Who Pays All Our Debts for Us?

先日書店で次の新刊を見かけました。

出版社による説明文をホームページから引用します。

保守反動か,革新か.資本主義か,反資本主義か──現代史に破滅的影響を与えたファシズムは,今も「得体の知れない顔つき」(オルテガ・イ・ガセト)をして,私たちに立ちはだかる.思想的源流,イタリア・ドイツにとどまらない運動の広がり,人種主義,ジェンダーなど,ファシズムの主要論点を解説.ゼロから学ぶ絶好のファシズム入門.

私は福井先生によるアナール派的観点から書かれた本を以前に読んだことがあるのですが、アナール派と言えば何となくフランス中世という感じがするので、先生がなぜ上のような現代的な話題を扱った本を翻訳されているのか、不思議に思って手に取り、訳者によるあとがきを斜め読みしてみました。しかし先生がこの本を訳された理由はわからなかったものの(斜め読みしただけなので見落としたのかもしれません)、そこに印象的な言葉が見られましたのでここで引いてみます。上記書籍の242ページに記されていたと思います(記憶を頼りにこれを書いていますから、ページ数や以下の言葉が違っていたらすみません)。

    • あらゆる悲惨の償いは、忘却が代行する。

これは Milan Kundera さんの言葉だそうです。その通りだと思わせる言葉ですね。大震災や原発の爆発、それに戦争などの天災や人災に見られる悲惨さは、残念ながら忘却によって償われる傾向があるのかもしれません。

Kundera さんのこの言葉に見られる悲惨さとは、『ファシズムとは何か』という書籍の訳者あとがきで述べられていますので、戦争や大震災、大規模な事故などのことを指すと思われますが、Kundera さんの言葉を読んで、それら大規模な天災や人災だけでなく、戦争などの大規模な人災へとつながる小さな悲惨さのことも、Kundera さんの言葉は表しているのではないかと個人的には思いました。

例えば、戦争を推進している政府を支持し、その政策を正当化した哲学者や知識人たちがいました。これらの哲学者のなかには偉いとされる哲学者もいました。そして、戦争を遂行する際、その口実として異民族を敵として糾弾し、この敵を物理的に殲滅するために戦争が正当であると考えた人種差別的な、偉いとされる哲学者もいました。また、偉い論理学者にも人種差別的な人がいました。

これらの偉いとされる哲学者、論理学者が、今述べた理由により、非難されることもありましたが、概してそのようなことは忘却され、依然として偉い学者として敬われていることもあるようです。このようなことも、ある種の小さな悲惨さが、忘却によって償われている例なのかもしれません。

この種の小さな悲惨さに対する忘却が、新たなる悲惨を生み出さないならば、私たちは安穏としていることもまた可能でしょう。しかし、いつもそれを神が許してくれるとは限りません。いやむしろ、それを許してくれない時がきっと来るに違いありません。

だとするならば、上記の Kundera さんの言葉は、以下のように書き足され、完成される必要があるかもしれません。

    • あらゆる悲惨の償いは、忘却が代行する。しかしそうしてる間にもツケはたまり、その支払いを代行してくれる者はいない。

私も支払いを督促される時が来るかもしれません。その時にはきっと膨大なツケがたまっているのかもしれません。とても支払いきれないほど多額のツケが…。


PS

Kundera さんの例の言葉は、調べてみると、彼の『冗談』という小説に出てくるようです。この小説は今では岩波文庫にも収められているようですが、私はたまたま古いみすず書房の本を手に取って調べてみましたところ、その276ページに件の言葉が現れているようです*1。上に引いた言葉そのものとは少し違った言葉使いで問題の言葉は出ていました。そしてその言葉にある悲惨なこととは、どうやら個人の過去に犯した誤りや社会的不正のことみたいな感じです。大災害とは違っているように思われます。そして Kundera さんの小説内のその言葉では、それら誤りなり不正は、どこまでも償われることのない、ただただ忘却されるだけのものであると述べられているようでした。一応ここに報告しておきます。

*1:ミラン・クンデラ、『冗談』、関根日出男訳、みすず書房, 1970年。