつ、次のように言っています。複数のものが単数のものに当てはまらず、単数のものが複数のものに当てはまらないことは、それが性質でないことをいみしているのではありませんが、

However, this suggestion, too, is open to a fatal objection. For:


If I give someone a stone with the words: find the weight of this, I have given him precisely the object he is to investigate. But if I place a pile of playing cards in his hand with the words: find the number of these, this does not tell him whether I wish to know the number of cards, or of complete packs of cards, or even, say, of honours cards at skat. To have given him the pile in his hands is not yet to have given him completely the object he is to investigate. I must add some further word - cards or points or hounors. [Grundlagen, §22]


Frege hammers home the point with other examples: I am able to think of the Iliad as one poem, or as twenty-four books, or as some large number of verses. One pair of boots may be the same visible and tangible phenomenon as two boots. But, just as 'if I can call the same object red and green with equal right, it is a sure sign that the object named does not really have the colour green, so, an object to which I can ascribe different numbers with equal right is not really what has a number' [Grundlagen, §22]. *6

一つの対象に、何らの留保もなく、異なる数が帰されるならば、不整合に陥ります。例えば上記引用文中にもあるように、Iliad は全体としては一つの叙事詩ですが、その構成を見ると、二十四の巻からなり、これら各巻はまた多数の連から成ります。それは全体としては一つの詩なので、その部分である巻数や連の数も一つかというと、そうではありません。つまり複数からなるものが、その構成要素である単数のものにそのまま当てはまるかというと、そうではありません。逆に、多数の連から Iliad は成るので、Iliad 全体は多数あるのかというと、そんなことはありません。つまり単数の各構成要素に当てはまるものが、それら複数のものによって構成される全体にそのまま当てはまるのかというと、そうではありません。これら全体とか巻数とか連などを無視して、Iliad という対象を、何の留保もなく、「Iliad は一つであり、かつ二十四であり、かつ多数である」と言えば不整合であり、訳がわかりません。一つであることや二十四であることや多数であることなど、これらの数が物質的な対象としての Iliad に何の留保もなく帰されるならば、筋が通らず訳がわかりません。このことは、一つであることや二十四であることや多数であることなどの数の担い手が、Iliad という物質的な対象ではないことを表していると考えられます。そこでこれに対し、それらの数が Iliad という対象の、何についてのものなのかを考えてみるならば、筋が通り了解可能となります。それらの数が Iliad という対象の、何についてのものなのかと言えば、それは Iliad という対象の全体であるとか、巻数であるとか、連であるとかという事柄、Frege の考えに即して言うならば、概念についてのものであることがわかります。つまりこの場合、一つであることや二十四であることや多数であることなどは、それぞれ異なる概念に関することになり、それぞれ異なる概念について、それぞれ異なる数を帰属せしめるならば、筋が通って何ら問題は生じません。ここからわかることは、数とは対象に直接帰されるものではないが、その対象が帰属する概念に帰されるものであろう、ということです。つまり、数は、対象の性質ではないが、概念の性質である可能性がある、ということです*7

こうして、数が対象に直接帰される性質の類いではなかろう、ということはわかります。しかしそれは依然として性質でありうるかもしれません。それは概念の性質の一種であるかもしれません。多分、以上の論証だけでは数が何であれ性質ではないとすることの決定的な論拠とはならず、別の論証によって数が性質ではなく対象であることを立証してみせねばならないでしょう。そのような、Frege による立証の事例は、Grundlagen を再びひも解かねばなりませんが、今日はここまでとしておきます。


以上の記述について、誤解や無理解や、誤字、脱字等がございましたら、誠にすみません。お詫び申し上げます。

*1:引用者註: ここで遺稿集の編者たちは、編者註を付しており、それによると Frege は Greater Hippias ということで、その 300e 以下のことを暗に示しているのだ、と言っています。

*2:Frege, ''Aufzeichnungen für Ludwig Darmstaedter,'' S. 273.

*3:フレーゲ、「ダルムシュテッターへの手記 [1919]」、263ページ。

*4:プラトン、「ヒッピアス (大) 美について」、58-63ページ。

*5:ここで挙げた例のうち、形や重さを使った例は、Harold W. Noonan, Frege: A Critical Introduction, Polity, Key Contemporary Thinkers Series, 2001, p. 93 にある話を少し補足、修正して援用させていただきました。

*6:Noonan, Frege, pp. 93-94.

*7:数が概念についての性質の一種である可能性については、この日記項目中、最初に引用した Carnap の手になる Frege 講義録の最後の文をご覧下さい。この可能性があり得なくもないことが、そこから読み取れます。しかし Frege としては数はあくまで対象なのでしょうが…。