以下はすべてPhilip EbertさんのHPからDL可能。

  • Philip Ebert and Marcus Rossberg  “What is the Purpose of Neo-Logicism?”, forthcoming in P. Joray (ed) conference proceedings of “Perspectives of Logicism” held in Neuchatel
  • Philip Ebert and Roy T. Cook  “Abstraction and Identity”, in: Dialectica, 59(2), 2005
  • Philip Ebert and Roy T. Cook  “Discussion Note: Fine’s Limits of Abstraction”, in: British Journal for the Philosophy of Science, 55(4), 2004


PS. ここのところ岩田・内田先生のレヴィナス論を読みふけっている。とても胸が熱くなる。人を愛したり、その愛した人と別れたり、その他色々困難を乗り越えて生きてきた後でレヴィナスさん方々の論考を読むと、すごくよくわかる。自分が経験してきたこと、考えてきたことが書かれていると感じる。以前はわからなかったことが、一部ではあるけれど、すらすらとよくわかる。今日も内田先生の対談*1を新潮社のPR誌『波』の最新号2006年11月号に見たけれど、そしてそこではレヴィナスさんの『困難な自由』からの言葉が引かれていて、それは次の通りなのだが、

内田 戦後のフランスユダヤ人社会は信仰の危機に陥っていた。ホロコーストであれだけ多くのユダヤ人が犠牲になったのですから「なぜ神は我々を見捨てるのか」という声が出てくるのは当然です。そのとき『困難な自由』の中でレヴィナスは「君たちは、自分たちが信じた神が自分たちを救ってくれなかったというだけで、神を信じることをやめてしまうのか」ときびしく叱責する。「君たちの信じる神というのは、人間が善行を積めば報奨を与え、悪行をなせば罰を下す、そんな幼稚な神なのか? 人間が人間に対してなした不正をただすのは神の仕事ではなく人間の仕事ではないのか?」と正統教義の立場から問い詰める。

ここにレヴィナスさんが描いている神の観念を私は以前はまったく理解できない・わからない・ちんぷんかんぷんだったのだが、今ではとてもよくわかる。まったく当たり前のようによくわかる。
これは一言で言うならば、人と神との関係は、応報主義を超えたところで成立するものなのだ、ということである。応報主義を超えずして、神との関係に入ることはできない。そしてこのことは愛という関係にもまったくそのまま当てはまるように感じられる。つまり例えば特定の女性を愛するということは、応報主義を超えたところでこそ成立する。応報主義を超えずしては、愛は成り立たないと感じられる。
何だかムズカシイ話だけれど、こんなことは日々円満な夫婦や、信頼しあった恋人達の間では極普通に行われていることである。あちらこちらに転がっている話である。そしてだからこそ、そのような経験を通過した者には、レヴィナスさん方々の話が、まったく当たり前の自然なことであるかのように感じられるのである。

*1:内田樹、南直哉 「南 直哉『老師と少年』刊行記念対談 「本当の私」というフィクション」