Who Is the Fastest and Bravest Philosopher in the World?

世界で最も速くて、なおかつ最も勇敢な哲学者は、たぶん Bocheński さんです。


先日、普段の勉強の合間に、次の短い文献を拝読しました。

  • Peter Simons   ''A Most Remarkable Polish Philosopher''

Józef Maria Bocheński さんの思い出、逸話を伝える文章です。以下の HP から無料で DL 可能です。

    • Peter H. Simons Home Page, Papers, https://sites.google.com/site/petermsimons/peter-s-files.

Bocheński さんと言えば、論理学史の研究者として有名だと思います。次の本の著者として知られていると思います。

  • I. M. Bocheński  Formale Logik, Verlag Karl Alber, Orbis Academicus, Orbis-Bd. III, 2, 1956
  • I. M. Bocheński  A History of Formal Logic, translated and edited by Ivo Thomas, University of Notre Dame Press, 1961

後者は前者の翻訳です。西欧の、またはインドの論理学の歴史を調べたことのある人は、一度はこれらの本のお世話になったことがあるのではないかと思います。私は上記後者の本の第二版を持っていて、

  • I. M. Bocheński  A History of Formal Logic, 2nd ed., translated and edited by Ivo Thomas, Chelsea Publishing Company, 1970

たまに調べ物をするときに開くことがあります。Kneale 夫妻の本は、論理学の通常の通史だと思いますが、Bocheński さんのこの論理学史の本は、一次資料の翻訳を時代順にたくさん並べて、それに Bocheński さんが簡単な comment を付していくことで成り立っており、なかなか便利です。


今日は Bocheński さんが世界で最も速い哲学者であり、なおかつ最も勇敢な哲学者であったという逸話を、Simons 先生の思い出に依拠しながら一部紹介してみたいと思います。上記の Simons 先生の文献の p. 2 から p. 5 を訳してみます。勉強でお疲れのようでしたら、ちょっと一服しながらお読みいただけると幸いです。学術論文の翻訳ではなく、思い出話の翻訳ですので、訳文はガチガチの直訳ではなく、読みやすいものに開いて訳しております。どうかご了承ください。誤訳がありましたら謝ります。何卒申し訳ございません。

 彼がスピードの出るスポーツ・カーが大好きなのは、よく知られている。どのような経緯で好きになったのかは、私にはわからない。しかし Bocheński はいくつかの時期にポルシェ1台とフェラーリ1台を持っていた。そしてドイツのアウトバーンのあちこちを、すごいスピードで走っていた。聞いたところでは、運転がとてもうまかったのかは疑問だが、ベッドの上で往生したので交通事故で死なずにすむ程度には運転はできたようだった。修道士は私有財産を持たないが、Bocheński の本の印税は大変な額に上ったので、何とか修道院長を説得して、祭礼に出かけるための車を買い、それを使うことができたのだった。彼がいつも強調していたところによると、ドミニコ会士は規則の上では清貧の誓いを立てなくてもよいので、高級車を所有してもまったく問題がないのだそうである。噂によると、Bocheński はアウトバーンで一番速い連中のうちの一人だったそうだ。しかし、さらに私が聞いたところによると、ある日彼は [自分よりも速いやつに] 追い抜かれてしまったので、もはや一番ではなくなったことから、スピードを求める気持ちが失せてしまったという話である。
 しかし彼にはもっと速く行くことのできる方法があった。それは飛行機によるものだった。[Switzerland の首都 Bern と Léman 湖 の間にある街] Fribourg の修道院で、事の発端について彼自身が私に語ってくれた。Bocheński は [America の] Indiana 州にある Notre Dame 大学でしばらく教えていたことがあった。ある日、一人の America 人の紳士がやってきて、にこやかに握手をし、[ここで受講している] 年の行った女子学生の夫であると自己紹介した。そのご婦人は Bocheński の著作を読んで、哲学と論理学に夢中になり、そのことで頭がすごくいっぱいになって、少なくとも夫の話によると、彼の生活はずっと静かでずっと喜ばしいものになったそうである。彼は大変うれしく思い、自分は富豪であって、既に退職し、子供もいないので、と言いながら、Bocheński に対し、お望みのものを何でも買って差し上げましょうと申し出た。さてここで私たちなら、例えばワインをワン・ケースだとか、『ブリタニカ百科事典』を一揃いだとか、あるいはせいぜい Bahama でのバカンスを、とお願いするところだが、ここが臆病者と強者 [つわもの] との違いである。スピード狂の Bocheński は、臆病者なんかではなかった。彼は自分の本心がどこにあるのかわかっていた。それで、自家用飛行機と飛行訓練のコースを要望したのである。感謝の念に堪えないその学生の夫は、Bocheński にしかるべく飛行機と訓練コースを買い与え、60を超えた Bocheński 神父はパイロットの資格を得て、80歳ぐらいまで飛び続けたのである。
 ところでだが、彼の操縦と彼の車の運転とは、似たような特徴があったという証拠がある。私の友人にパイロットである者がいるのだが、彼が語ってくれたところによると、かつて Bocheński の操縦で、[Léman 湖南西端にある] Geneva から Fribourg へと飛んだことがあり、これは人生で最も恐ろしい体験だったそうである。二人は雷鳴とどろく嵐の中を、にもかかわらず実際飛んで行ったそうである。また、もう一つの話は、[Austria の] Saltzburg 空港の記録から、客観的に確かめることができる。1970年代の Bocheński は Saltzburg で講義をしており、そのために Fribourg から数時間かけて飛行機で通っていた。話によると、彼は Saltzburg 空港で着陸する際に、管制塔の指示に逆らって、「本来とは逆の方向から」着陸した。非常に危険な事態を引き起こしかねないやり方である。管制官は直ちに彼の免許を没収し、パイロットの試験を取り直すよう求めた。それで二週間に渡る講義の間、Bocheński は、権威についてだか宗教だか何かその手のものを講義するかたわら、飛行機操縦の教本をいつも読んでいたのである。結局試験に通り、免許を取り戻して、飛ぶことを許されたのだが、操縦士 [かつ修道士] としての伝説を後に残すこととなったのである*1
 もっとはっきりよいと言えるような伝説は、Bocheński の軍隊のおける経歴にあった。彼が私に話してくれたところによると、彼は四度の戦いを経験した。1920年に Poland で、1939年に Poland で、1940年に France で、1944年に Italy で、である。最初の時には10代にすぎなかった。二度目は既に聖職者になっていて、開戦時には Rome の教皇大学で教職に就くことを見込まれていた。ナチス国防軍に対する戦いの際、Bocheński は捕えられた。その他の捕虜と一緒に捕らえられ、ドイツ語で彼らと相手との間を取り持った (Bocheński は語学の天才であり、10だか12だかの言語を流暢に話した。)。彼に向ってある一人の将校が軽蔑しながら言ったことがある。'Du bist ein Saujude', 「お前は汚れたユダヤ人だ。」 Bocheński は180センチを超える長身でもってすっくと仁王立ちし、'Ich bin katholischer Geistlicher', 「私はカトリックの司祭である」と言った。返ってきた答えはただ 'Ist dasselbe!', 「同じことだ!」であった。それからその将校は Bocheński が何をやっていたのかを尋ね、彼が [Poland 南部 Cracow の] Jagiellonian 大学で私講師をしていたことを知った。このドイツ人将校は実際彼自身ドイツ系の大学で歴史の講師をしていた。それですぐにこの男の態度が変わった。かかとをカツンと鳴らしながら直立し、少しフォーマルな敬礼をしながら握手の手を差し伸べ、'Gestatten Sie, Herr Kollege', 「初めまして (お見知りおきください)、同僚殿」と言った。それから彼は Bocheński に巻きたばこを譲り、辺りを自由に歩くことを許した。Bocheński は、捕まったらとにかく早く脱走を試みるべきだと私に強調し、それでその後すぐに将校用トイレの裏窓から逃げ出したのである。
 ようやく彼は Rome に行くことを許された。違法にも、 Austria を経由してのことだったのだが。そこから彼は、France 南部で France 人と共に戦っていた亡命 Poland 人達に加わった。しかし、実際の戦闘はなかった。France 北部で自軍が敗走したことを聞き、France 人は戦意を喪失していたのである。France 人兵士と将校の臆病な態度と行動は、あまりにみっともなかったので、金輪際、France 軍に対する尊敬の念はすっかり失ってしまったと、Bocheński は私に話した。
 その後、Bocheński は Rome に戻ったが、Italy [の一部] が連合軍に [1943年後半以降] 寝返った後、Italy における有名な Poland 第二軍に加わった。この軍は [Władysław] Anders 中将が率いており、Bocheński は Anders 直属の従軍司祭であった。こうして Bocheński は第二次大戦中、最も血みどろで最も英雄的な前線での攻撃の一つ、Monte Cassino 攻略作戦を目の当たりにすることになったのである。
 Monte Cassino にある、最も偉大な創始者 Benedictine 修道院 [The great parent Benedictine monastery of Monte Cassino] は、Naples から Rome へと至る幹線沿いにあり、戦略上、見晴らしのきく丘の高いところに立っていた。攻略は難しいとわかったので、連合軍は、したくはなかったが、修道院を爆撃して灰燼に帰せしめた。したくなかったというのは、そこの図書室には多くの重要な宝物が含まれていたからである。しかし、依然、街を攻略できておらず、ドイツ軍の抵抗も強いものだった。最後の突撃 (何度か突撃していたが、失敗していた) は、イギリス軍と Pland 軍との共同での試みだった。激しい血みどろの戦闘の後、両軍は何とか所期の目的を達成した。目的を達成し、戦闘が収まってくると、二日間眠っていなかった Anders 中将は兵舎に戻り、急いで仮眠を取った。この後何が起こったのかを Bocheński は目撃していた。兵員が前線のあちこちに電話を入れ、それぞれから代わる代わる、陣地を確保したが30%に上る死傷者を出しており、受け入れがたいまでに高い割合であって、あまりに高すぎて予想される反撃に持ちこたえられないとの報告を得た。イギリス人司令官は、同様の反撃に会ったことがあったので、Anders 中将と話をし、街から撤退した方がいいと提案するために、Poland 人兵員に電話を入れ、Anders 中将の側近に中将を電話に出すよう求めた。すると、その側近は、できない、中将は寝ているから、と言ってきた。イギリス人の将軍は、「いいから起こすんだ!」と要求した。側近は「勘弁してください。中将が怒り出します。」と答えた。それでイギリス人の将軍は、Anders 中将が起きるまでの間、しばらく待つことにした。間もなく中将が眠い目をこすりながら起きてきて、状況の報告を求めた。死傷者に関する悪い知らせと撤退の提案が彼に伝えられた。Anders 中将はイギリス人の将軍に電話をするよう命じた。そうすれば両軍は歩調を合わせて撤退できるからである。中将が、鳴った電話を取ろうとしたちょうどその時に、前線の一つから、「敵が消えた」との報告を受けた。すぐ次に、別の前線のいくつかから同様の報告を得た。その結果、二人の将軍が電話で協議するまでには、ドイツ人たちが連合軍よりも先に撤退してしまっていたことが明らかになったのである。そして Poland, イギリス両軍は、街の攻略をめぐる戦いに勝利していたことが明らかになったのである。Bocheński はこの戦いを、戦争の勝敗を決するに際し、運がよかった例として引き合いに出した。Anders 中将が起きていたならば、こちらから先にあわてて撤退して、みすみす不戦敗を選んでいたかもしれず、結果として中将は、寝ながらにして戦いに勝利したのである!

あの丸っこいお顔からは想像できませんでしたが、Bocheński さんは、速くて強い男だったのですね。

*1:ここで「操縦士 [かつ修道士]」としていますが、原文は単に 'a flyer' です。これには a friar のいみも掛けられているのかもしれないと思い、ただ「操縦士」と訳すだけでなく、「操縦士 [かつ修道士]」としておきました。深読みしすぎかもしれませんが…。