サイクリング

地元の都市史に関する本を読み、当地で歴史的に差別されていた人々が住んでいたところを自転車で訪れてみる。
こはちょっと街外れにある。マンションがいくつか建ち並んでいる。空き地が目に付く。自動車がたくさん通る大きな通りも近くにある。裏道を行くと年季の入ったアパートや小さな住宅も見られる。この辺りが歴史的な場所であることはほとんどまったくと言ってよいほどわからない感じがする。
ただし一つ石碑が建っている。かつてここに通りがあったことを示す石碑で、ここの通りは昔重要な通りであったと書いてある。それだけしか書いていない。しかしこの地の歴史を知っていると、この通りが一応ながらいわれのある通りだとわかる。
そしてもう一つ、重要な公共施設が建っている。昨日この地にくる前に、「このあたりがそうであろう」と見当をつけて地図を調べてみると、その公共施設がずばりその場所に建っているのを見つけてびっくりする。やはり予想が的中。歴史的に色々由来があった場所だからこそ、このような公共施設が建っているのだ。なるほど。
とりあえず辺りを自転車でぶらぶら走る。子供たちも走っている…。


ところで、この地で差別されていた人達は、江戸時代にあった士農工商のさらに下に位置づけられた人達である。そのような人達は二つのグループがあった。そのうちの一つがここに住んでおられたわけである。
このように差別された人々は、社会の片隅に追いやられ、黙してじっと何もせず縮こまっていた方々なのかなって何となく思っていた。しかし当地の都市史の本を読むとかなり趣が違うことがわかる。
確かに差別されひどい目にあわされていたと思うのだが、何もせずじっとしていたわけではないようだ。この方々のグループはちゃんと職業を持っており、しかもその職業・商売をかなり大規模に展開していたようである。日本の半分か、あるいは全土を商圏として治めていた感じである。商品の原材料を遠隔地から大量に集め、今日訪れた場所で加工し、当地や、別の商人を介して全土に売りさばいていたみたいである。原材料は対馬を通して朝鮮半島からもたくさん買い取っていた。
こういうわけで、このグループのみんながそうであったわけではないだろうが、なかにはかなり商売がうまくいって当時のお金で金70万両を有していた人もいたようである。それにこの人々は地方の大名や当地の武士に、つけで商品を売っており、その代金の支払いが滞った場合には、町奉行に訴え出て武士を相手に裁判を戦ったりしていたそうである。
差別されていた人々だが、決してみながみな、社会の片隅で縮こまっていたわけではないようである。たくましくがんばっておられたようだ。イメージと違うのでちょっと驚きである。
ちなみに士農工商の下に位置づけられた二グループのうちのもう一方のグループは、公式には職を持ってはならないとされ、勧進(物乞い)で生計を立てることが基本であったようだ。こちらのグループの人々は、また別の、複数の地域に住まわされていたみたいである。