Who Was the First Philosopher Appealing to University Students to go to the Front? Who Was the First Philosophy Student Refusing Military Service?


「なるほど、そうなんだ、知らなかったな」と思ったことを記します。そんなに大そうなことではございません。


先日、刊行されたばかりの次の書籍を書店店頭で拝見していたところ、

ちょっとしたことに興味を感じました。この書籍は、伊藤先生のいくつかの既刊論文から成るもののようで、そこで先生の以下の論文を入手し、

拝読させてもらいました。


この論文は Schopenhauer の処女作『根拠律』 (1813年) を巡るものです。根拠律とは、Leibniz の充足理由律 (The Principle of Sufficient Reason) のことです。充足理由律とは、例えば簡単には次のように言われます。

'[T]he principle of sufficient reason, which applies to truths of fact and states that no fact can obtain and no proposition can be true unless there is a sufficient reason why it should be thus and not otherwise.'*1

試訳/私訳を与えれば、次のような感じでしょうか。誤訳しておりましたらすみません。

「充足理由律は、事実の真理に適用され、次のように述べる。何らかのことがその通りであって、それ以外ではないという十分な理由がない限り、何事も成り立ち得ず、どんな命題も真ではあり得ない。」

この根拠律に関しては Fichte が『全知識学の基礎』で、自我と非我と絶対的自我との関係を説明しているらしく、自我と非我との対立を解消する「根拠」としての絶対的自我が Leibniz の充足理由に相当するようであり、このように Leibniz の充足理由律を Fichte は自我に適応することで、自我、非我、絶対的自我の三叉構造を考えているみたいです。

これに対し、Schopenhauer は異議を唱え、Leibniz の充足理由律は客観的な事実に適用されるものであって(上記充足理由律の説明の中でも、この原理が適用されるのは事実の真理に対してであることが書かれています)、主観的な自我に適用されるものではないのであり、それ故、Fichte は充足理由律を誤用しているのであって、このような誤用から導かれる彼の三叉構造は無効である、と考えたようです。

なお、私は Fichte の自我も非我も絶対的自我も、Leibniz の充足理由律も、どれもよく知りませんので、これらにかかわる今の説明は、伊藤先生の論文を軽く読んで、私なりにまとめたものであり、まとめ方が間違っているかもしれません。いずれにせよ、まとめてみたものの、難しすぎて、その内容を私は理解していません。ですから私の要約を真面目に受け取ってはいけません。雰囲気を感じ取るだけにしてください。

さて、Schopenhauer の Fichte 批判は、上記のごとく、理論的側面だけのみならず、実践にかかわる側面にも及んでいるというのが伊藤先生の見立てです。充足理由律に基づく Fichte の三叉構造は、社会的、政治的、法的な側面にも拡張されるようで、その場合、例えば、自我は日本人である私自身と解せられ、非我は日本人の他人、絶対的自我は日本と解せられるようです。そして Fichte によると、個人の自由が保障されるのは、国家あってのことであり、国家なくしては、個人の自由もあり得ず、国家が存亡の危機に立たされたときは、それすなわちあなた個人の存亡にかかわるのであるから、命の危険を顧みず、武器を取って国民全員が立ち上がるべきである、と考えたようです。

個人は自由を愛し、自由がないような人生は生きているいみがないとまで思えます。そういう個人の自由は、Leibniz の充足理由律によって、国家が与えます。国家によってこそ、個人は自由であり得るのです。そのような国家が他国の暴力によって危機に瀕し、屈服されようとしているとき、それはあなた個人の自由が死滅するときであり、それすなわちあなた自身の死をいみします。以上のようだとするならば、国家が危機的状況のなかで戦争に突入したならば、あなたも銃を持って立ち上がるべきではないですか。それが自由を愛する国民のあるべき姿ではないですか。大よそながら、Fichte はこのように考えていたようです。そして1813年の Napoléon に対するドイツ解放戦争開始を受けて、Fichte はベルリン大学で学生に向かい、国民全員が戦争に参加する義務があると説きました。

これに対し、Schopenhauer は反対します。そもそも Fichte の言う三叉構造とその応用面としての個人、他人、国家との trio は、充足理由律の誤用によって生み出された幻影である。このような幻影のために命を犠牲に供する必要はない。力でもって国家に、ひいては人類に奉仕せよと Fichte は言う。しかし、私は腕力によってではなく、知力によって人類の平和と安寧に奉仕するつもりだ。個人の自由とは国家によって与えられるものではなく、国家を離れた個人の内面に存するのであり、この内面的自由が外的世界の自由の条件なのである。大よそながら、以上のように Schopenhauer は考えることによって、自由と正義が他人の利害の道具とされることを防ぎ、個人の命が他人の利益のために、美名のもと、いいようにあしらわれ消費されていることに反対しているようです。

以上のようなことから伊藤先生は、次のように述べておられます。

フィヒテは史上最初に ''学徒出陣'' を説いた学者であり、ショーペンハウアーは史上最初にそれを拒んだ学生である − そう述べて大過ないかと思う。*2

なるほど、そうなんだ、知らなかったな。本当に Fichte が史上最初に学生に対する戦争参加を鼓吹した哲学者なのかどうか、本当に Schopenhauer が史上最初に兵役を拒否した哲学徒、兵役を忌避した哲学徒なのかどうか、詳しく調べてみる必要はあると思いますが、両人の哲学の傾向を大略把握する分にはわかりよい contrast ですね。一方は大の保守派であり、他方は大の進歩派、革新派というところでしょうか。彼らの哲学にもそれが現れているかもしれませんね。(事実、それが現れているというのが伊藤先生の診断です。)

なお、以上のまとめは、Fichte も Schopenhauer も読んだことのない人間が、記したものです。以上の通りのことが、一字一句違わず伊藤先生の論文に書かれているというわけではまったくありません。当方で先生の論文内容を取捨選択し、補足説明を付けたうえで記述したものです。ですから、厳密に上記の通り、Fichte は、Schopenhauer は、考えていたのだ、と主張しているのではありません。細かいところは色々と史実に合っていないはずです。きわめて、きわめて、大まかな話であると、ご理解ください。伊藤先生も、先生の描き出している Schopenhauer 像が現実の Schopenhauer にぴったり合致するとはお考えではないようであり、つまり現実のありさまはもっと微妙で繊細であったことは、先生もお気付きのようですから、今回の話は、大よそのところであると解してください。正確なところは、より立ち入った研究が必要です。私の方で大幅に誤解した記述をなしているようでしたら、Fichte 先生、Schopenhauer 先生、伊藤先生にお詫び申し上げます。誤字、脱字、乱文を含め、すべての誤りをお許しいただければ幸甚です。

*1:Hans Burkhardt, ''Leibniz,'' in Thomas Mautner ed., The Penguin Dictionary of Philosophy, 2nd ed., Penguin Books, Penguin Reference Series, 2005, p. 343.

*2:伊藤、「戦争・法・国家」、155ページ。『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学』では、108ページ。引用は前者の論文から。