永遠の相のもとに

「永遠の相のもとに」と言えば、Spinozaさんです。
このphraseはSpinozaさんのEthicaの中のいくつかの箇所で使われているようです。
例えばそれはEthicaの第2部、定理44、系2に、以下のように現われます。岩波文庫の畠中尚志さんの訳で引きます。

物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する。


「永遠の相のもとに」物事を見るとは、

によると、それは要するに、その物事を必然的なものとして見ることだ、ということです*1


今日、このphraseがWittegensteinさんのTractatusにも出てくることを知りました。以下のようです。野矢先生の岩波文庫訳も掲げます。

6.45  Die Anschauung der Welt sub specie aeterni ist ihre Anschauung als −begrenztes− Ganzes.

六・四五  永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として −限界づけられた全体として− 捉えることにほかならない。


Spinozaさんの、1677年刊行のラテン語オリジナルでは、このphraseが出てくる第2部、定理44、系2は、どうなっていたか調べてみると以下のようです。

De natura Rationis est res sub quadam aeternitatis specie percipere.

Wittgensteinさんの文とSpinozaさんの文とでは、微妙に違いますね。
これは何をいみするのだろうか? 何か重要な違いを示しているのだろうか? それとも別段さしたる違いはないのだろうか?

*1:この上野先生の論文は以前に拾い読みした切りで、記憶に頼りながら、ここの部分は書いています。記憶違いなら済みません。