Derrida さんに反対

しばらく前にデリダさんがUiniversity of Cambridgeから名誉博士号を受ける際に、反対意見が出てきて、騒動が持ち上がったという話を小耳に挟んだことがあったのですが、その反対意見を述べた新聞記事がnetで出ていた。詳細はよく知らなかったので興味に任せて読んでみる。
件の記事とはLondonのThe Times, Saturday, May 9, 1992に出ているものである。この短い記事は連名で代表はBarry Smithさんであり、Smithさんが多分執筆した文のようである。この記事に名を連ねているのは、Hans Albert, David Armstrong, Ruth Barcan Marcus, Kevin Mulligan, Quine, Peter Simons, Jan Wolenskiの各氏などなどである。
記事はデリダさんがケンブリッジ名誉学位授与候補となることに疑念を呈している。内容をかいつまんでみると以下のようである。

デリダさんは自分を哲学者だとしているようだが、デリダさんの影響はほとんど哲学以外の分野に関するものである。ここからして例えば物理学者だとされる人の業績が物理学以外の分野での評判しかない場合、その人に物理学賞を授与することがおかしなことであるように、哲学以外の評判しかないデリダさんに哲学者向けの名誉学位を授与することはおかしい。
哲学者の目から見て、デリダさんの著作は、その明晰さと厳密さに関して、一般に認められているような基準を満たしていない。
彼の著作の多くは少なからぬ部分(no small part)が手の込んだジョークであり、‘logical phallusies’みたいなダジャレであり、その手の類のものからなっているのである*1
デリダさんはダダイストだとか、詩文を構成する文字を具象的に組んで視覚効果を狙う視覚詩の詩人たちの見せるトリックと似たようなものを学問の世界に翻訳して取り入れることにより、自らの経歴を作り上げてきたようなものである。
そのことに対しては多大なる独創性を認めることはできるが、それでは名誉学位の候補には相応しいと言えない。
デリダさんの著作は通常見られる学問研究の表現形式を見る影もなくたわめてしまっている。誰でも読者は非常に簡単にそのことを確かめることができるし、デリダさんの著作のどのページをもってしてもそのことを確かめるのに十分である。デリダさんは読者の理解を妨げるような書き方をしてしまっている。
デリダさんの深みを持った言葉使いや、彼の言うことを翻訳することに困難を覚えることからいって、そこには深く精妙な思考が隠されているに違いない、と好意的に捉えることもできるかもしれない。
しかしよくよく考えてみると、デリダさんが整合的に述べている時にはいつだってその主張は間違っているか、トリヴィアルかのどちらかでしかない。
理性や真理、学問研究に、さもわかったような攻撃を加えることでしか学問上の地位を築いてこなかった人に、Cambridge大学という格別の大学が名誉学位を授与するに充分な根拠はないと言える。


と、大体こんな感じだろうか。細部は別として、大意は合っていると思いますが。

まずB.Smithさんが主筆であることに驚いた。それに名を連ねている人々にも驚いた。そうだったんですね。これらの方々が反対されていたのだ。
疑念の内容の率直さにも驚いた。ひどくシンプルでストレートですね。それを新聞紙上で表明するというのもすごいな。

私自身はデリダさんの著作をほとんど読んだことがないので何とも言えません…。日本語でならば、そして若干だけ英語でならば、随分前に少しだけ読んでみたことがありましたが、難しすぎてわからなかった。特に「差延」とか「脱構築」という概念について理解したく思い、いくつか文を読んだり、デリダさんが日本に来てテレビで自説を述べているのを録画して、それを見聞きしながら一生懸命理解しようとしていたことがありましたっけ。

結論的には、本当に難しすぎて、自分の能力をはるかに超えており、これはどれだけ勉強してもわかりっこない、とあきらめました。結局自分には向いていない、合っていなかったのだと思います…。私にはillogicalな感じのものよりも、logicalなものの方がずっとぴったりくるということがわかったことはよかったです。

*1:‘logical phallusies’(論理的ファルス)は、‘logical fallacies’(論理的虚偽)のもじりなのだろう。