以下に記しますことは、個人的な memorandum です。表題の疑問に対し、その答えをただ素描するだけのものです。何か original なことを述べたりするものではありません。単によく知られていることを手短にまとめているだけです。加えて以下では Quine さんや Kripke さんの話をしますが、私は両人の仕事については詳しくありません。よく知りません。両人のうち、どちらかの肩を持つということもありません。また、表題の疑問について、関連文献をすべて集め、すべて読み込み、徹底的に考え抜いた結果を記すというわけではありません。今、少しばかり思ったことを走り書きしているだけです。細かいところはすべて、完全に、省いています。極めて大まかにしか書いておりません。ですから misleading なことや、間違ったことを書いている可能性が非常に高いです。そのためこれから書くことがすべて正しく、すべてを尽くしているとは絶対に思わないようにお願い致します。あらかじめ含まれているであろう間違いに対し、お詫び申し上げます。なお、このあとでは、厳密には必要な場合でも引用符を省いて記します。
ここでの話は、
- Stephen Neale ''No Plagiarism Here: The Originality of Saul Kripke,'' in: Times Literary Supplement, February 9, 2001,
という短い書評に、さしあたりこの文献だけに、依拠して書かれています。この文献の内容を理解し損なっていましたら、Neale 先生にもお詫び致します。ここまで前置きが長くなりましたが、本文に入ります。
次は真です。
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- (1) Morning Star = Morning Star.
しかもこの式は、わざわざ明け方の空を眺めて確認するまでもなく真であることを知ることができ、経験的に確かめずとも必ず真となりますので、
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- (2) Necessarily, Morning Star = Morning Star
も真です。
ところで、一般に、同一性について成り立つ重要な原理に
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- The Principle of Substitutivity (PS): ∀x∀y ( x = y → Fx ≡ Fy )
があります。この原理の言わんとしていることは、等しいもの同士 x, y は、一方の x について言われていること F を、他方の y についても言うことができ、逆に、他方の y について言われていること F を、一方の x についても言うことができて、Fx と Fy の真理値は変わらない、ということです。
さて、
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- (3) Morning Star = Evening Star
は真です。これは明け方の空と夕暮れの空を眺めることにより、経験的に真理であることが知られるようになりました。
ここで (3) と (PS) により、(2) の等号の一辺を Evening Star に代えてやります。そうすると、
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- (4) Necessarily, Morning Star = Evening Star
となります。すると、(PS) に依っているにもかかわらず、(4) は真ではないことになります。なぜなら、(1) のような、等号の両辺に同じ形の表現が来ている場合には、観察や実験に訴えずとも必然的に真となりますが、(3) のような、等号の両辺の表現が互いに異なっている式の場合には、それぞれの表現の指しているものが確かに同じであるかどうかを経験的に確かめねば真とは言えず、しかもたとえそれが真であるとしても、経験的に確かめられるような真理は、人間の経験を超えた永遠の必然的真理であるとは断言できないので、経験的な真理である (3) が正当に主張できたとしても、そこから必然的な真理を主張する (4) までも成り立つとは正当には言い得ないからです。
こうして、'Necessarily' という様相に関する表現を含んだ文脈では、同一性について、(trivial な場合を除き) 一般に成り立つとされる重要な原理 (PS) が破れてしまっているので、様相語法の論理学である Modal Logic には、とりわけ上記のような量化を伴う Quantified Modal Logic には、何か重大な問題があると推測されます。ここまで、Quine さんによる様相論理批判の一端を、その極々一端を、大まかに、とても大まかに書き出してみました。*1
では、Kripke さんは、いかにしてこの困難を乗り越えるのでしょうか。上記の Quine さんによる様相論理批判の論証をよく見ると、必然性とは、経験的に確かめずとも知られるような真理のことであり、必然的ではない真理とは、すなわち偶然的な真理とは、経験的に確かめられ知られるような真理のことであるとわかります。(その論証中で、「確認する」、「確かめる」、「知る」というような類いの言葉がよく出てくることをご覧ください。) つまり、上記の論証から見て取れることは、必然性の概念が、何か認識論的な、認知的な概念として捉えられている、ということです。
しかし、必然性の概念を認識論上の概念と捉えず、もっぱら形而上学における概念として捉えるならば、必然的な真理をいつでも知られる真理というような、認識論の観点から把握せずとも済むことになります。そのようにするならば、上記論証の (3) は、その真理がどのようにして知られるかは別として、つまるところ金星が金星に等しいということを言っていることになり、これは自分が自分に等しいということであって、だとするならば、それは必然的に真です。よって (4) が成り立ちます。この時、(PS) は破れていません。保存されたままです。様相的語法を使った文脈では (PS) が破れてしまっているという Quine さんの批判は当たらない、ということになります。
少し Kripke さんの言い方を交えて言い直しますと、'Morning Star' も 'Evening Star' も共に金星を指すならば (3) は真であり、それら二つの言葉が Russell の記述の理論におけるような記述を介さず、同じ金星を、その惑星が存在するあらゆる可能世界において rigid に designate するならば、'Morning Star' も 'Evening Star' も、指示対象はつねに同一であり、それ故、(4) も真となります。よって、(PS) は破れておらず、保持されたままであり、Quine さんの反論は当たらない、ということになります。
今、(3) から (4) が出ました。つまり、
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- (5) Morning Star = Evening Star → Necessarily, Morning Star = Evening Star
です。ここまで Morning Star と Evening Star の話をしてきましたが、以上の話は Morning Star と Evening Star に限らないので、(5) を一般化することができます。□ を必然性の operator とした時、(5) を一般化して表せば、
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- The Necessity of Identity (NI): ∀x∀y ( x = y → □(x = y) ) (何らかのもの同士が現に同一であるならば、それらは必然的に同一である。)
となります*2。この (NI) を含め、以上の話は、必然性を形而上学的必然性ともっぱら解するならば、違和感はなくなるか、減じます。
また、(NI) の対偶を考えてみると*3、◇ を可能性の operator とした時、
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- The Converse Necessity of Identity (CNI): ∀x∀y ( ◇¬(x = y) → ¬(x = y) ) (何らかのものが異なり得るならば、現に異なっている。)
となり、これが真であることに多大なる違和感を覚えますが、可能性を形而上学的な可能性ともっぱら解するならば、やはり違和感はなくなるか、減じます。
これで終わります。誤解や無理解や勘違い、誤字、脱字などがございましたら謝ります。以上は暫定的なメモ書きですので、そのまま無批判に信じ込んでしまうことのないようお願い申し上げます。