Russell と グレイ『墓畔の哀歌』

Russellの“On Denoting”には、‘Gray's Elegy Argument’というのがある。このことがよく知りたいと思い、今日購入した上記Russell本でそのArgumentが出ている箇所を読むが内容がよくわからない。該当する箇所はその本のpp. 48-50辺りだと思われる。ようはそこでFregeのSinn/Bedeutung説に反対しているもののようで、記述句には、Fregeの用語で言えば、Sinnは対応してくることはなく、対応してくるものがあるとすればそれはBedeutungだけでしかない、と言わんとしているらしい。これはちょっと不正確な言い方だろう。また読み直そう…。
で、最近英文学史の本を毎日ちょこちょこ読んでいるのだが、「GrayといえばあのGrayではあるまいか…」と気が付く。18世紀英国の詩人Thomas Grayのことである。英文学史の教科書には必ず出てくるような有名な詩人のようである。そしてRussellがpp. 48-50辺りで言及しているGray's Elegyは岩波文庫で翻訳されている。

その文庫のdescriptionを記してみると

18世紀イギリスの詩人グレイ(1716‐1771)の傑作「田舎の墓地で詠んだ挽歌」をはじめ「愛猫を弔ううた」「詩仙」など21篇の詩を収める.名もなき農夫たちの墓を眺め,ここに眠る無名の人びとの生涯に想いを馳せて社会的正義をうたう「挽歌」は,古来,いかなる詞華集にも必ず載せられてきた代表的なイギリス詩である.

“On Denoting”中、Russellはこんなふうに言っている*1

‘The meaning of the first line of Gray's Elegy’ is the same as ‘The meaning of “The curfew tolls the knell of parting day”,’…

Grayの詩の原文冒頭を掲げてみる。

The curfew tolls the knell of parting day,
The lowing herd wind slowly o'er the lea,
The plowman homeward plods his weary way.
And leaves the world to darkness and to me.

勝手におおざっぱに直訳すると以下の通りか?

晩鐘が夕暮れ時の鐘の音をゆっくり鳴らしている。
牛たちが鳴きながら牧草地を越えてゆっくりあちらこちらへ歩んでいる。
家路へ向かう農夫は疲れた重い足取りで歩みゆく。
そして残っているのは夕闇とこの私…。

詩情もへったくれもありませんけど…。古い英語は取り分けよく知りませんので、誤訳しているかもしれません…。

*1:Russell, p. 49