目次
はじめに
今日も、L. Wittgenstein の Philosophische Untersuchungen をドイツ語原文で読んでみます。
上の本『哲学探究』の中で「家族的類似性」というよく知られた言葉が現れますが、その続きで、不明瞭な概念の話が出てきます。その部分を読むことにしましょう。
いつものようにまずドイツ語原文を挙げ、そのドイツ語の文法事項を私が解説し、そのあと直訳調の私訳を掲げます。それから既刊邦訳三種を示し、それぞれ私が気付いた点、疑問に思った点を記します。そして最後に二点、追記を施します。
三種類の邦訳は次の通りです。
・黒田亘編 『ウィトゲンシュタイン・セレクション』、黒田亘訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2000年 (初版1978年)、(「平凡社版」と略記)、
・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『哲学探究』、丘沢静也訳、岩波書店、2013年、(「岩波版」と略記)、
・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』、鬼界彰夫訳、講談社、2020年、(「講談社版」と略記)。
これらは刊行年順に並んでいます。一つ目はハンディな利用しやすい本、あとの二つは近年刊行された最新版とも言える本です。各々がどの底本を典拠に翻訳が行われているのか、その情報は、『探究』をドイツ語原文で読むシリーズの初回、各訳書に付けられた註を見てください。
ドイツ語原文
ドイツ語の原文は The Ludwig Wittgenstein Project がネット上に公開しておられるヴァージョンを使用させていただきます。URL についても初回のドイツ語原文に付けられた註を見てください。
・Ludwig Wittgenstein Philosophische Untersuchungen, hrsg. von G. E. M. Anscombe, R. Rhees, G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein Werkausgabe, Band 1., Suhrkamp Verlag, 1999.
ドイツ語文法事項
Man kann sagen: Man はいつでも1格の主語、普通は訳出しなくてもよい語で、man を含む文は受け身で訳すとうまくいくことが多いです。また、ここの kann は「言うことが物理的生理的に可能である」という意味の可能性のことを言っているのではないでしょう。むしろ「〜と言う人がいる可能性がある」という、あり得るという意味、または「人は〜と言うかもしれない」という推量の意味でしょう。一応私は前者の意味を採用しました。
ein Bild eines Menschen: この Bild を私は「像」と訳しましたが、文脈から言えば写真のことですので「写真」と訳してもいいでしょう。ただし最近の Wittgenstein 研究では、Bild という概念を重要視することもあるようですので、その場合には Bild の訳を各文脈に応じて訳し分けるのではなく、すべて一貫してニュートラルに「像」と訳したほうがよい、とされるかもしれません。
Ja: この語の訳は私には難しいです。白水社の『不変化詞辞典』で確認すると、ja には10個弱の意味が挙がっているのですが、どの意味がふさわしいのか、私には確信が持てません。ただ一つ、はっきり言えるのは、これは心態詞の意味は持っていない、ということです。というのも、今の Ja は文頭に来ていますが、心態詞が文頭に来ることはないからです。ということは、この Ja は事実を確認・強調する意味 (もちろん〜だよね) とか、警告の意味 (〜しろよ) などはない、ということです。でも、じゃあ、それら以外でこの Ja はどんな意味なのかと言われると、ちょっと私にはわからないです。こういう場合はもう辞書から一旦離れて前後の文脈を繰り返し読み込んで、Ja のニュアンスを自力で感じ取り、最も近い日本語を当てはめるしかないと思います。そこで私がこの語の訳で一番近いと感じたのは「それにだ、そうそうそれに、その上、それどころか」でした。そのようなわけで私はこの語を軽く「それに」と訳してみました。間違っていましたらすみません。
mit Vorteil: この mit は様態・状態を表していると考えられます。従って直訳すれば「有利な状態で、利点を伴って、長所のある」などとなります。そこでこの語句を含む文を直訳すると、「それに人はピンぼけした像をピントの合ったものによっていつでも有利に取り替えることはできるのか」となりますが、これでは不自然な日本語ですし、そもそも意味のよくわからない訳文です。では、どうするかというと、「有利に」という副詞的語句を形容動詞的に訳し変えてやるとうまくいきます。そこで実際にそう訳し変えると「それに人がピンぼけした像をピントの合ったものによって取り替えることは、いつでも有利な結果を産むと言えるのだろうか」などとなります。
durch ein scharfes: この直後に Bild か省略されています。このあとの「Ist das unscharfe」の直後でも Bild が省略されています。
das, was: was は不定関係代名詞、その先行詞は das。ちなみに、ここの文ではピンぼけした像が必要だと述べられていますが、その理由は以下の「区画」の例で説明されています。それは要するに、ガチガチに厳密な境界を持った概念はいつでも必要というわけではなく、大抵の場合、境界にいわゆる「遊び」のある概念で十分であり、逆に「遊び」がない概念ばかり使うことはかえって不便を招く、ということです。
Frege vergleicht den Begriff mit einem Bezirk: A mit B vergleichen で、A を B と比べる、A を B にたとえる。ここでは後者が適切です。
einen unklar ... keinen Bezirk nennen: この文には man が出てきています。man はいつでも1格なので、この man が主語です。またこの文の動詞に相当するのは文末の nennen であり、これは4格を二つ取ることがあります。その時、意味は「〜をーと呼ぶ」になります。このことから einen unklar begrenzten Bezirk が一つ目の4格で、keinen Bezirk が二つ目の4格だとわかります。さらに überhaupt keinen ですが、überhaupt は否定の言葉とともに使われた場合は全否定、否定の強調になりますので、この語句は「まったく〜ではない」となります。こうして結局この文の意味は、直訳すると「不明瞭な境界を持つ区画を、人はまったく区画と呼ぶことはできない」となります。なお、このドイツ語文中の könne が接続法第一式になっているのは、könne の文が sagt 以下の間接文内にあるからです。
Das heißt wohl: Das heißt とだけあれば「つまり」と機械的に訳せば通常済みますが、wohl が加わっていますので機械的には訳せません。wohl はいろいろな意味がありますが、一つには、蓋然性が高いと思われることについては「きっと」とか「かなり」とか「確かに」などと訳され、蓋然性が低いと思われることについては「たぶん」とか「おそらく」などと訳されます。この語にアクセントがある時は前者の意味、アクセントがない時は後者の意味なのですが、文章を読んでいる限りではアクセントがあるのかないのかはっきりしませんので、どちらの意味なのかはおそらく文脈から判断しなければならないものと思われます。(少なくとも私は文脈以外に判断するすべがあるのか、知りません。) このように、wohl には「確かに」と「たぶん」というような、正反対とも取れる意味があり、一体どちらなのか、私はしばしば悩むことがあります。ここでも私は Wittgenstein がどちらの意味で言っているのか悩みました。繰り返し読み返した末に考えたのは、フレーゲが「境界のはっきりしない区画は区画とは言えない」と述べていることで言わんとしていることの一つは「たぶん、そんな区画ではきちんとしたことはできないだろう」ということよりも「確かに、そんな区画ではきちんとしたことはできないはずだ」ということだと思われました。つまりそんなに蓋然性の低いことを言っているのではなく、むしろ高いことを言っていると捉えるほうが筋が通っている、ということです。というわけで、私はこの wohl を「きっと」と訳してみました。しかし既刊邦訳の訳者の三先生はみな「たぶん」の意味で訳しておられます。ですので、私のほうが間違っていて誤訳しているかもしれません。けれども、一応、文脈からは「きっと」と訳したほうがよいと私は思いましたので、訂正せず、そのままにしてあります。私のほうこそ間違っていましたらすみません。
wir können mit ihm nichts anfangen.: mit 3格 nichts anfangen können で、「(3格) をどうすることもできない、どうしたらいいかわからない」。
Aber ist es sinnlos zu sagen:: es は zu sagen 以下を指します。
Halte dich ungefähr hier auf: Halte dich ... auf は命令形の2人称単数。命令形2人称単数は語幹に e を付けます。命令形2人称複数なら語幹に t を付けます。なお、命令形2人称単数の口語では、しばしば e が落ちます。この命令文の直後に Denk dir が来ていますが、この Denk は命令形2人称単数で、Denke の e が落ちた形です。
ich stünde mit einem Andern: stünde は stehen の接続法第二式。ではなぜ接続法第二式になっているのでしょうか。虚構を表しているから、とも捉えられますが、ここではむしろ Denk dir の間接文内にあるからでしょう。その場合、stehen は ich stehe となりますが、これでは直説法と区別が付きません。こういう場合は接続法第二式で代用するのでした。よってここでは stünde が使われています。また、Andere はいわば唐突に出てきた場合、人か物を一般的に表します。ここでは文脈からいって人であることは明らかでしょう。
Dabei werde ich: この werde は未来の意味ではないでしょう。というのも、ここではこれから起こることを述べているわけではないからです。また推量の意味でもないでしょう。というのも、ここでは自分自身のことを述べていて、その内容は蓋然性の低いことではないので、わざわざ推し量る必要などないからです。とすると、この werde は意図や意志を表していると考えられます。訳は「〜するつもりである」とか「私なら〜する」みたいな感じになりますが、まぁ、ここでは特に訳出する必要はないと思います。
nicht einmal: 「〜すらしない」、「〜さえしない」。あるいは「まったく〜しない」。
als zeigte ich: 私はこの表現を誤訳してしまいました。まったく致命的で、まったく初歩的な誤訳です。自力で訳したあと、確認のために平凡社版を読み、それから岩波版の邦訳でこの部分の訳を見たのですが、岩波版を見た瞬間「しまった、やられた」と気付きました。私は当初これを「私は〜を指した時」と訳しました。als を単なる「〜した時、〜する時」の意味と解し、zeigte をただの直説法過去形「〜を指した」と取ったのです。安易でした。ところで「als 倒置文は als ob」という標語があります。と言いますか、この標語は私が勝手に作ったもので、「als + V + S」と来たら、それは als ob 文 (まるで〜であるかのように) だ、ということを意味します。鎌倉幕府の成立年を「いいくに (1192) 作ろう鎌倉幕府」と覚えたように (ただし「鎌倉幕府の成立年 = 1192年」には異論があるようです)、als のあとに倒置文が来たら als ob 文のことだと覚えるために「als 倒置文は als ob」という標語を作ったのです。そしてこの標語をブツブツ唱えながら随分前に覚えたものですが、近頃全然 als 倒置文を見かけることがなかったものですからすっかり、きれいさっぱり忘れていました。まったくダメですね。というわけで、ここの表現は als ob 文の一ヴァリアントであり、als は「のように」、zeigte は直説法過去ではなく、接続法第二式で「指す」の意味、結局ここは「まるで私は〜を指しているかのように」という意味になります。いやはや、まったくひどい誤訳です。けれども、まぁ、上の標語を思い出しましたので、よしとしましょう。ではもう一度「als 倒置文は als ob」。
eine zeigende Bewegung: zeigende は zeigen の現在分詞 zeigend の形容詞的用法で、4格の不定冠詞付き名詞 eine ... Bewegung に付いて弱変化しています。
was ein Spiel ist: この was は、文脈からいって、先行詞なしの不定関係代名詞 (〜であること) ではなく、疑問詞 (〜とは何か) でしょう。
will, daß: この will は助動詞 wollen の本動詞的用法で、「〜を望む」。
sie in einem gewissen Sinn verstanden werden: sie ... verstanden werden は「過去分詞 + werden」となっているので受動態。
er solle: er は何を差しているのでしょうか。一見したところ、少し前の Man を指しているように見えますが、man を人称代名詞の er で受けたり指したりすことことができないことは、ドイツ語文法の初歩です。(man を指したい時は、1格 man を繰り返すか、2格 eines、所有冠詞 sein、3格 einem、4格 einen で受けます。) ではこの er は何を指しているのかというと、私にははっきりしません。前のほうに出て来た「広場で一緒に立っている人」のことのようにも感じられます。実際、指示代名詞は文中直近の名詞を指すのに対し、人称代名詞は文中遠方の、しかもかなり遠方の名詞を指すことができますので、er は「広場の人」のこととも思えます。けれどもそれは少し不自然にも感じられます。そうすると、話の流れからいって、おそらく直接文中の表現を指しているのではなく、Man gibt Beispiele というように、誰かによっていくつかの例を示された人のことを指しているのだと思われます。間違っていましたらすみません。そして solle ですが、これは接続法第一式であり、間接文内にあるから第一式を取っています。
das Gemeinsame sehen, welches ich ... nicht aussprechen konnte: welches は関係代名詞単数4格。先行詞は das Gemeinsame で、aussprechen の目的語になっています。
eines Bessern: このあとに Mittel が省略されています。
Denn: 理由を追加するように述べる接続詞。定訳は「というのも〜だから」。
mißverstanden kann ... Erklärung werden: mißverstanden は過去分詞で、werden が来ているから受動態。
直訳/私訳
ここで『探究』のドイツ語原文を読んでいるのはその哲学を考察するためであるよりも、むしろ語学のために読んでいますので、基本的に以下の私訳は直訳を旨とします。しかしそうは言いながらも、しばしば自然な訳にしたり、原文の構造をなぞらず、原文の語順などにこだわらない訳を採用している部分もあります。そのあたりは「一貫していない」と非難されるのではなく、大目に見ていただければ大変助かります。
また、原文のイタリックは下線に直しています。
私訳を作る際は、最初、既刊邦訳を参照せず、自力で訳しました。その後、誤訳がないか、各種邦訳を見て、チェックをしました。その結果、少なくとも一つ、あるいは二つ、誤訳を見つけました。どちらについても上記「ドイツ語文法事項」の欄で言及しました。そのうちの一つは完璧に誤訳でしたので、訂正した上で記しています。もう一つも誤訳かもしれませんが、微妙ですので、これは訂正せず記しています。
私が誤訳していることに気付かせてくださいました訳者の先生方に感謝申し上げます。この他に誤訳が残っておりましたら読者の皆さまにお詫び致します。
注記
と、このように訳してはみたものの、正直に言って、訳文終わり辺りの「例を挙げることは」以下は、私にはどのように訳せばよいのか、わかりませんでした。見られるようにその箇所のドイツ語の文法や構文はまったく平易であり、形の上では難しいところなど何もないのですが、意味の上では Wittgenstein が何を言おうとしているのか、原文を何度読んでも私にははっきりとはわかりません。そこでの言葉が不足しているためだと思います。もう少し詳しく丁寧に説明してくれたらわかると思うのですが、Wittgenstein はぶっきらぼうにしか述べてくれないので意味が判然とせず、そのため正確な訳を確信を持って書き下すことができません。上の私訳はかなり私のほうで解釈を入れ、補足しつつ訳してみたものです。
そこで、念のためにその部分のプレーンな直訳を記しておきます。
これでは私にはちょっとよくわからないです。たぶんここでは次のようなことが言われているのだろうと私は解しました。
詳しくは、以下の二つの疑問に対する答えを私は推測してみました。
疑問 (1)
どうして例を挙げる説明が、説明の間接的手段ではないと言うのか、
疑問 (2)
一般的説明とは何であり、それが誤解されることがあり得るというのはどういうことか。
その推測した答えを解説してみましょう。
たとえば「人間とは何か」を説明する場合、「ほら、このソクラテスさんやプラトンさんのことですよ」と例を挙げて個別的で具体的な説明することがあります。これは雑多な具体例からそれらの共通点を読み取って、あるいは Wittgenstein の言い方なら、それらの類似点を読み取って、人間の何たるかを説明するやり方です。この時、具体例が雑多すぎると類似点を捉え損ねることも生じるでしょう。もっと直接的に類似点を指摘できればなおよいはずであり、ただ単に具体例を多数相手の眼前に放り出すだけでは迂遠な間接的説明法と言えます。
これに対し、人間を説明するに際し、「何であれ、それが理性的な動物なら、それらはすべて人間である」と述べることがあり得ます。たぶんこれが一般的な説明と言われるものでしょう。先ほどの間接的な説明よりも、この一般的で抽象的な説明のほうが紛れのない直接的な説明のように感じられます。共通点・類似点を指摘しているこちらのほうが本格的で正当な説明になっていると思われるのに比べ、先ほどの例示的説明は場当たり的で間接的な、副次的二次的説明と感じられます。
しかし具体例を挙げて説明するやり方では類似点を捉え損ねることが確かにあるとしても、そのような場合は必ずしも多くはないでしょうし、捉え損ねた時も、実際には説明してくれている相手とのやり取りを通して、類似点の把握の失敗も修正されて、大抵の場合、類似点をきちんと把握できる段階へと至るものです。
また具体例を挙げるのではなく、直接的で一般的な抽象的説明を与える場合でも、類似点が明示的に指摘されているにもかかわらず、その類似点の把握に失敗することさえあり得ます。たとえば人間を説明するのに「それは何であれ理性的動物のことだ」と類似点・共通点を明示的に提示しても、「理性的」ということで人々がそれぞれ異なることを理解してしまうということは大いにあり得るでしょう。それどころか「理性的」ということで何を理解したらよいのかよくわからない、ということさえあり得ます。このようにたとえ直接的に類似点を指摘する説明でも、それをきちんと把握できない場合が生じるのです。
こうして具体例を挙げる説明は、類似点を明示的に指摘しない点で、間接的な説明と見えるものの、単純にはそうとも言えないと思えてきます。たとえ類似点を明示的に指摘する説明が思い浮かばず、例を挙げ、類似性を示唆することしかより良い手段がない場合でも、それはそれでまっとうな説明であり、直接的説明だと言っても差し支えないように思います。
それに類似点を明示的に指摘する一般的説明も、必ずしもその指摘内容を正しく把握できない可能性があるという点で、直接的な説明と見えるものの、これも単純にはそうとも言えないと思えてきます。そうすると、このような説明だけが直接的説明だと名のるのは、少々僭越な行為だと言えそうです。
以上の説明から、(1) どうして例を挙げることが説明の間接的手段ではないと言えるのか、また、(2) 一般的説明とは何であり、どうしてそれが誤解されることがあり得ると言えるのか、これら二つの疑問に対し、大まかながら答えが得られるものと期待します。
それぞれの答えをまとめておきましょう。
(1) の答え
類似点を明示的に指摘せずとも、例を挙げるだけで、実際には十分に説明として機能する故、例示による説明をことさら間接的手段として貶め、格の低い手段として見下すべきではない。例示は説明の間接的手段ではなく、むしろ生活の現場では直接的手段と見なして差し支えない。
(2) の答え
具体例を挙げて説明するのではなく、該当するものすべてについて言える類似的特徴を指摘するのが一般的説明である。それはしばしば典型的には「何であれ、それがかくかくの特徴を持つならば、それはすべてしかじかである」と言い換えられるような説明を行う。このように類似点という特徴を明示的に指摘する一般的な説明は、一見個別的偶然的事例に依存しない直接的説明として正当性を有するように見えるが、実際にはいつでもその指摘内容を正しく把握できるとは限らないので、格の高い手段として特別扱いすべきではない。たとえ普遍性を持った一般的説明であっても誤解を招くことがあるのである。
さて、このように私は答えを推測してみましたが、以上の答えは間違っているかもしれません。そのようでしたら謝ります。すみません。この点に関し、Baker & Hacker 先生たちがどのような見解をお持ちなのか、私はまったく知りません。不勉強でごめんなさい。
平凡社版
190-191ページから引用します。傍点は下線にしてあります。
この訳文について、思うところを書き付けてみます。大学入試の英文和訳問題の答え合わせのような感じで訳文をチェックしてみます。商業翻訳としては充分だとしても、独文和訳問題の解答としてはどうなのか、という観点から精査してみます。ろくにドイツ語もできないのに生意気なことを以下では書いていると思いますが、純粋に疑問に思ったことを記しますので、どうか広い心で許してやってください。あらかじめ、私による非礼に対し、訳者の先生方にお詫び致します。
なお毎回述べていますが、上に掲げたドイツ語原文と一字一句同じ文に基付いて、各先生方は翻訳を行われたのかどうか、私にはわかりません。たぶん、少し異なった文を元に先生方は訳出されているのだろうと思います。そのため、各自の訳が異なり、その結果、私がいらぬ疑問を抱いているという可能性は大いにあります。皆さまも原典がそれぞれ異なっている可能性を念頭に置かれた上で、以下の私の疑問をお読みください。
(1) 「そもそも概念といえるのか」。「概念」に傍点 (または下線) が必要なのに、それがありません。
(2) 「映像」。訳文では写真のことを「映像」と言っています。別に間違いではないですが、おそらく現在では多くの人が動く像のことを「映像」といい、写真のような静止している像は「画像」と言うと思います。なので写真を「映像」と言うのはちょっと違和感を覚えるかもしれません。訳文が古びてきているのでしょうね。
(3) 「概念を領域と比較し」。これは「比較する」と訳すのではなく「たとえる」とか「なぞらえる」と訳す必要があると思います。単に並べて比べているのではないからです。
(4) 「一点」。これも傍点 (または下線) が抜けています。
(5) 「ゲームの何たるかを」。この直前に etwa の訳「たとえば」が必要ですが、脱落しています。
(6) 「見ているはずだ」。「はずだ」は solle の訳。なぜここで sollen を「はずだ」と訳しておられるのか、ちょっとよくわかりません。ここはごく普通に訳せばいいところだと思います。sollen の基本的な意味は「主語に対する他者からの要求」です。主語が指している人に対し、この文の話者や第三者、ことによると神様や世間が何事かを要求したり希望したりしている様を表すこと、これが sollen の初歩的で基本的な意味です。なので「はずだ」という何かこの文の話者の主観的な確信の度合いを意味しているかのような訳はふさわしくないでしょう。主語が指すその人に「見よ」とか「見てくださいね」と求めていることがわかる訳にしたほうがいいと思います。
(7) 「適用するはずだ」。「適用する」に傍点 (または下線) が必要ですが、ここでも抜けてしまっています。また「はずだ」は solle の訳で、これがふさわしい訳でないことは、上の (6) をご覧ください。
(8) 「よりよい方法が使えないための」。このうち「ための」の「の」が何なのか、私にはよくわかりません。何だか非常に不自然に感じられます。この「の」はどこにかかるのでしょうか。「間接的」か「説明手段」のどちらかしか考えられませんが、どちらにしても、とても変に感じられます。「の」はいらないと思うのですが。
岩波版
65-66ページから引用します。傍点は下線にしてあります。
気が付いたことを述べます。
(1) 「鮮明でない写真を」。原文にある Ja の訳が抜けています。あるいは意図的に省かれたのかもしれません。この Ja の訳は難しいですし、特に訳さなくても大意は取れますから、無理には訳出されなかったのかもしれませんね。
(2) 「境界線など引かないだろうが」。werde の訳である「だろう」が気になりました。原文では「私は広場で人に、あるところにいてほしい時、境界線なんかまったく引かない」と言っています。そうですね、わざわざ境界線を引く人などいません。「私は境界線を引くかもしれないが、たぶん引かないだろう」と推測しているのではありません。また「将来的に引くということにはならないだろう」と未来のことを述べているのでもありません。この werde は意志や意図を表しているもので、あえて訳出すれば「〜するつもりなどない、〜しようなどとは思わない」とでもするか、あるいは無理に訳出せず、断定的な言い切りの気分を出して「〜なんてしない」と訳せばいいと思います。
(3) 「手で指す動作をするだろう」。etwa の訳がありません。「たとえば」を加える必要があるでしょう。または平凡社版のように「おそらく」でも可です。
(4) 「しかしまさにそうやって」。「しかし」は Und の訳。und が逆接の意味になって「しかし」と訳すべき時はよくありますが、ではここでは何と何が逆接の関係にあるというのでしょうか。原文を読むとここの Und は逆接の意味ではなく、単なる順接の意味「そして」だと思います。わざわざ「しかし」と訳す必要はないと思うのですが、そのように訳出しておられるのは、おそらく前のところで「特定のポイント」という言葉が出ており、この「特定の」という言葉が境界の定まった確定的な範囲を連想させ、それに引きずられて、逆接のニュアンスを醸し出すべく「しかし」という言葉が使われているのだろうと推察します。この推察が当たっていてもいなくても、いずれにせよ原文は順接だと思いますので、「しかし」と訳すのはちょっと原文から離れているかな、と感じました。
(5) 「説明されるのが、ゲームとはなにか」。これは (4) のすぐあとの語句です。ここでも etwa の訳が出ていません。「たとえば」を「ゲーム」の前にでも入れる必要があるでしょう。
(6) 「これらの例から共通点を見つけてほしい」。ここの原文には nun があるのですが、この意味合いが訳出されていないように思われます。まぁ、この語も訳に苦労しますし、どのような訳がふさわしいか、判断に迷いますので、これも無理には訳しておられないのかもしれません。このあとの「これらの例を〜ほしい」というセリフでも本来 nun の訳が必要なのですが、その訳語が見えません。省いておられるのでしょう。
(7) 「ちょっと訳があってー」。原文は「– aus irgend einem Grunde –」。訳文では横棒が一本あるだけです。原文ではこの種の横棒はしばしば語句を挿入するために使われており、ここでも挿入のつもりで使われています。しかし訳文を見ると、一本だけなので「ちょっと訳があって」が挿入されているのか、それとも横棒のあとの表現が追加的に挿入されているのか、一見しただけではわかりません。読み直すと「ちょっと訳があって」のほうが挿入されているのだろうな、とわかるのですが、少しわかりにくく不親切ですね。「ちょっと」の前にもう一本横棒を入れるか、それとも横棒から文が始まるのが不自然なら「私には ー」という語句を入れるなどするとよいと思います。
講談社版
79-80ページから引用します。傍点は下線にしてあります。訳注は省いて引きます。
ここでも気が付いたことを述べます。
(1) 「輪郭のぼんやりした概念だ、... だがあいまいな概念というのは」。ここの「ぼんやりした」も「あいまいな」も原文ではどちらも verschwommen-。私が不思議に思うのは、なぜここで同じ語にわざわざ別の訳語を当てるのか、ということです。あまりに同じ訳語を連発すれば単調になり、日本語として不自然になってしまうことがありますので、そのような場合は、その他の事情が許せば、言い換えてもよいと思います。しかしここでは「ぼんやりした」という言葉が連発されて不自然を来している、ということはありません。なので、特別に言い換えねばならない理由はないと思います。それよりも何より重要なのは、言い換えると前に出てきた表現とのつながりが失われる可能性が出てきます。原文では同じことを述べているのに邦訳の読者の中には別のことだと勘違いしたり、別々の話だと、妙に深読みしてしまう人も出てきます。ここはことさら言い換える必要はない場面なので、あえて「あいまいな」と訳し換えるのではなく、普通に前に出した訳語と同様に「ぼんやりと」と訳しておけばよいと思うのですが。以前にも講談社版ではこのように、わざわざ訳し分けなくてもよいところであえて別々の語が訳に使われていることがありました。不用意な気がしてしまうのですが。
(2) 「そうだろうか」。原文は Ja。なるほど、こう訳すこともできるかもしれませんね。
(3) 「ー 「大体この辺に立ってくれ!」」。三つ述べます。(I) 原文の Aber (しかし) が抜けています。(II) 「立ってくれ」は、原文では Halte dich ... auf。ただ、この表現は単に立ってくれとを言っているのではなく、正確には、立って「いて」くれ、ということだと思います。「じっと立っていてくれ」とか「立って待っていてくれ」という感じです。「立ってくれ」だけでは厳密にはニュアンスがズレていると思います。(III) 邦訳は感嘆符 (!) が付いており、感嘆文になっていますが、原文は疑問符 (?) が付いていて、疑問文です。まぁ、気分としては質問をしているのではなく、お願いしているわけなので、感嘆文みたいな感じで訳しても構わないですが、感嘆符は付けなくてもいいんじゃないか、と思う人もいるかもしれませんね。
(4) 「私は境界線を引いたりすることは決してなく」。irgend (何か/何らかの) のニュアンスが出ていません。これもいいんですけれどもね。細かく言えば、それが出ていない、ということです。
(5) 「例えば、相手に特定の地点を指すかのような動作を手でするだろう」。原文では横棒があるのですが、邦訳ではありません。講談社版では、訳者の先生により、横棒の役割が非常に重要だと解説されているのですが、その重要な横棒が消えています。ここでは不要だから、という理由で省略されたのか、講談社版の底本ではもともと横棒がなかったのか、よくわかりませんが。
(6) 「相手にそれらの例から ... 共通するものを見て取ってほしい」。原文の nun の意味合いが出ていないように感じます。まぁ、この語も難しく微妙なところがあるので、あえて訳出しなくてもいいかもしれませんが。このあとにも、もう一回、原文では nun が出てきているのですが、そちらも邦訳では省略されています。
(7) 「間接的な手段ではない」。原文には der Erklärung (説明の) という言葉があるのですが、抜けています。「説明の間接的な手段ではない」とする必要があります。
(8) 「我々はこのゲームをまさにこのように行っているのだ」。三つ述べます。(I) 「このゲーム」は das Spiel の訳。定冠詞が付いているので、文脈によっては「この」と訳してもいいと思います。しかしここではこのように訳すことは適切ではないように感じられるのですが、どうでしょうか? 急に「このゲーム」と言われてもどのゲームのことなのか、よくわかりません。この場合の定冠詞は (a) 定義で使われる際の総称表現としての定冠詞か、または (b) そこまで一般的な表現ではなく、このセクション71に至るまでに述べられて来たゲームのことを指しているのだろうと思います。(a) であるならば「そもそもゲームとは一般的に言って、このように、つまりいくつもの例を大まかにひとまとめにして理解したり、そうやってひとまとめにしたものに一般名を付け、その名前を使って人と言葉でやり取りをするものなのだ」と、ここで Wittgenstein は言っているのだろうと思います。あるいは (b) ならば「ここまで述べられて来た、わたくし Wittgenstein も、読者であるあなたも、共にご存じのゲームというものは、このように、つまりいくつもの例を大まかにひとまとめにして理解したり、云々」と言われているのだろうと思います。いずれにせよ、この「das Spiel」はゲームを定義をするように一般的に述べているか、またはここまで語られて来たゲームを一般的に述べているのであって、何か特定の、一つのゲームのことを想起させるために使われているのではないと思います。この私の見解が間違っていましたらすみません。(II) 「まさにこのように行っているのだ」。この「まさに」は eben の訳。邦訳では「まさに」は「このように」か、または「行っているのだ」の、少なくともどちらかにかかっています。しかし原文では eben は das Spiel にかかっています。従って和訳する場合、「まさに」は (定冠詞の訳出を省けば) 「ゲーム」にかからなければなりません。(III) 「このように」には傍点 (または下線) が必要ですが、抜け落ちています。
(9) 「(「ゲーム」という言葉を用いた言語ゲームのことを私は言っているのだ。)」。この文はわかりにくいと感じました。これでは文頭に「ここでは」という言葉を補う必要があるでしょうね。それでもちょっとわかりにくいですね。要するに「この丸括弧の直前で「ゲーム」という語を用いたが、それは言語ゲームのつもりで言っているのだ」と、ここで Wittgenstein は述べているのだと思います。それならば単に「私は「ゲーム」という言葉で言語ゲームのことを言っているのだ」とシンプルに訳せばいいと思うのですが、どうでしょうか? 丸括弧内の文はまったくの翻訳調になっており、とても不自然であって、引っかかりを覚える訳になってしまっています。
以上、細かいことを言っているとしたら、すみません。ただ、ここでは文法的に厳密に読み解くことを目指しているので、やはり気になるところは気になると、妥協せずに指摘する必要があったのです。どうかうるさく指摘したことをお許しください。それでも実はまだ他に気になる点があったのですが、さすがにそこまで指摘するとうるさすぎると思ってスルーした部分もあったのです。
追記 1 フレーゲに対する概念の厳密性批判は正当か?
今回引用したドイツ語の文章中では、陰にあるいは陽に、フレーゲが批判されているように見えます。「フレーゲは、あらゆる概念はそれに当てはまるか否かがはっきりする境界を持つ必要がある、と考えていたが、必ずしもその必要はない」と Wittgenstein は言っているように読めます。ただ、フレーゲを擁護するならば、私のわずかばかりの読書経験からいって、フレーゲは学問上の基本概念については確かに厳密な境界を持つべきだと言っていたと思います。学問の基本用語が曖昧ならば、その学問をきちんと展開できないことは明らかですから。しかし日常の、ありとあらゆる概念まで全部厳密な境界を持つべきだとまでは言っていなかったように思います。記憶力の弱い私が言うのであまり説得力はないですが、すべての概念という概念はどれもこれも境界が厳密でなければならないとまでは言っていなかったように思うのですが。
まぁ、私はフレーゲの全著作物を読んだわけでもありませんし、遺稿の多くは失われていますし、Wittgenstein は口頭で直接フレーゲから「日常の概念も全部境界が厳密に決まってなければならない」と言われたことがあったかもしれないので、「そこまではフレーゲは言っていない」とは断言できないのですが。一応フレーゲ側からも言い分があるだろう、ということだけは、ここで指摘しておきます。
追記 2 言語はゲームか?
「言語ゲーム」という言葉から、私たちは「言語はゲームの一種なのだろう」と推測することがあるのではないかと思います。それでは「言語がゲームの一種だとはどういうことか」と尋ねられたら、いくつかの答えが考えられるでしょうが、一つには「言語の持っている文法はルールであり、私たちはこのルールに基づいて言語を運用しているので、言語を使うことはゲームをしていることになるのだ」という答えが考えられます。たとえば「英語に備わる英文法を知り、この知識に基付いて英語でやり取りをすることは、一種のゲームをしていることになるのだ」と言われれば「確かにそうだろうな」と思えます。しかし本当にそうなのでしょうか。
私にとって母語は日本語です。そこで母語としての日本語で考えてみましょう。なお、今回は細かく周到に考えるのではなく、大筋だけを追いながら考えてみます。
さて、私たちはゲームをする時、そのルールを知っていなければなりません。たとえば将棋をする時には将棋のルールを知っておく必要があります。ただし将棋のルールのすべてを知っておく必要はありません。細かいものまで挙げれば結構な数のルールがあると思うのですが、必ずしも全部を知っておく必要はありません。大方を知っておけばよく、あるいは主要なものを知っているだけでも一応将棋はできます。
ではゲームのルールはどのように知るのでしょうか。おそらく少なくとも二つのパターンがあると思います。一つは人から言葉で説明を受けて知るという方法と、もう一つは言葉で説明は受けず、やっている様子を見て、自分で推測してルールを知るという方法です。(前者のパターンには、ルール・ブックを読むことも含まれます。) おそらく基本的にはこの二つのパターンが土台となってルールを知ることになるでしょう。
すると日本語のネイティブは、母語である日本語のルール、つまり日本語文法をどのようにして知ったのでしょうか。日本語がゲームで、日本語文法がそのルールなら、人から説明を受けて知るか、または自分で推測して知ったことになります。
しかしこのどちらも正しくはありません。もっとはっきり言うと、どちらも原理的論理的にあり得ない話です。その理由を述べましょう。
日本語をまったく知らない幼児が日本語のルールを親から説明を受けて知るパターンを考えましょう。この時、親は日本語で日本語のルールを教えることになります。けれども、幼児は日本語をまったく知らないのですから、日本語で日本語のルールの説明を受けてもわかるはずがありません。(親から説明を受けるのではなく、自分で日本語文法の本を読んで学ぶ場合にも、同様に、まったく日本語を知らない状態で日本語文法の本を読んでもわからないでしょう。) これでは日本語のルールを知ることはできません。
次に、日本語を使っている親や兄弟姉妹の様子を見て、幼児が日本語のルールを推測し、知るというパターンを考えてみましょう。この時、幼児はうまい具合にあるルールを読み取ることができたなら、たとえば「〜の場合には、一般的にーというように言葉を使用する必要がある」などと定式化するでしょう。また、似たような形で定式化できなければ、そもそもそのルールを知ったとは言えないでしょう。ところで日本語をまったく知らない幼児が推測から自力で日本語のルールを定式化するには、今やってみせたように、日本語で定式化する必要があります。しかし幼児は日本語をまったく知らないのです。知らない日本語で知らない日本語を定式化することはできません。それは矛盾というものでしょう。故に日本語をまったく知らない幼児は自力で推測により日本語のルールを知ることはできません。
このように、日本語がゲームで、そのルールは日本語文法である、と解することは、いかにもありそうなことながら、実際にそう解することは難しいことがわかります。
さて、言語をゲームと解する見解に対し、さらにもう一つ、この見解を反駁する一手を打ってみましょう。
あるゲームを知っている人は、そのゲームに参加し、あるプレイをした時、どうしてそうしたのかと問われたならば、ルールを持ち出して、自分の行為の正当性を説明するでしょう。また、ゲームと関係ない瑣末な行為でなく、ゲームと直接関係のある行為ならば、ルールに訴えてその行為を正当化できない限り、その人はそのゲームを知らない、またはよく知らないと言われるでしょう。
たとえば将棋のプレイヤーの一方があくびをした時、これは将棋とは直接関係がないのでルールを持ち出して正当化できなくても問題ありませんが、ある駒を動かした時、それをルールに基付いて説明できなければ、その人は将棋がわかっていないと言われるでしょう。
これを日本語について考えてみましょう。もしも日本語がゲームの一種で、日本語文法がそのゲームのルールであるならば、日本語を母語として使用し、このゲームに参加している人物は、年端もゆかない幼児や認知症の年配者などでない限り、日本語のある表現を使った時、どうしてそうしたのかと問われたならば、文法を持ち出して自分の行為の正当性を説明できねばなりません。さもなければその人は日本語を知らない、日本語のネイティブではないと言われてしまいます。
では、留学生などから日本語ネイティブが自分の日本語の使い方について「どうしてそうするのですか?」と言われて、文法を持ち出してどれでも説明できるでしょうか。日本語文法や国文法を詳しく勉強していないと、説明は難しいでしょう。私は日本語のネイティブですが、とてもではないですができません。ほとんどの場合、お手上げです。
しかし、日本語文法も国文法も勉強していない私は日本語を知らないかというとそんなことはありません。現にこの文章をここまで書いてきたのは私です。他人に頼らずこれだけスラスラ書けて、それでも日本語を知らないなどということはないでしょう。
こうして、日本語をゲームの一種とし、その文法をルールと解し、日本語ネイティブはそのゲームのプレイヤーなのだ、と捉えることには無理があります。
またこれは日本語に限られないことは誰にでもすぐわかるでしょう。母語である言語一般について言えることです。
以上により「言語ゲーム」という言葉から、何となく「言語もゲームなんだろうな」と思いがちですが、上で述べたような意味では言語はゲームではない、と言えます。あるいは控え目に言えば、言語がゲームであることを立証するには大きな障害が立ちはだかっている、ということです。
ここからはさらに、言語はゲームではなく、言語ゲームがゲームであるならば、言語は言語ゲームではない、とも言えるでしょう。
もう少し手短にして、スローガンにすると、
となります。「言語は言語ゲームではない」。何だか逆説的に響きますね。
では逆に、言語ゲームは言語でしょうか? 言語ゲームが日本語や英語などの自然言語そのものということはないでしょう。その一方で言語ゲームは普通、言語で行われていると思います。他方、言語ゲームが言語で行われない、言語以外の何かを通じて行われるということはあるのでしょうか。『探究』本文をもう一度よく読み返せばわかるかもしれませんが、ちょっと疲れてきたので、このあたりで話を切り上げさせてください。
なお、この「追記 2」は次の文献を参照して書きました。
・ 飯田隆 「言語の知識」。
これは飯田先生のホームページで拝読しました。インターネットで探せば簡単に出てくると思います。この文献は、もともとは野本和幸先生編集の世界思想社刊、『言語哲学を学ぶひとのために』という本に掲載されていた文だと思います。かなり以前にこの本を買って先生の文章を読んだはずなのですが、内容をまったく覚えていません。すっかり忘れていました。
なお、飯田先生は上の文献で「たとえ「言語ゲーム」という言葉があるとしても、だからといって言語がゲームであるわけではない」と直接述べておられるわけではありません。大まかに言えば「言語をゲームと見なすことができればいろいろなことがうまく説明できて好ましいのだが、そのように見なすことには重大な問題が伴い、乗り越えなければならない課題が多々ある」というような感じのことを先生は述べておられます。ここでは私は、先生の話をもとに、少しひねりを入れて、思うところを記してみたまでです。先生の意に沿わない話かもしれませんので、私の話を先生がした話だと勘違いしないでくださいね。私の話は極めて、もう一度言いますが、極めて大雑把な話です。それは先生の文献を読まれれば、誰もが気付くことでしょう。
終わりに
今日はこれで終わりにします。私の話の中で、誤字や脱字、誤解や無理解や勘違いなどなどがありましたらすみません。(きっとあります。) 私訳中、誤訳や悪訳、もっと改善したほうがよいところもあると思います。(きっとあります。) これについてもすみません。また力を付けて行きたいと考えています。訳者の先生方の訳はとても勉強になりました。深くお礼申し上げます。
最後に。ここしばらくのあいだ、Wittgenstein の『探究』をドイツ語原文で読んで来ましたが、これは一旦打ち切り、次回は違う話題を取り上げてみたいと思います。そうやって違う話題を記したあと、ひょっとするとまた『探究』のドイツ語に戻ってくるかもしれません。『探究』では他にも興味深い話がいろいろあり、読み損ねている有名なトピックも種々ありますので、また戻って来たいと思っています。ただし、本当に戻って来るのか、戻ってこれるのか、わかりませんけれど。