Memo: Frege on Indefinability of Truth

今日は以下を読む。

  • 中川大  「論理的真理は総合的か −ラッセルの論理主義−」、『思想』、岩波書店、no. 987、2006年

この論文の中で、通りすがりにFregeによる真理定義の不可能性の話が触れられている*1。これはよく知られた話だが、私自身は今の今までほとんど理解しようとさえしていなかった。しかし今回中川先生の記述で容易に内容が理解できた。
そこで以下に、Fregeによると、なぜ真理は定義できないのか、その理由をメモしておこう。


その理由を簡単に言ってしまうならば、真理を定義する時はいつでも真理をもって定義しなければならず、定義が循環してしまうので、真理を正しく定義できない、ということである。
言い換えると、真理を定義する時に、定義する式の被定義項に真理を表す言葉を持ってくるが、その際、定義項にも実質的に真理を表す言葉がくることになり、循環してしまうので、正しく定義できない、ということである。
例えば、Aは真理である、ということは、Bということだ、と真理を定義するとしよう。するとFregeさんによると、Aが真理であるかどうかは、Bが成り立つかどうかにかかっており、これはつまりBが真かどうかということにかかっている、ということである。これは循環である。
このBのところに何を入れて、どんなふうに真理を定義するとしても、いつでもBの定義項には実質的に真理の概念が伴われてしまう。だから真理を循環せずにきちんと定義することはできない、とFregeさんは言う。
「真である」という述語は、いかなる平叙文・叙述文にも伴うものであるという点で、他の述語とは一線を画する特別な述語なのだ、というのが、Fregeさんの意見である。


以上の点を確認するために、翻訳からFregeさんの発言を引いておくことにしよう*2

さて、「真」という語において何を理解すべきかを、定義によってより明らかにしようとしても、無益なことだろう。例えば「ある表象が真であるのは、それが現実と一致している場合である」と語ろうとしても、それでは何も手にしたことにならないだろう。というのも、この定義を適用するためには、ある表象が現実と一致しているか否か −つまりその表象が現実と一致しているということは真であるか否かを、所与の事例において決定せねばなるまい。それゆえ被定義項自体が前提されねばならなくなるだろうからである。同じことは「Aが真であるのは、それがこれこれの性質を持つ、ないしはかくかくに対してしかじかの関係にある場合である」という形式を持つどの説明にも当てはまるだろう。Aがこれこれの性質を持つ、かくかくに対してしかじかの関係にある、ということが真か否かが、所与の事例においてその度ごとに問題になるだろう。明らかに真理とは、さらに単純なものへと還元することは不可能なほど原初的で単純なものなのである。このため「真」という述語に特有の性質については、それを他の述語との比較を通じて明らかにすることが求められるわけである。何よりまずそれは、何かあることが言明されるとき常に一緒に言明されているという点で、他のすべての述語と区別されるのだ。

なるほど、うむうむ。非常に明解だ、というほどではないが、かなり明解ではあると思う。


明日は、真理が帰されるのは文ではない、と言うFregeさんの理由をメモることにしよう。この理由もシンプルで明解である。
ただし、明後日もしくは明々後日以降になるかもしれないが。いつになるのかは、忙しいので、また体調がすぐれないので、わかりませんけれど…。

*1:中川、82ページ。

*2:G・フレーゲ、「論理学」、関口浩喜、大辻正晴訳、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、119ページ。