読書: Sturm’s theorem

Quineの“Three Grades of Modal Involvement”を訳していると、初めの辺りに‘Sturm's theorem’という言葉が出てくる。これは代数学の一定理なのだが、なぜこのような代数学の定理が論理学の哲学の論文に顔を出すのか不思議に思い調べると、理由が何となくわかる*1
この定理は、大体のところを言うと、実係数を持つ多項式 f(x) に関し、その方程式 f(x)=0 が、ある与えられた区間において、いくつの根を持つかについて教えるものらしい*2
なぜこのような代数学上の一定理がQuineの論理哲学的な論文に出てくるのか?
調べてみると、この定理は論理学上でも重要な定理のようである。この定理に裏打ちされた、いくつの根を持つかをはじき出すアルゴリズムを一般化することによって、Tarskiは、彼の言う意味でのelementary algebraの完全性と決定可能性を証明したらしい*3
またUniv. of St Andrews, School of Mathematics and Statistics, The MacTutor History of Mathematics archiveの項目‘Jacques Charles François Sturm’を見ると次のようにある。

[…] Tarski showed in 1940 that Sturm's method of proof could be used in mathematical logic to prove the completeness of elementary algebra and geometry*4.

以上の簡単な記述から、Strumの定理は単に代数学上の一定理にとどまらず、論理学上でも重要な定理だとわかる。こうして論理学的にも興味深い定理なので、Quineは自分の論理哲学的論文においてこの定理に言及しているのであろうと想像される。

ところで今問題にしているQuine論文が出たのは1953年である。この論文は同年にベルギーで開催された世界哲学者会議で発表されたものである。これは単なる推測だが、この発表内容は数年前から暖められていたものかもしれない。
またStrumの定理を用いたTarskiによるelementary algebraの完全性・決定可能性の結果は1948年に一旦報告が出て、1951年により一般的にdistributeされた*5
そうするとTarskiの件の結果が出たときと、例のQuine論文の内容ができたときとは、ほぼ一致している。ここから推察されることは、Quineが論文の内容を考えているころ、彼はTarskiの結果も読んでいたのではないか、ということである。だからQuine論文に‘Sturm's theorem’という言葉が現われるのではないか、ということである。Quineは昔から完全性の話が好きでしたしね*6


しかしこの日記の註も含めて言うなら、Strum's Theoremということで、ひどく脱線してしまった。Quine論文の翻訳が全然進まない。色々わかっていいんですけどね。やれやれと…。

*1:ただしこのStrumの定理は、Quineの論文の本筋にはまったく関係がない。だから件のQuine論文を読む際にStrumの定理が何であるかはまったく知らなくてもよい。でもちょっと気になったので脱線して調べてみた次第である。

*2:この定理の詳細は、次に詳しい。高木貞治代数学講義 改訂新版』、共立出版、1965年、第3章、第10章。

*3:A. Feferman and S. Feferman, Alfred Tarski: Life and Logic, Cambridge University Press, 2004, p. 75. また次も参照、田中一之 『数の体系と超準モデル』、裳華房、2002年、191ページ。

*4:ただ、この引用の1940年という根拠はちょっと私にはわからない。1939年ならわかる。というのも39年にTarskiはStrum's methodを用いた結果の校正原稿を書き上げているから。Fefermans' Tarskiを読む限りでは、1940年の根拠が今いち不明である。cf. Fefermans, p. 75, especially, pp. 190-91.

*5:Feremans, pp. 191.

*6:なおW.V. Quine, The Time of My Life: An Autobiography, The MIT Pr., 2000 のpp. 237 ff. を見ると、ベルギーでの哲学者会議でQuineはTarskiと会い、交友を深めているので、このときに口頭でSturm's theoremの話を聞かされたのかもしれない。しかしその定理の話は237ページ前後には出てこないので、1948年か1951年のTarski文献をQuineが読んでいたという可能性も棄て切れない。読んでいたとすると、51年の文献の可能性が高い。というのも48年の文献はRAND研究所から出た限られたreportのようで、簡単にaccessできるものではなかったかもしれないから。cf. Fefermans, pp. 191. しかしさらに調べると、QuineはRAND研究所で働いていたことがあるので、関係者ということから、RANDのreportを容易に入手できる立場にあり、Tarskiの結果は48年のRAND reportで知っていたという可能性もありうる。RANDでQuineが働いていたという話は、彼の自伝のp. 217に見られる。それは1949年の夏のことだったようだ。真相はどうだったのか、何だか私にもよくわからん。