Do You Need the Foundations of Mathematics?

先日入手した次の文献について、

  • 岡本賢吾  「論理学/数学の哲学における概念分析は、形而上学の動態化にどう寄与しうるか 〈遷移構造の意味理論〉の現況と今後を瞥見する」、2011年度哲学若手研究者フォーラム講演要旨、『哲学の探求』、哲学若手研究者フォーラム刊、第38号、2011年

この岡本先生の講演要旨を拝読して、個人的にちょっと意外に感じたことがありました。今までいろいろ岡本先生の文章は拝見させていただきましたが、どれもはずれがなく、当りばかりで満足しておりましたものの、今回拝読した講演要旨は、私が誤解していなければですが、ごく個人的にはちょっと想像していたものとは異なり、「岡本先生にしては、「とんがって」いないのは、どうしたことだろう?」という感じを受けました。学会誌に載った論文から、商業誌に載った論文、それに出版社の PR 誌に載った軽い読み物まで、先生の書かれたものは、あれこれ拝見させていただきましたが*1、どれも刺激的で深い洞察が垣間見られ、いずれも重要性を感じさせられました。なかには technical すぎて、私には理解できないものもありましたが…。しかし、今回の講演要旨は、個人的には「う〜ん、どうなんだろう?」と思わせるものがありました。大変生意気を言って、誠にすみません。とにかく意外です。岡本先生の書かれた文章では、初めてです、このようなことは。ただし、私が誤読している可能性は非常に大きいですが…。その先生の文章を引用してみます。なお、講演要旨の表題と、実際に書かれていることとは大きく異なっていて、実際書かれているのは、「論理学の哲学/数学の哲学は、そもそも何を主題とし、また目標とするのか」(187) *2 という問題に対する岡本先生の回答です。この回答には大きく言って二つの答えが与えられており、以下に引用する文章は、二つの答えのうちの、一つ目に関わるものです。それでは、途中で区切りを入れ、個人的な感想を記しながら、引用してみます。繰り返しますが、引用文以外の私の考えが記されているところは、単なる感想、印象です。何か確かな証拠をもとに、決定的な論証を展開し、反駁できないような主張を提示しているというのではございません。間違いが含まれていましたら、謝ります。大変すみません。

現在、論理学・数学の理論発展はますます急速化し、その内容面での抽象化・複雑化の度合いもますます高まっていて、これらの科学に多少でも関心を持つ人は、その理解・習得のために決して軽くない労力を費やすよう強いられている。とりわけ [論理学と数学の] 専門家の場合は、ほとんどその認知能力の限界を超えるほどの理論習得を求められ、しかもそれでも必ずしも及ばず、結果として、長年これらの科学に従事してきた人であっても (もちろん様々の例外的ケースはあるにせよ) 個々人単位では局所的な諸事項に通暁するのがやっとで、それを超えた論理学・数学についてのトータルな見通しといったものは、十分に獲得できないで終わってしまうのがほぼ当たり前になりつつある。
 ところで、論理学の哲学/数学の哲学が目指しているのは、ある意味でまさにそうした「トータルな見通しを持つ」という不可能事そのものだと言えよう。(188)

数学や論理学は、現在、質・量とも爆発的に発展しているので、一個人が数学なら数学の、トータルな見通しを持つということは、ほとんど不可能である、とこの引用文では述べられていると思います。このことは、「きっとそうだろうな」と感じますので、私も同意致します。しかし、「論理学の哲学/数学の哲学が目指しているのは、ある意味でまさにそうした「トータルな見通しを持つ」という不可能事そのものだと言えよう」という発言に対しては、少し困惑してしまいました。私が誤解していなければ、ここでは例えば数学の哲学に取り組んでいる哲学者は、プロの数学者の代わりに、数学の全領域を通覧しようとしている、と述べられているように読めます。私の根拠のない勝手な推測では*3、この発言を現場の数学者が聞けば、かなり驚くだろうと思います。そして強い反感を呼び起こすと思います。「私たちプロの数学者もできないことを、あなた方素人の哲学者はやろうと言うのですね。ではやってみてください。どうぞ、やってみてください。できない? 「不可能事」だからできない? ではなぜできないことをおっしゃるのですか? それは無責任ではありませんか?」というように。あらゆる数学者という数学者が皆このように反感を抱くとは限りませんが、大部分の数学者は、反感なり違和感なりを抱くと個人的に推測致します。それに数学の哲学に従事している哲学者のどれほどが、数学全体を数学者に成り代わって通覧しようと企図しているのだろう? そのような企図を持った哲学者もおられると思いますが、今ではその数は昔に比べてずっと少なくなっているだろうと私個人は根拠もなく推測しています。「数学者ができないのなら、代わりに哲学者である私がやろうではないか」と言うのは、よく言えば志が高いと言えますが、悪く言えば無謀というか、身の程知らずということになるのではないかと危惧致します。先ほどからいろいろ推測ばかりしていて、大変すみません。これらの推測が外れていれば、謝ります。誠に申し訳ございません。
引用を続けます。先ほどの引用文の途中から、引用します。

 ところで、論理学の哲学/数学の哲学が目指しているのは、ある意味でまさにそうした「トータルな見通しを持つ」という不可能事そのものだと言えよう。というのもそれは、論理学・数学について、その全体像を把握するために不可欠な幾多の要因を見渡すこと、そしてそうした知識を駆使して、これらの科学が教えることは何であるのかを解明し、とりわけ、これらの科学が認識論的に正当化される (真理の −あるいは少なくとも十分信頼して適用しうる諸命題の− 体系として保証されうる) のはなぜ、いかにしてであるかを説明しようとするからである。だがそうなると、それが目指す目標は、科学の素人である一般の哲学者では容易に達成できないのはもちろん、科学の専門家でさえもおそらく遂行できない非現実的なもの、つまり、ほとんど叶わない夢想、いわばドン・キホーテ的な所業 (?) といったものに他ならないことになるだろう。(188-189)

数学の哲学と論理学の哲学の目指している事柄は、数学と論理学における真理の認識論的な正当化である、と岡本先生は、ここで見なしておられるのでしょうか。数学には認識論的な正当性がそのままでは欠けており、哲学者がその正当性を保証しようとしている、ということでしょうか。それとも、数学には認識論的な正当性が既にあり、哲学者はただ、その正当性のメカニズムを説明しようとしているだけなのでしょうか。これらの文章は講演の要旨であるため、詳細が書かれていないことから、私にははっきりしたことがわかりません*4。しかし、この後の先生の文章から、先生が数学にはいまだ認識論的な正当性が欠けているとお考えであることがわかります。それではそれがわかる引用文を、引き続き掲載します。

 以上の問題は、実際に、論理学の哲学/数学の哲学が直面するシリアスな難問の一つであると思われる。例えば、いまも言及した <論理学/数学の真理性の基礎付け・正当化> について考えてみよう。この課題自体は古くからある馴染み深いものだが、しかし現在、これを掘り下げて究明しようとすると、どれくらいの情報を参照することが必要となる (あるいは少なくとも望ましい) だろうか。論理学・数学の膨大な発展を踏まえれば、そうした情報は、それだけで優に一人の人間が (あるいは数人の人間でさえ) カバーできる範囲を超え出てしまうことだろう。要するにこの作業は、教養ある一人または少数の人物が担いうるような営みとしての性格をおそらく既に失ってしまっている (これは例えば、フレーゲラッセル、あるいはブラウワーとヒルベルト、それどころかゲーデルやゲンツェンの時代でさえ考えられなかったところだろう)。だが他方、だからと言って、多数のエージェント (コンピュータも含む) による「分業」によってこの課題の遂行を進めようとしても、実は決して容易ではないだろう。なぜなら分業の前提として、例えば <真理性の基礎付け> という、単にインフォーマルであるのみならず甚だしく陰伏的で未分化な諸概念を含んで出来上がっていると考えられる理念について、必要な範囲でその精確な成立基準、適正な実行手順といったものを −独力、または少数者の協力で− 与えることが必要となるだろうからである (そもそも <基礎付け> なる課題が遂行可能なのかどうかといった問題もあるが、ここではそれは問わないでおく)。そしてそのためには、基礎付けそのものを遂行するのと大差ないほどの多様な情報の処理が求められることになろう。(189)

この引用文冒頭に「いまも言及した <論理学/数学の真理性の基礎付け・正当化> について考えてみよう。この課題自体は古くからある馴染み深いものだが、」とあります。ということは、もう一つ前の引用文中の、数学における真理の認識論的な正当化とは、おそらく古くからある数学の基礎付けのことを言っているのだろうとわかります。つまり、ここまでの引用文で岡本先生が話しておられるのは、おそらく、昔からある数学の基礎付けの話だ、ということになると思います。
また、直前の引用文の最後の辺りに、丸カッコが使われている個所があります。そこには次のようにあります。「そもそも <基礎付け> なる課題が遂行可能なのかどうかといった問題もあるが、ここではそれは問わないでおく」。この文では、数学の基礎付けという課題が遂行可能かどうか、明白ではない、俄かには判断できないと岡本先生によって言われていると思います。もしも、数学の基礎付けが既に完了しているならば、それは誰かが数学の基礎付けを遂行した結果でしょうから、その時には、数学の基礎付けが遂行可能であると判断できます。しかし、そのようには俄かには判断できないと岡本先生は述べておられるということは、数学の基礎付けが完了していないと岡本先生は考えておられるということになると思います。
以上をまとめます。直前の引用文からわかることは、岡本先生が話題にされているのは、昔からある数学の基礎付けの話なのだろうということと、岡本先生は数学の基礎付けがまだ完了していないとお考えなのだろうということです。つまり、岡本先生にとって数学はいまだ基礎を欠いている、ということになると思います。(しかも、以上の話から、おそらく、岡本先生にとって、数学の基礎が欠けているということと、集合論の無矛盾性がまだ証明されていないということとは、同じことではないと思われます。つまり、ここでは集合論の無矛盾性証明の話がなされているのではないだろうということです。)


ここまで、講演の要旨という性格上、詳しいことはわかりませんが、おそらく岡本先生は現在も数学には基礎が欠けているとお考えで、哲学者がその基礎を提供しようとしているのだと先生は述べているように思われます。私は以上のように推測しました。私は、現在、数学には基礎が欠けており、その基礎を供給してやらねばならず、それをやるのは哲学者である、とは全然思ったことがありません。数学に基礎が欠けているとか欠けていないとかいう話は、昔々の話であって、今の研究のトレンドではないと思っておりました。数学には基礎が欠けているから哲学者がそれを供給してやらねばならないと、そのように考える哲学者が今も一部おられるとしても、それは周縁に属し、先端的ではないと思っておりました。私は何となく数学にしても哲学にしても、いわゆる「基礎付け」の時代は終わったのだ、と漠然と思っておりました。もちろん、哲学の常として、再び基礎付けの時代が舞い戻ってくるかもしれません。しかし当面はそのような時代は終焉した、とぼんやり思っておりました。しかし今回、岡本先生の文章を読んでいて意外だったのは、先端を疾走しておられると思っていた岡本先生が、思いもかけず、昔の話をされているように感じられたので、ちょっと驚き当惑してしまいました。あるいは先生のおっしゃる通り、今もって数学には基礎が欠けており、これに基礎を供給してやるのが哲学者の勤めなのかもしれません。ただ何となく、「基礎付けの時代は終わった」と、私の方で勝手に思い込んでいただけなのかもしれません。よくよく反省もせず、そのように思っていたのかもしれません。数学の基礎付けに腐心すべきなのか否か、ちょっと私にはわからなくなってきました。あるいは先生のおっしゃる数学の基礎付けとは、昔のままの基礎付けではなく、その現代版と解せられるような試みのことをおっしゃっておられるのでしょうか。それはつまり、構成的数学で、非構成的な数学をどこまで展開できるのかとか、逆数学のことをおっしゃっておられるのでしょうか。それならば、今も追究すべき重要な課題だと私にも考えられるのですが…。*5


2013年7月15日追記: 現代の論理学者が数学の基礎付けとして、どのようなことを考えているのかについては、先日刊行されたばかりの次の文献を参照ください。

  • 渕野昌  「付録C. 現代の視点からの数学の基礎付け」、リヒャルト・デデキント、『数とは何かそして何であるべきか』、E. ネーター「前掲のモノグラフに対する説明」および E. ツェルメロ「集合論の基礎に関する研究 I 」付き、渕野昌訳解説、ちくま学芸文庫筑摩書房、2013年。

斜めに見た限りでは、渕野先生は、現時点で行われている数学の基礎付けとして、通常の数学のすべてを表すことのできる公理的集合論の相対的な無矛盾性を証明したり、無矛盾性の強さの比較を行ったりすることを、お考えであるように感じられました(250-251, 265ページ)。

また、現代における数学の基礎付けという試みの候補として、ここ数十年に、どのような project があるのかについては、次の文献の

  • Joan Roselló  From Foundations to Philosophy of Mathematics: An Historical Account of their Development in the XX Century and Beyond, Cambridge Scholars Publishing, 2012,

Chapter Eight: New Perspectives in the Philosophy of Mathematics: The Foundational Programs Revisited に、ごく手短に概観が与えられています。この chapter で取り上げられている数学の現代的な基礎付けとしての programs には、Neologicism, Bishop's Constructive Mathematics, Reverse Mathematics, Tait's and Friedman's Finitist Reductionism, and Feferman's and Friedman's Predicativist Programs があります。追記終り。


今回の岡本先生の文章は、講演要旨ですので、この要旨だけから先生の見解を決定づけるということはできません。本論を読まなければ、何とも言えません*6。したがって以上は単なる印象記にすぎません。最終的な結論ではございません。暫定的な仮説です。見当違いのことを述べておりましたら、大変申し訳ございません。勉強し直します。

*1:Hegel のものは読んでおりません。

*2:丸カッコ内の数字は、岡本先生の講演要旨のページを表します。以下同様。

*3:根拠がなく、かつ勝手な推測だというのは、私は実際に数学者の皆さんにアンケートを取るなどして、数学者の方々のご意見を確認していないからです。

*4:念のため申し添えますが、「わかりません」というのは、ただ本当にわからないと言っているだけです。講演の要旨なので、詳細が省かれており、当然詳しいことはわからない訳です。誰かが悪いと言っているのではございません。

*5:現在、数学の哲学は、何をやっているのか、それは数学に基礎を与えようとしているのか否かについて、バランスのとれた展望を与えていると個人的に思われる記述は、次に見られるように思います。スチュワート・シャピロ、『数学を哲学する』、金子洋之訳、筑摩書房、2012年、「第1部 展望」の「第1章 数学の何が (哲学者にとって) そんなに興味深いのか」、特に、20-21ページ。英語原文では、Stewart Shapiro, Thinking about Mathematics: The Philosophy of Mathematics, Oxford University Press, 2000, pp. 15-16.

*6:本論は、私の知る限り、まだ刊行されていないようです。