Interlude Popper による Wittgenstein の Tractatus 批判

目次

 

はじめに

少し前に K. Popper の『開かれた社会とその敵』が岩波文庫に入った。それでパラパラとページをめくっていると、今まで知らなかったことに、そこで L. Wittgenstein の哲学に対する批判が展開されていることに気が付いた。

Popper が Wittgenstein といわゆる「火かき棒事件」を起こしていたことは知っていたし、この事件に関する翻訳書も読んでいたが、『開かれた社会とその敵』での批判は読んだことがなかった。岩波文庫の記述に興味を感じたので購入し、その部分を読んでみた。面白かったので、ここでその内容の一部をまとめ、加えて Popper の見解に対し、私のほうから簡単に、ごく簡単に異議を提起してみたい。

今回まとめるのは『論理哲学論考』(以下『論考』) に対する Popper の批判である。彼は『哲学探究』 (以下『探究』) についても批判しているが、『探究』批判は素描にとどまっており、またこの批判に対する反論も比較的容易であろうと個人的には想像されるので、『探究』批判のまとめはここに記載しない *1

また、ここに記載する、私によるまとめと異議は、十分な検討を経たものではなく、大変未熟なものである。そもそも私は Popper の哲学の専門家でもないし、Wittgenstein の哲学の専門家でもない。以下では間違ったことを書いている可能性もある。そのため、このあとを読まれるかたは距離をよくよく取りながら読まれるよう注意してもらいたい。

加えて、私は Popper に与する者でも Wittgenstein に与する者でもない。論争でどちらが勝とうとも、どちらが負けようとも、どちらでもいい。私にとって Popper は無駄に polemical に過ぎて、ついていけない。Wittgenstein は無駄に神秘的で深淵過ぎて、ついていけない。だからどちらにも肩入れする気にはなれない。

ただ今回は、Popper による Wittgenstein 批判を面白く感じたのでまとめてみたのと、それに疑問も感じたので、その疑問を記してみるというだけである。この疑問に対して Popper 側からすれば言い分があるだろうが、今日はそこまでは検討しない。

本文に入る前にお断りしておくと、私はいつもいわゆる「です・ます」調で文章を記しているが、今回は備忘録のようなものなので、「である・だ」という文体で記している。普段と雰囲気が違うかもしれないが、あらかじめお許しいただきたい。

 

Popper による Wittgenstein, 『論考』批判まとめ

さて Wittgenstein の『論考』には次のような文が載っている *2

命題 4・11 真なる文の全体が自然科学の全体である。

これは真なる文すべてを集めた集合は、自然科学に属する文すべてを集めた集合と一致する、ということであろう。

細かいことを言えば、自然科学の文には仮説を表すものがあり、仮説はその性格からいって真でも偽でもないので、自然科学に属する文すべての集合には真でない文も含まれるため、命題 4・11 は実際には正しくないのだが、この点については目をつむり、真なる文すべてを集めた集合は、自然科学に属する文すべてを集めた集合と一致する、としておこう *3

ところで命題 4・11 自身は自然科学に属する文だろうか? そうではないだろう。すると命題 4・11 は自然科学に属さないのだから、真な文ではない。それは偽な文であろう。このことから命題 4・11 は暗にではあれ、それ自体ついて偽であると語っていることになる。

さて『論考』には次のような文もあった。

命題 3・332 いかなる文もそれ自体についてなにかを語ることはできない。

ここですぐ前の命題 4・11 を振り返ってみよう。命題 4・11 はそれ自体について偽であるとも語っているのであった。してみると、命題 3・332 には反例があることになる。その反例とは命題 4・11 である。よって、命題 3・332 は偽であり、間違っていることになる *4

これに対し、Wittgenstein は反論するかもしれない。彼は『論考』で言っている。

命題 6・54 わたくしの文は、わたくしを理解する者が、それによってーそれらの上にー登ったならば、最終的にはそれらを無意味なものと認識するという事実によってその意味があきらかになる。梯子は、登ったあとには、いわば捨てられなければならない。

『論考』の序文とこの命題6 ・54と命題7を「フレーム」と呼び、これ以外の『論考』の、いわは本文を「フレーム内」と呼ぶならば、今引用した命題 6・54 により、彼はフレーム内の文はすべて真でも偽でもなく、無意味なのだ、と言うだろう。そして命題 4・11 も命題 3・332 もフレーム内の文である。よってこれら二つの命題は偽なのではなく、無意味なのだ、と彼は言うだろう。だから、フレーム内の文のなかには偽であるように見える文もあるかもしれないが、それらは偽ではなく、すべて無意味なのである *5

従って命題 4・11 はそれ自体について無意味であると語っているのである。そして命題 4・11 が無意味ならば、それはなにも語っていないに等しい。つまり命題 4・11 はそれ自体についてなにも語っていない。よって命題 3・332 は無傷である。反例と見えたものは反例ではない。

また Wittgenstein によるならば、文には真なるものと、偽なるものと、無意味なものがある。(そしてこれらは互いに排他的であると推測される。) 哲学の文、形而上学の文はどれも無意味である *6

これに加えて Wittgenstein はフレーム上の序文で言っている。(下線は原文傍点)

一方で、ここで伝えられた思想が真なることは、わたくしには抗し難く決定的であると思われる。したがって、わたくしは問題を本質的な点で決定的に解決したと考えている。

Wittgenstein は無意味なおしゃべりである哲学、形而上学を排除しようとした。彼は『論考』において、そのフレーム内の無意味な文をとおして形而上学の排除・打倒を企てたと考えられる。

ところでフレーム内の文は誰が見ても哲学的、形而上学的な文であり、しかも Wittgenstein 本人も認めるとおり、すべて無意味である。とするとフレーム内の文から成る話は形而上学の一種であろう。ならば、本人は形而上学を排除・打倒してみせたと言っておきながら、またぞろ『論考』のフレーム内で新たな形而上学を打ち立てているのではなかろうか? *7

ざっくばらんに言えば、Wittgenstein は「無駄口叩くな、黙ってろ」と言いながら、『論考』という無駄口を長々と叩いているのではないだろうか? 本当に黙っているべきなら『論考』など出さず、潔く黙っているべきではないのか? 「無意味なおしゃべりなど、やめろ!」と言っておきながら、Wittgenstein 本人は『論考』のフレーム内で無意味なおしゃべりを繰り返していたのではなかったのか?

しかし Wittgenstein は反論するだろう。『論考』の無意味なおしゃべりとも見える新たな形而上学だけは例外である、と。これを最後に従来からの形而上学は滅びるのであり、それを可能にするのが、この『論考』の新たな形而上学なのだ、と。この、たった一つの例外だけ許せば、あとはすべて片付くのだし、十分元がとれるのだから、『論考』の形而上学は特例措置として認められて然るべきだ、と。

だか、これではまるで次のようなどこかで聞いたことのあるセリフとそっくりである。「今度の戦争は、有史以来、たびたび繰り返されてきた戦争という戦争をすべて終わらせる最終戦争なのだ。これを最後に人類は戦争という悪夢からとうとう解放されるのだ。だから多少の犠牲はやむを得ないのだ」。

実際、これでは終わらなかった。私たちはそのことを知っている。事実、その後、Wittgenstein は『論考』の考えが根本的に間違っていたことを認めたのである。だから『哲学探究』が書かれたのであった。「哲学」の探究の書が、またしても「哲学」の書が。

 

Popper への反論

Popper は次のような感じの主張していると考えられる。すなわち、

Wittgenstein は従来からの哲学はすべて無意味な文から成るおしゃべりであり、これらをすべて、『論考』でもって葬り去ってやる、と言っている。ところで『論考』のフレーム内はすべて無意味な文から成る哲学である。とすると、旧来の無意味な哲学を、また新たな『論考』という無意味な哲学で葬り去ろうとしていることになる。すべての無意味な哲学を葬ると言っておきながら、またぞろ新しい無意味な哲学を持ち出し、打ち立てているのではないのか? 結局、無意味な哲学を一掃できておらず、またしても最新の無意味な哲学を導入して余計なことをしでかしているではないのか?

Popper は Wittgenstein を以下のように理解している。図式的に言えば、哲学はすべて無意味であり、『論考』の哲学も無意味であり、無意味な哲学を『論考』の無意味な哲学で排除しても、『論考』の哲学という無意味な哲学が残るのであり、結局、元の木阿弥であって、It's the same old story である、と。

しかし Popper は次の点を見落としている。Wittgenstein の『論考』においては、よく読むと、哲学には二つの種類があると見える (例えば命題 6・53、4・112 など)。一つは有意味な哲学・有用な哲学であり、もう一つは無意味な哲学・有用でない哲学である。有意味な哲学は相手が無意味なことを語っている際、それを指摘し、そのことを気付かせてやる営みのことであり、考えを明晰化する営みである。一方、無意味な哲学とは、従来の、いわゆる哲学的形而上学的な議論・おしゃべりのことである。そして『論考』フレーム内での語り自身は有意味な哲学に分類されるだろう。Popper は哲学のこの二つの種類を区別せず、一緒くたにして論じている。事を単純化し、十把一絡げにしてしまっているのである。

Wittgenstein は『論考』で、従来の無意味な哲学を、『論考』の有意味な哲学で葬り去ろうとしているのであり、ここに矛盾はなく、元の木阿弥に陥っているのでもないのである。ただし従来の無意味な哲学を首尾よく葬り去れているかどうかは別として。

また、Popper は、「無意味」という言葉の意味を一義的に使用しているようである。しかし『論考』においては、「無意味」という言葉は多義的であるか、または同義語とも見える「ナンセンス」などの言葉と区別して使用しているようである *8 。つまり、『論考』では「無意味」やその同類語の間では、細かな区別を付けて用いられているらしい、ということである。ここでも Popper は事を単純化し、十把一絡げにしてしまっているのである。

例えば「太郎は花子が好きだ」は有意味だが、「太郎に花子を好きだ」は、ある点で、無意味である。「素数は花子が好きだ」は、通常は、別の点で無意味である。「太花好はきがだ子郎」は、また別の点で、無意味である。さらに、「、。?!♪」もまた違った点で無意味である。

このように無意味にも色々と違いがあるのであり、Wittgenstein は「無意味」や「ナンセンス」に何らかの区別を付けて使用しているようなのだが、Popper はこの点を無視して論じており、説得力に欠ける。ただし Wittgenstein が「無意味」などの言葉の複数の意味をきちんと区別して、厳密に使い分けができているのかどうか、疑問なしとはしないが。

 

Popper への反論特論

Popper への反論として、個別的な事柄について、一つ触れておく。

Popper は『論考』の命題 3・332 を持ち出して、Wittgenstein を批判していた。Popper の引用している命題 3・332 をもう一度掲げてみよう。

命題 3・332 いかなる文もそれ自体についてなにかを語ることはできない。

これをもとに Popper は、『論考』の中に、暗にそれ自体について語っている文「命題 4・11」を見つけてきて、Wittgenstein は矛盾していると言って批判している。

しかし命題 3・332 はこれですべてなのではない。これは命題 3・332 の前半にすぎない。Popper がその命題の後半を引用せずに無視するのは間違っている。その後半は次のとおりである *9

なぜなら、ある命題記号が当の命題記号自身のうちに含まれることはありえないからである。(これが「タイプ理論」のすべてである。)

命題 3・332 の後半を参照するならば、文がその文自体を含むことはできず、文がその文自体を含むことを許すような、表現の構成規則は認められないと思われるので、その意味で、文はそれ自体について語り得ないと Wittgenstein は言っているのである。命題 4・11 は「暗に」それ自体ついて偽であると語っているとか、「暗に」それ自体について無意味であると語っているという解釈は間違っている。命題がそれ自体について、陰に何事かを語るということはあるかもしれないし、このことは Wittgenstein も認めるかもしれないが、しかし、命題がそれ自体について、陽に語ることはないと『論考』の当該箇所で Wittgenstein は言っているものと思われる。Popper の批判は、命題がそれ自体について「陰に」語ってしまっている点で Wittgenstein は矛盾していると言うが、「陽には」語っていないので、Wittgenstein に矛盾しているところはないのである。ただし命題 3・332 が主張するごとく、どんな文もそれ自体について本当に何事も語れないと言えるのかどうか、これまた疑問なしとはしないが。

 

終わりに

Wittgenstein の専門家は Popper による批判に対し、既にもっと周到で徹底的な反論を提示していることだろうと思う。今回、私はそのような研究を survey する時間も気力もなかったので、その種の研究に一切言及することはできなかった。私の以上の話より、その種の研究を参照されたほうが読者のかたにはずっと有用だろう。しかしそのような研究をこれから参照するきっかけにでもなるならば、今回の私の話も何ほどか読者の探究心に貢献できたことになるかもしれない。

ここまで、いつものように、誤解や無理解や勘違いが多数あったかもしれない。それらの数々にお詫び申し上げる。

 

*1:今回私が取り上げた論点以外の、Popper による Wittgenstein 批判については、やはり少し前に出た次の本の該当箇所を参照されたい。小河原誠、『ポパー』、第二版、ちくま学芸文庫筑摩書房、2024年、第五章、第二節、262-272ページ。

*2:『論考』の訳文は、特記がない限り、すべてこのあとに書誌情報を記す Popper の訳書から。

*3:この段落、ポパー、『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者 (上)』、小河原誠訳、岩波文庫岩波書店、2023年、第11章註(51)、401ページ。ただしこのブログの執筆者によって若干補足が入れてある。以下同様。

*4:以上、(上) 参照の段落を除き、ポパー、『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者 (下)』、小河原誠訳、岩波文庫岩波書店、2023年、第24章註(8)、345-346ページ。

*5:ここまで、ポパー、『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者 (上)』、第11章註(51)、397-398ページ。ただし、Popper は「フレーム」、「フレーム内」という言葉は使っていない。

*6:ここまで、ポパー、『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者 (上)』、第11章註(46)、385-387ページ、および同書、同章、註 (51)、398-399ページ。

*7:直前の引用文よりあとは、ポパー、『開かれた社会とその敵 第2巻 にせ予言者 (上)』、第11章註(51)、398-399ページ。

*8:岩波文庫、『論考』訳者野矢先生による訳注 (54) を参照。

*9:岩波文庫、野矢先生訳から引用。丸括弧は岩波文庫の訳文どおり。