抽象的対象として数が存在するという Neo-Fregean による Platonism 論証概略

(以下のnoteには、勘違い・無理解・誤解が多々含まれているはずである。正確を期すためには、詳細な確認が必要である。)


Fregeの数学の哲学は2つの要素からなる*1


(1) Platonism: 抽象的対象が存在するというPlatonism
(2) 論理主義: 算術 (自然数論+実数論) の主要な命題すべてを、論理学の法則と論理的な語彙のみからなる定義によって証明することができる。


つまり


Fregeの数学の哲学 = Platonism + 論理主義


である。

上記Fregeの数学の哲学の実行・達成はRussellのParadoxによって潰えたとされるが、このような死に体のFregeのProgrammeを新たに救い出す試みが現在行なわれており、その試みを‘Neo-Fregean Logicism’という。Frege的なPlatonismを伴った(‘Fregean’)、論理主義の(‘Logicism’)、新たな救出の試み(‘Neo’)というわけである。


Fregeを専門に研究していない分析哲学者や、時には分析系の哲学以外を専門としている哲学者が、Fregeの潰えたProgrammeとして従来から知っていたのは、Fregeの数学の哲学を構成している上記の2つの要素の内、2番目の論理主義の破綻についてであったと思われる。つまりFregeの論理主義の破綻についての話なら、Fregeの研究者以外でも大なり小なり知られていたと考えられるので、以下ではFregeの数学の哲学を構成している2つの要素の内、以前からおそらくあまり知られておらず、思いもよらない斬新なアイデアを持った1番目の方の、FregeのPlatonismについて、略述することにする。


しかしFregean Platonismのわかりやすい日本語による解説は、

の第1章、第2節「フレーゲプラトニズム」に既に現れているので、金子先生の文による別の文献に見られる異なった論証を参考に、Fregean Platonismの論証を極々簡略に書き表してみよう。なぜ上記の金子先生の本ではなく、先生の別の文献の論証を参考にするのかというと、その論証の方が単純でかつ明解に思われるからである。それではまず、今述べた金子先生の別の文献の異なった論証が掲載されている文章*2をそのまま以下に引用し、それを題材にFregean Platonismの論証概略解説へと向かうことにする。

フレーゲプラトニズムは、Wright [1983] で提案された立場であり、また一種の論理主義とも言えるような立場である。[…] その出発点は「統辞論的なものの優先」にある。単称名辞は、通常、何らかの個体を指示するものとして特徴づけられるが、フレーゲプラトニズムはこれを逆転させ、ある表現が単称名辞として特徴づけられ、かつそれを含む文脈の真理が与えられるならば、それは何ものかを指示せざるを得ないのである。それゆえもちろん、そうした表現の単称名辞としての特徴づけを、指示概念を用いて与えることはできない。むしろその特徴づけは、ダメットが与えた一種の文脈原理に基づく基準によって、すなわち一定の推論パターンの内部にその表現が置かれたとき、推論パターンの妥当性がどのように変わるか、という規準によって与えられることになる。こうした基準によって単称名辞とされた表現が、もし真なる文脈においても単称名辞として振る舞うならば、それは指示対象をもつ、その指示対象は存在すると結論せざるをえないのである。特に、自然数の表現がそのような基準に従って単称名辞とされ、その表現を含む文が(その数表現が指示を持つこととは独立に)真であるとされるならば、その表現の指示対象 ― 自然数 ― が存在しなくてはならない。このように、フレーゲプラトニズムは、フレーゲの「数は対象だ」という主張を文字どおりに受け止め、統辞論的な基準と文脈原理に依拠して、言語内在的に対象の存在へと向かうのである。[…]

実際にフレーゲプラトニストがどのような議論をしているかを、最も簡単な例で見てみよう。その際、重要なのは次のヒュームの原理 ( N = ) と呼ばれるものである。


( N = )  Fの数とGの数は同一である iff FとGの間に1−1の対応がある。


特定の自然数の存在についてのライト [C. Wright] の議論は以下のようになる。


(1) FとFの間に1−1の対応がある。
(2) Fの数とFの数は同一である。 (( N= )による)
(3) Fの数が存在する。 (統辞論優先テーゼによる)


(1)が論理的必然言明であることに異論はないであろう。また、(3)の導出は、統辞論的なものの優先テーゼに基づいている。すなわち、(2)における「Fの数」は、ダメットの基準を満足しそれゆえ単称名辞だと認定できる。一方、この(1)から(2)への推論が正しいならば、(2)は真であり、それゆえ「統辞論的なものの優先テーゼ」により真なる文脈に登場する単称名辞の指示対象が存在しなくてはならない。よって(3)Fの数が存在する、が導かれる。[…]

もはや今引用した金子先生の説明で充分よくわかるとも思われるが、あえて屋上屋を重ねるごとく、個人的で勝手な説明を付け加えることにしてみよう。


以下続く(と思う、多分…)。

*1:Bob Hale and Crispin Wright, The Reason's Proper Study: Essays Towards A Neo-Fregean Philosophy of Mathematics, Oxford University Press, 2001, p. 1. または彼らによる以下を参照。Bob Hale and Crispin Wright, “Logicism in the Twenty-First Century”, in: Stewart Shapiro ed., The Oxford Handbook of Philosophy of Mathematics and Logic, Oxford University Press, 2005, pp. 166-167.

*2:金子洋之、「抽象的対象と様相」、『哲学』、日本哲学会、第49号、1998年、51-52ページ。ただしそこに付された註は省く。