Who Was the First to Discover the Distinction Between Sinn and Bedeutung? Frege? No, No. Alice, Alice Through the Looking-Glass!

先日、次の本を購入しました*1

  • Philip E. B. Jourdain ed.  The Philosophy of Mr. B*rtr*nd R*ss*ll: With an Appendix of Leading Passages from Certain Other Works, Routledge, Routledge Library Editions: Russell, vol. 6, 1918 / 2013

前々回の日記で、この本の内容の一部をご紹介致しましたが、もう一度だけ、今回紹介してみようと思います。

今日、ご紹介するのは次の chapter です。

  • Chapter XXIII  Denoting*2

この chapter は極めて短いので、そのすべてを以下で引用してみます。併せて、試訳も付します。試訳は私によるものですので、間違っている可能性が非常に高いですから、英語がちゃんと読める方は、試訳を無視してください。前もって、含まれているであろう誤訳に対し、お詫び申し上げます。大変すみません。下記引用文中にある脚注は引用者によるものです。また、引用文中の 'M.' は、Jourdain さんご自身が付けられている註の印です。他に一ヶ所、Jourdain さんの註があるのですが、以下ではそれを割愛しました。それでは、何とはなしに愉快な原文をお楽しみください。

A concept denotes when, if it occurs in a proposition, the proposition is not about the concept, but about a term connected in a certain peculiar way with the concept.*3 Some people often assert that man is mortal, and yet we never see announced in The Times that Man died on a certain day at his villa residence ''Camelot'' at Upper Tooting*4, nor do we hear that Procrastination was again the butt of Mr. Plowden’s jokes at Marylebone Police Court last week*5.
 That two phrases may have different meanings and the same denotation was discovered by Alice and Frege. Alice[M.] observed that the road which led to Tweedledum’s house was that which led to the house of Tweedledee*6; and Frege pointed out that the phrases ''the house to which the road that leads to Tweededum’s [sic] house leads'' and “the house to which the road that leads to Tweedledee’s house leads'' have different Sinn, but the same Bedeutung*7.


M. DENOTING.

T. L. G.[Through the Looking-Glass], p. 43: Tweedledum and Tweedledee were, in many respects, indistinguishable, and Alice, walking along the road, noticed that ''whenever the road divided there were sure to be two finger-posts pointing the same way, one marked 'TO TWEEDLEDUM'S HOUSE' and the other 'TO THE HOUSE OF TWEEDLEDEE.'
'' 'I do believe,' said Alice at last, 'that they live in the same house! ...' ''



概念が denote するのは、それが或る命題に現われているとき、その命題がその概念についてではなく、その概念に或る特別な仕方で関係付けられている term についてのものである場合である。人間は死すべきものであるとしばしば言う人がいるが、London の日刊紙 The Times 紙上において、某日、London 郊外南部、Upper Tooting の Camelot 邸で、人間が亡くなったと報じられるのを決して誰も見たことはないし、先週、Marylebone 簡易裁判所で、公判延期を目がけて、Plowden 氏が joke をまた浴びせかけたなどとは、誰も聞いたことがない。
二つの語句が異なる meaning を持ちながら、同じ denotation を持つことができることを見い出したのは、Alice と Frege であった。Alice は[M.]、Tweedledum の家へ通じる道が、Tweedledee の家へ通じる道でもあることに気が付いた。そして Frege は、語句「Tweedledum の家に通じている道から行ける家」と「Tweedledee の家に通じている道から行ける家」が、異なる Sinn を持ちながら、しかし同じ Bedeutung を有していることを指摘した。


M. DENOTING.

T. L. G.[『鏡の国のアリス』], p. 43: Tweedledum と Tweedledee は、多くの点で、区別がつけられませんでした。Alice は森の中の一本道を歩きながら気が付きました。「この一本道がわかれている時はいつだって同じ方向を指さしている二つの道しるべが確かにあって、一つは「TWEEDLEDUM 家へ」と記されていて、もう一つは「TWEEDLEDEE の家へ」と記されているわ。」 そして Alice は、とうとう察して言いました。「二人とも、きっと同じ家に住んでいるのよ!... 」

さて、Alice の Through the Looking-Glass が出版されたのは、1872年です。一方、Frege の Sinn und Bedeutung が世に出たのは、1891年です*8。ということは、ちっちゃな Alice の方が、偉大な Frege よりも先に、極めて有名な Sinn und Bedeutung の区別に気付いていた訳だ。なるほど、Alice はちっちゃいけれど、Frege よりも偉大だ、ということになりますね。

*1:購入しましたが、この本は net で無料で誰でも全文を見ることができます。検索すれば net 上ですぐに見つかります。ただし、原書と比較すると、一部、特に断ることなく、誤字などが net 版では修正されていることがわかりました。学術的な目的からこの本を引用したり参考にしたりする場合は、正確を期すために、原書に当たられた方が無難だと思います。

*2:Jourdain, p. 53.

*3:例えば、「すべての人間は死すべきものである」という文の「人間」という言葉は、ある時期までの Russell さんによると、まず、人間という概念を表し、それからこの人間という概念が、個々の具体的な人間、例えば Plato や Aristotle などなどを表すとされています。(ここと以下で「表す」という言葉は、学術用語ではなく、前理論的に使っています。) 概念が denote するとは、今述べた例では、人間という概念が個々の具体的な人間である Plato や Aristotle などを表すことを言います。

*4:例えば、「Plato は死すべきものである」という文の「Plato」という言葉は、常識的には、direct に Plato 本人を表していて、左記の文では、それが死すべきものであると言っています。一方、「すべての人間は死すべきものである」という文における「人間」という言葉は、ある時期までの Russell さんによると、direct に個々の人間である Plato などを表しているのではなく、まずは人間という概念を表し、それからその概念が個々の Plato などを表すとしています。一見、言葉というものは、direct にそれが表すものを表しているように見える場合もありますが (左記の Plato の例)、ある時期までの Russell さんによると、それが表すものを indirect に表している場合もあると考えていました (先ほどの「すべての人間」に関する例)。というのも、もしもすべての言葉が direct にそれが表すべきものを表しているならば、「すべての人間は死すべきものである」という文における「人間」という言葉は、人間という概念を direct に表し、そしてこの概念が、左記の文では、死すべきものであると言っていることになってしまいます。しかし、実際には、私たちは人間という概念が死すべきものであるなどとは言いませんし、人間という概念が London の Upper Tooting にある Camelot 邸で某日死去したなどとは言いません。こうして、この註を付している文は、ある時期までの Russell さんの、ある種の言葉は indirect に何かを表すという見解の、戯画化した表現になっています。

*5:この文も、ある時期までの Russell さんの、ある種の言葉は indirect に何かを表すという見解の、戯画化した表現になっていますが、Plowden さんが一体誰なのか、私は知りません。Marylebone Police Court というのも、正確には私は知りません。London 市内に確かに Marylebone というところはあるようですし、そこに警察署もあるようですが、この裁判所がその警察付属の簡易裁判所らしいということぐらいしかわかりません。そこで、裁判の遅れか何かに関し冗談を飛ばすことが、何のことなのか、正直に言って私はよくわかりません。この本の出版された当時の London で、何か事件でもあって、そのことにかこつけて Jourdain さんは何か述べているのかもしれませんが、そこまで調べている時間もないので、大体のところを下記で試訳として付しました。誤訳していましたらすみません。いずれにせよ、この註を付している文の、一つ前の文における人間という概念の例と同様に、ある時期までの Russell さんによると、'Procrastination' という言葉は、procrastination という概念を表しつつ、indirect に個々の具体的な事態を表しているとしなければならないという訳です。

*6:鏡の国のアリス』で、Alice は森の中の一本道を歩いてゆきますが、ところどころ二手に分かれているところに出会っても、いつも同じ方向を指さした二つの標識があって、Tweedledum と Tweedledee という双子が一緒に住んでいる家が案内されています。標識の一つは 「Tweedledum の家」と書かれていて、もう一つは「Tweedledee の家」と書かれて、どちらの標識も同じ方向を指しています。これを見た Alice は双子の Tweedledum と Tweedledee が同じ家に住んでいると気づきます。つまり、「Tweedledum の家」という表現と「Tweedledee の家」という表現は、異なる meaning を持ちつつ同じ denotation を有していることに Alice は気付いたという訳です。この註を付している文にある Jourdain さんの註 M. は、以上のことを述べています。

*7:この文における Frege の Sinn が、Alice の場合の meaning に当たります。少し前の Russell の例で言えば、ここでの Sinn は、人間という概念に当たります。また、この註を付している文における Frege の Bedeutung は、Alice の場合では denotation に当たり、Russell の場合では、引用者が例示した Plato や Aristotle に当たります。

*8:少なくとも1892年ではありません。念のため。