( 連絡事項 このブログを書いている私のパソコンが壊れそうな感じです。かなり危ないです。このブログの更新が突然止まったら、パソコンが亡くなったということです。仮に更新が止まっても、新しいパソコンを購入して、そのうち再開したいと思っていますが。)
先日、ちょっと興味深い論証を見かけましたので、ここに記してみます。
だいぶ前に公表されている論証ですから、ご存じのかたもおられるかもしれません。私は最近まで知りませんでした。
その論証とは、不合理なことをめぐるものです。
不合理なことや非合理なことに関する哲学に興味をお持ちのかたにとって、以下の私の記述は、何か参考になるところがあるかもしれません。ないかもしれませんが ... 。
いずれにせよ、その論証は次の文献に出ています。
・ A. Weir ''There Are No True Contradictions,'' in G. Priest et al. eds., The Law of Non Contradiction, Oxford University Press, 2006, p. 405.
以下にその論証を引用し、一部、試訳/私訳も付けてみます。誤訳しているかもしれません。すみません。英語が読めるかたは私の訳を無視してください。
引用文末尾の (1995) とは、以下の文献のことです。
・ G. Priest ''Gaps and Gluts: Reply to Parsons,'' in: Canadian Journal of Philosophy, vol. 25, 1995.
今の論証と類似のものを、もう一つ記します。
次の文献に出ています。
・ G. Priest Doubt Truth to be a Liar, Oxford University Press, 2006, p. 12.
引用してみます。引用文内で the world is trivial と言われていることは、everything is true のことです。
引用文中の「Littman (1992)」とは、次の文献です。
Littman, G. (1992), ''The Irrationalist's Paradox,'' paper presented at meeting of the Australasian Association of Philosophy, University of Queensland. *1
これら二つの論証 Littman's Paradox を見て思ったのですが、「何だか Curry's Paradox に似ているなぁ~、ひょっとしてひょっとすると、これらの Paradox は双子なのかな?」ということでした。
実際、これらが似ていることは、特に不思議ではないかもしれません。と言うのも、そもそも Littman's Paradox は、どことなくうそつきの paradox に似ていますし *2 、それがうそつきの paradox に似ているならば、Curry's Paradox に似ていてもおかしくはありません。うそつきの paradox と Curry's Paradox が似ていることは、以前から指摘されていることだからです *3 。
そこで今日は、Littman's Paradox と Curry's Paradox がどのように似ているのか、それを見てみたいと思います。具体的には、Curry's Paradox の informal な論証をなぞるようにして Littman's Paradox の論証を展開してみたいと思います。
このあとは、できましたならば、まず当ブログ、2017年11月12日、項目名「Curry's Paradox: An Intuitive Argument」のなかの Curry's Paradox の論証を読んでおいていただければと思います *4 。すっかり理解しなくても構いません。流し読みでも結構です。
あるいは、以下の Littman's Paradox を読まれたあとに、Curry's Paradox の論証を読むということでもいいです。読み比べていただければ、両者が似ていることが、よくわかると思います。
それでは Littman's Paradox の Curry's Paradox Version を記します。
次の文を見てください。
この文は偽である。
これは「うそつき文」と呼ばれる文です。これと似た感じのする文に、次のような文があります。
この文を主張するならば、それは不合理なことである。
「この文」とは、直前の文自身のことです。この直前の文を「不合理文」と呼ぶことにしましょう。
今、不合理文「この文を主張するならば、... 」のなかの表現「この文」に、手短な固有名として、'(#)' という名前を付けると、上の不合理文は次のようになります。
(#): (#) を主張するならば、それは不合理なことである。
さらにこの文の後件である「それは」以下を省略して書けば、今の文は次のようになります。
(#): (#) を主張するならば、不合理である。
今後、(#) と言えば、この文を考えることにしましょう。
さて (#) を主張すると仮定しましょう。つまり、
1. (#) を主張する。
この 1. の (#) は「(#) を主張するならば、不合理である」のことなので、1. の (#) にこの鍵カッコの文を代入すれば、
2. 「(#) を主張するならば、不合理である」を主張する。
となります。
ところで一般に、文 p ついて、「p を主張する」と言うことは、「p」と言うことです。たとえば「私は花子が好きだと主張する」と言うことは、「私は花子が好きだ」と言うことです。よって、2. により、
3. (#) を主張するならば、不合理である。
です。
さて今 1. でしたから、1. と 3. とで、
4. 不合理である。
が出ます。こうして 1. という仮定から 4. が出ましたので、仮定の 1. を落として無条件に
5. (#) を主張するならば、不合理である。
です。つまり 5. が証明できました。
ところで一般に、証明されてもいないことを根拠もなく主張することは不合理なことでしょうが、きちんと証明されたことを主張することは、ちゃんと証明があるのだから合理的なことです。
よって、5. の「(#) を主張するならば、不合理である」を主張するならば、それは合理的なことです。
そして、この鍵カッコの文は (#) に他なりませんから、今のことは次のように言うことができます。
6. (#) を主張するならば、合理的である。
さて、5. は証明された正しいことです。さらに、その正しい 5. から帰結した 6. も正しいことです。しかし 5. と 6. の前件は同じなのに、後件は矛盾しています。
(#) を主張するならば、5. により、不合理であるということが帰結し、同じく (#) を主張するならば、6. により、合理的であるということが帰結します。
よって (#) を主張するならば、不合理かつ合理的である、という矛盾が帰結します。
この矛盾を避けるにはどうすればよいのでしょうか? (#) を主張するならば、矛盾が帰結するのなら、(#) を主張しなければよい、ということになります。実際、何ごとかを主張するかどうかは、私たちの意志にかかっており、(#) を主張したくなければ主張せずに済ますこともできます。
したがって、今先ほどの矛盾を避けるためには、(#) を主張しなければよい、ということです。
以上、論証終り。
さて、はたして上のように Littman's paradox を定式化すべきでしょうか? 仮にこのように定式化してもよいとするならば *5 、(#) を主張しなければ、すべては解決するのでしょうか?
ちょっと私にはまだわかりません。
解決するか否かは別として、最後に Littman's Paradox, Liar Paradox, Curry's Paradox の間にあると思われる関係 (の一部) を記しておきます。
正確には、不合理文と、うそつき文と、Curry Sentence の類似性を記します。
(これ以降は、ほんのちょっぴりだけ進んだ話です *6 。)
さて、うそつき文「この文は偽である」の名前を 'L' とし、⇔ を同値記号、¬ を否定の記号、T を真理述語 (「~は真である」)、[ ] を引用符とするならば、うそつき文の、いわば論理的内容は、次のように書けます。
7. L ⇔ ¬T[L].
ここで否定記号 ¬ を、通常行われているように、以下のように定義します。
否定の定義: ¬Φ =def. Φ → ⊥.
Φ は任意の平叙文/式、→ は material conditional, ⊥ は 'absurdity constant' と呼ばれ、偽である式を表します。
すると、この否定の定義を援用すれば、7. は次のようになります。
8. L ⇔. T[L] → ⊥.
ところで不合理文「この文を主張するならば、不合理である」について、「~を主張する」という述語を 'S' で表せば、今の不合理文の論理的内容は、以下のように書けます。
9. (#) ⇔. S[(#)] → ⊥.
ここでは 8. の ⊥ が 'absurdity' と呼ばれていることから連想して、不合理文の「不合理である」という表現を '⊥' で表してみました。
8. と 9. はよく似ていますね。
さらに、Curry Sentence 「この文が真ならば、任意のことが成り立つ」を 'C' と名付け、任意のことを 'Φ' で表すと、Curry Sentence の論理的内容は、次のように書けます。
10. C ⇔. T[C] → Φ.
こうしてみると、8., 9., 10. は、ともに似ていますね。
10. の一般的な Φ を ⊥ に限定してやると、いっそう 10. は 8. に近づきます。
なお、不合理文を 9. のように表すのはよくないかもしれません。「~を主張する」という述語は、普通の述語 (たとえば「~は赤い」、「~は日本人である」など) とは大きく異なっているとも考えられます。その場合、「~を主張する」という述語は、ここで考えている論理の体系には含まれていないとも考えられます。
そこで 9. から「~を主張する」に相当する 'S' を消去してやれば、9. は以下のようになります。
11. (#) ⇔. (#) → ⊥.
ここで真理図式 (Truth Schema) が成り立つとします。つまり、
真理図式: T[Φ] ⇔ Φ.
すると、8. は
12. L ⇔. L → ⊥,
に、10. は
13. C ⇔. C → Φ,
になります。
このようにしても、11., 12., 13. は、ともに似ていますね。
以上のように 8., 9., 10., または 11., 12., 13. の三者が似ているならば、これらは同じ一つの the Cause から発現しているのかもしれません。
しかし、似ているからといって、みんな同じ親を持つとは限りません。三つ子は同じ親を持ちますが、よく似た三人の人間が別々の親を持っていることは普通にあることでしょう。
では、Littman's Paradox, Liar Paradox, Curry's Paradox は、どうなのでしょうか? どうなんでしょうね。興味のあるかたは、ぜひ考えてみてください。
今日はこれで終わります。思い付きで書いていますので、「すべて正しいことが書いてある」と思わずに、「ふむふむ、なるほど、しかし本当だろうか?」という気持ちで読んでいただければと思います。
含まれているはずの間違い、無理解、無知、勘違い、誤字、脱字、不統一な表記など、これらすべてにお詫び申し上げます。
*1:この文献名は、Doubt Truth to be a Liar の References, p. 215 に載っているものです。
*2:最初の引用文の Weir 先生は、うそつきの paradox と Littman's Paradox が似ていると見ています。先生の引用文の直前部分で、先生はうそつきの paradox の話をされています。先生の文章の冒頭で、'Here λ is a Liar sentence' と言われていますが、この 'Here' というのは引用文の直前にあった文章を指しています。
*3:詳しくは、当ブログ、2017年12月3日、項目名「The Liar Paradox, Curry's Paradox, and Russell's Paradox, Are All These Paradoxes of the Same Kind?」を参照ください。なお、2019年1月1日よりも前の記事は、レイアウトなどの体裁が崩れているかもしれません。その頃の記事は、はてなダイアリーで記していましたが、はてなダイアリーが終了するため、それらの記事を2019年になって、はてなブログに移しました。その際体裁が崩れ、読みにくい個所があるかと思います。すみません。どうかご了承ください。
*4:先ほどの註でも述べましたが、2019年1月1日よりも前の記事では、レイアウト等の体裁が崩れて読みづらいところがあるかもしれません。そのようでしたらどうかお許しください。
*5:仮に以上のように定式化してもよいとしても、informal に定式化するのではなく、完全に formal に定式化してから、その定式化が適切かどうかを検討する必要があるでしょう。
*6:以下のうそつき文と Curry Sentence との関係は、Roy T. Cook, Paradoxes, Polity, Key Concepts in Philosophy Series, 2013, p. 76 参照。または当ブログ、2017年12月3日、項目名「The Liar Paradox, Curry's Paradox, and Russell's Paradox, ... 」の Section 1. Is the Liar Sentence a Special Case of the Curry Sentence? を参照ください。