Aristotle, Phyllis, and The Condemnation of 1277

ちょっとしたことを一つ。


昨日、古書店で次の本を何気なく手に取って中を見ていた。

  • 藤代幸一  『記号を読む旅 ドイツ中世文化紀行』、法政大学出版局、1986年

この本は、買って帰っては来ませんでしたので、今手元にはないのですが、その本の第二章に、この日記の初めで掲げているような写真*1が白黒で載っていたと記憶しています。私にとっては見覚えのある写真です。随分前に見たことのある写真ですが、その内容がちょっと変わっていたので今でも覚えています。どこで見かけたのか、はっきり思い出せないのですが、何かの journal の後ろの方のページで、広告の中に使われていたと思います。Jounal of Philosophical LogicSynthese か何かだったと思います。あるいは Brill の catalogue か何かだったかもしれません。取り合えず、どこで見かけたかはさて置いて、写真に写っている人物ですが、右側でお馬さんの格好をしているのが Aristotle です。Aristotle がお馬さんになって女性を上に乗せています。随分前に初めてこの写真を見た時、「何なんだろうな、この絵柄は? 変だなぁ」と思ったことを覚えています。その時は、そう思っただけで、それっきり忘れていました。そして昨日、上記の藤代先生の本を開いて見ていると、再びこの写真に出会った訳です。そこで、その本を拾い読みしてみると、中世のヨーロッパで広まっていた逸話を表現したものらしく、割と有名なようです。12世紀 Renaissance 以降、Aristotle は非常な影響力を持ったようですが、先の逸話はこの偉い大哲学者の威信を失墜させるようないみ合いを持っていたみたいです。
その逸話をものすごく簡単に言うと次のような感じです。Aristotle は Alexander the Great の教師をしていましたが、Alexander が侍女 (らしき) 美人の Phyllis に熱を上げて、勉強に身が入らなくなったので、Aristotle は二人の仲を裂いたらしい。それに対し Phyllis は怒りました。そこで復讐のために Aristotle を誘惑しました。Phyllis に目がくらんだ Aristotle は、Phyllis にお金と引き換えに一つになろうと持ちかけました。Phyllis は、「お金と引き換えなんてまっぴらゴメンよ、だけど私の言うことを聞いてくれたら、希望をかなえてあげる」というようなことを言いました。そしてその希望が「私のお馬さんになって」ということでした。それで Aristotle は Phyllis を上に乗せて、パッカ、パッカ、とやりました。しかしそれは宮廷の人たち (と Alexander ) に見られていて、この見苦しい話は、すぐに宮廷中の人々の知られるところとなりました。さすがの Aristotle も、このようなみっともない醜態を晒したことに耐えられず、じきに宮廷を後にしたということです。
この逸話には多少の variation がいくつかあるようで、今私が述べたものとは少し異なる話をしているものもありますが、大体今述べたような感じです。そしてこの逸話の最も印象的な情景を絵柄にしたのが、この日記の top で掲げている写真という訳です*2。昨日、藤代先生のご高著を拝見するまで、この逸話は知りませんでした。今ようやく、馬になった Aristotle の奇妙な絵柄のいみがわかりました。
後で net で調べてみると、今述べている情景を絵柄にしたものが、これまでにも多数存在するようで、いくつもの画像が net で見つかります。その筋ではかなり有名なようですね。こんなによく知られている話だとは、気が付きませんでした。なお、次の文献が net から無料で DL できるのですが、

こちらでは、上記の逸話と類似の逸話を歴史的にさかのぼって調べておられます。随分似たような話がいっぱいあるようです。大変だな、これは。


しかし、なぜ上記のような逸話が生まれたのでしょうか? それは13世紀後半辺りにおいて、いかなるいみ合いを持って、世間に流布していたのでしょうか? これは Logica nova を勉強する学生たちに、何がしかの動揺を与えたのでしょうか? もしかしてもしかすると、これは Étienne Tempier の陰謀でしょうか? まさか、そんなことはないとは思います。しかし、このような噂、逸話を Paris の偉い人たちが Latin Averroists を非難し、貶めるために利用したということは、あり得ないでしょうか? どうだか私にはわかりません。にわかにはあり得ないように思われますが、以下の文献を見ていると、さもありなん、と感じなくもありません。

というのは、山内先生のこの文を読んでみると、Latin Averroism に対する反対は、単に神学と哲学の中の意見の違いということを、はるかに超えて、それは政治的闘争の現れと言えるようで、Paris 大学のある教授たちの group が、別の教授たちの group を抑え付けるために、例の1277年の禁令を引き出し、利用したと、捉えることができると、思えなくもないみたいで*3、そうなると、急進的 Aristotle 主義者の評判を落とすために、回りくどいやり方ではありますが、お馬さんになった Aristotle の話を、尾ひれを付けて巷に流し、世間に対して Latin Averroists (とされている人たち) の negative な印象を植え付けるという効果を図った、などということも絶対にない、とはあながち言えないようにも思えて来ます。さて、どうだかわかりませんけれども…*4。やっぱり、そんなことはあり得ないでしょうね。ふと、そんなふうに空想してしまいました。


間違っていたらすみません、というか、間違っていると思います。ここで前もって、ありうるであろう誤字、脱字等を含めてお詫び致します。

*1:この写真は Wikimedia からお借りしております。既に public domain に属する写真のようですので、使用させていただいております。誠にありがとうございます。

*2:ここで改めて、この写真の名称を記しておきます。Aristotle's Fall, Malterer Tapestry, Augustiner Museum, Freiburg im Breisgau, Germany.

*3:山内、567-574ページ。なお、山内先生は「Latin Averroism に反対するため、Paris 大学のある教授たちが、別の教授たちを抑え付けるべく、1277年の禁令を Tempier から引き出し利用したのだ」とは述べておられません。先生の文を私が読んで、私個人がそのように深読みをしただけです。繰り返しますが、これは私の勝手な解釈で、山内先生がこのようなことを露骨に直接述べておられるということではありません。間違いがありましたら、その非は私にありますことを、ここに確認しておきます。

*4:ちなみに、1277年の禁令については、膨大な研究の蓄積があるようで、色々な見解が出されているみたいですので、山内先生のように政争としての側面を割と前面に押し出して 1277年の禁令を理解するという方もいらっしゃれば、政争という側面を脇にやり、学問的理論的側面を重視して1277年の禁令を理解するという研究者もおられるようですので、私の以上の話は、おわかりだとは思いますが、読者の各々の方が 1277年の禁令や Latin Averroism を勉強された上で、判断して下さい。「学問的理論的側面を重視して1277年の禁令を理解するという研究者」のお一人と考えられるのは、私が誤解していなければ、例えば、川添信介先生で、先生の「西欧13世紀中葉における哲学の諸概念」 、京都大学博士学位論文、2003年、第1章 1277年の禁令の問題、第2章 急進的アリストテレス主義の哲学、を参照下さい。また、Hans Thijssen, ''Condemnation of 1277,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Jan 30, 2003 の解説も、政治的闘争という側面は、控えめに私には映りました。最後に蛇足を一つ。今日、次のような本が出ていることにたまたま気が付きました。Andrew E. Larsen, The School of Heretics: Academic Condemnation at the University of Oxford, 1277-1409, Brill, Education and Society in the Middle Ages and Renaissance, vol. 40, 2011. この本の description に、以下のような文が見られました。'[This work] argues that condemnation did not happen purely for reasons of theological purity, but reflected social and institutional pressures within the university' だそうです。こちらの著者は、禁令の政治的側面に注目されているようですね。(この本自体は、私は未見です。)