Memo: For Frege, what is truth ascribed to?

Fregeさんは、真理を文に帰することはできない、と言っています。その理由は至ってシンプルです。その理由を以下に説明してみましょう。


その前にまず、Tarskiさんの見解を見てみましょう。おそらく現在哲学を学ぶ大部分の人が、真理を文に帰するのが当然であると思い、そのことを初めから否定する人は、あまり多くないと思われます。私自身も何となく真理は文に帰せられるものなのだろうと、漠然とながら感じていました。それは論理学の教科書で真理を定義する時に、大体そんなふうにしているからだと思われます。この、教科書における真理の定義は、さかのぼるとTarskiさんまで行くでしょうから、私たちが漠とながらも真理を文に帰している感性の源を確認するためにも、Tarskiさんの見解を見ておこうというわけです*1


さて、Tarskiさんはこんなふうに言っています*2

We begin with some remarks regarding the extension of the concept of truth which we have in mind here.
The predicate “true” is sometimes used to refer to psychological phenomena such as judgments or beliefs, sometimes to certain physical objects, namely, linguistic expressions and specifically sentences, and sometimes to certain ideal entities called “propositions.” By “sentence” we understand here what is usually meant in grammar by “declarative sentence”; as regards the term “proposition,” its meaning is notoriously a subject of lengthy disputations by various philosophers and logicians, and it seems never to have been made quite clear and unambiguous. For several reasons it appears most convenient to apply the term “true” to sentences, and we shall follow this course.
Consequently, we must always relate the notion of truth, like that of a sentence, to a specific language; for it is obvious that the same expression which is a true sentence in one language can be false or meaningless in another.

「いくつかの理由から、語「真」を文に適用するのが最も簡便であると思われる」とのことである。判断や信念、命題だと、あいまいで不正確になるから、ということだろうか。そしてこの後すぐさま真理を、文は文でも特定の言語の文に適用されるものとし、その理由として、同じ言語表現が一方の言語では真となり、他方の言語では偽となる、ということが生じてしまって、矛盾を来たすことになり、これを避けねばならないから、特定の言語の文に真理を適用すべきだ、と述べている。
以上至極もっともなTarskiさんのご意見である。


続いて本題のFregeさんによる真理は文に帰することができない、という理由を見てみましょう。面白いことにFregeさんの理由は、Tarskiさんの理由と似ています。


Fregeさんによると、真理が文に帰せられない理由は、もしも真理が文に帰せられるとすると、真かつ偽である文があることになり、これは矛盾なので前提を否定して、真理は文に帰せられない、とするものです。真かつ偽である文とはどのような文をいうのでしょうか。例を使って説明してみましょう。
まず、Fregeさんは、紙の上のインクのしみとしての文や、黒板上のチョークの痕跡としての文、ディスプレイ上の光跡としての文ではなく、発話される文を考え、この文は音の連なりとして現われるので、音声の連なりが文を成すと考えて、音声の連なりが真であり、かつ偽である場合もあり得ると言っています。それにはどんな場合があるでしょうか。Fregeさんは具体例を挙げていませんが、以下に私なりに考えたその具体例を示してみましょう。


例えば、英語圏に育った英語を母語とする少女が、やはり英語を母語とするお父さんに、次のように言ったとしましょう。

    • I caught her arm, Dad.

「わたし、彼女の腕をつかんだのよ、パパ。」と言っています。実際にこの少女は、誰か女性の腕をつかんだことがあるとしましょう。そうするとこの上記の文は真です。


次に、この少女の発言を、英語をまったく解さない、日本語を母語とする人が聞けば、おそらくですが、以下のように聞こえるのではないでしょうか。

    • アイコハハムダ

そしてこの音の連なりを日本語としてならば、下のように捉えるのではないでしょうか。

    • 愛子はハムだ。

通常は「愛子」というのは人の名であり、人は加工されたハムなどではないので、この日本語文は普通は偽です。


以上の話をまとめ直しましょう。<アイコハハムダ>という音の連なりは、英語においては真となりうるが、日本語においては偽となりうる文である、ということです。もしもこの音の連なりとしての文に真理が帰せられるとすると、ある一つの同じ文に真と偽が同時に帰せられることになって矛盾が生じます。したがって、この矛盾を避ける一方法として、文に真理が帰せられるのではない、と結論すべきだ、と言える訳です。Fregeさんは以上のように考えていたと思われます。


このことを確認するために、Fregeさん自身の意見を翻訳で以下に引用してみましょう*3

さらに、真理が本来帰せられるのは、音声の系列[die Folge von Lauten] −文はそうしたものとして現われるわけだが− ではなく、文の意義[Sinn]であることは明瞭である。というのも一方で、ある文を別の言語に正しく翻訳するなら、その真偽は変わらないが、他方で、同じ音声系列[Lautfolge]がある言語では真なる、だが別の言語では偽なる意義を持つことは、少なくとも思考可能ではあるからだ。

なるほど、うむうむ。この引用文の後半で、真理は文に帰せられないという理由が述べられています。


ところでこの引用文の前半でFregeさんはSinnにこそ真理が帰せられるのだ、と述べておられます。その理由は次のような感じだろう。
A言語の文aがB言語の文bに翻訳され、bもまたaに翻訳されるなら、aとbは同値であろう。この時、aとbの翻訳の際に変わらずに保たれているのは、文a, bのいみしていることであろう。この、いみされていることが変わらないから、真偽も変わらないと考えられる。その変わらないものとはFregeさんによると彼の言うSinnである。よって真理が帰せられるべきは、音声系列やインクのしみやチョークの痕跡などなどではなく、Sinnなのである。


さて、Fregeさんは文に真理が帰せられると矛盾に陥るから、真理は文に帰せられないと考えました。ところで最初に上げたTarskiさんも真理を文に帰した場合、矛盾に陥ることがあると述べておられます。しかしTarskiさんは、Fregeさんのように真理を文に帰することをやめず、そのまま文に真理を帰します。そして代わりに矛盾に陥らない策として、真理を、それが帰せられる文の言語に相対化することによって、矛盾を避けようとします。つまり真理は言語に相対的だ、という訳です。こうすれば確かに矛盾は避けられます。
しかしFregeさんにはこのような方策は、まったく受け入れられないものだったでしょう。彼の論理学観は一般に‘universalist conception of logic’と言われるものです。もしも彼がこの論理学観を確かに持っていたと言えるとするならば、「何語を話そうと、正しいものは正しいし、間違っているものは間違っている。言語に相対的に、何かが正しくもなり、間違いにもなる、などということはあり得ない」とFregeさんは言うのではないでしょうか。

おそらくですが、Frege, Tarskiご両人の真理観をつぶさに分析するならば、両者の論理学観を明らかにすることができるのではないでしょうか。そしてその論理学観同士の違いが、あらわになるものと、推測されます*4


以上、体調不良の中、ざくっと書き下したので、誤字・脱字、勘違い・無理解等、多々あるものと思われます。あしからず。

*1:真理が文に帰せられるとしても、正確には文にではなく、文の名前に帰せられると言うべきだろう。

*2:Alfred Tarski, “The Semantic Conception of Truth and the Foundations of Semantics”,in: Philosophy and Phenomenological Research, vol. 4, no. 3, 1944, p. 342.

*3:G・フレーゲ、「論理学」、関口浩喜、大辻正晴訳、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、120ページ。‘[ ]’による引用は引用者による。

*4:そしてこのような方向から、両人の論理学観を比較する研究は、既にどこかの誰かがやっているでしょうけどね。