Memo: Lockeのsortalsについて

9月9日のmemoで以下のように書いた。

Sortalsについては、その元々の起源をAristotleのCategoriesにまでさかのぼり、LockeのAn Essay Concerning Human Understandingを経て、FregeのGrundlagenへと至り、現代においては、現在問題となっているいみでの‘sortal’の初出を、P.F. StrawsonのIndividuals (1959) に見出すことができると言われている。

最近、この引用文中のAristotleとStrawsonのsortalsを見た。今回はLockeのsortalsを見てみたい*1


SortalsについてLockeが語っているのは彼のAn Essay Concerning Human Understanding, Book 3, Chapter 3, Section 15においてであり、ここでの用例が特に有名なようである。
彼はその本のBook 3, chapter 3で一般名辞(general term)が何をいみするかについて検討し、section 15で一般名辞がいみする本質(essence)というものの二種を解説している。その二種類とは実在的本質(real essence)と唯名的本質(nominal essence)である。そして一般名辞がこの唯名的本質をいみするという話の中で、彼のsortalsが登場する。

彼のsortalsを和訳で以下に引用するが、このchapter 3のsection 15(とsection 16)までで、Lockeが何を言っているのかをまずは概略記しておきたい。そうすれば以下の引用文を理解する一助となろう。


Lockeは固有名(proper name)よりも、(一言語に含まれる単語の数としては)一般名辞の方が多いと言っている。そして固有名は一つの事物(もの、thing)をいみするが、一般名辞はそうではない。では一般名辞は複数の事物(もの、things)をいみするのかというと、そうでもない。その理由として、もしも一般名辞が複数の事物(もの)をいみすれば、次の二つの一般名辞‘man’,‘men’は共に人々をいみし、区別できなくなってしまうからである。本当に区別できないかは今は問わないことにしよう。


それでは一般名辞が一つの事物(もの)をいみするのでもなく、複数の事物(もの)をいみするのでもないのだとしたら、何をいみするのか? Lockeによると、それは事物(もの)の種(sort, species)をいみする。では、事物(もの)の種とは何か、あるいは同じこととして、speciesの本質とは何か? Lockeによると、それは心の中の抽象観念(abstract idea)である。そしてこの抽象観念とは、ある観念から、特定の時間や場所などの限定的な観念を取り除いた観念である。こうして一般名辞がいみする種としての抽象観念は、特定の限定的観念が取り除かれているので、個物(individual)一般をいみできるのである。


以上を例示するならば、一般名辞「人」は、例えば(Platoの師である唯一無二の)Socrates一人をいみするのではない。また複数の人々をいみするのでもない。それは人間という種をいみする。この種は、観念は観念でも抽象的な観念、つまり一般性を持った抽象観念である。この抽象観念を一般名辞はいみするが故に、一般名辞は個々の個物に当てはまるのである。


ところで、かつて哲学の歴史においては本質とは、ある事物(もの)をその事物(もの)たらしめている事物(もの)の在り方であった。つまりあるものを、そのものたらしめているもののことであった。このような本質を「実在的本質」と言おう。しかし今や巷では「本質」と言えば、「人」というような一般名辞では、この名辞がいみする種のことであり、それは心の中の抽象観念なのである。人という種の抽象観念は「人」という言葉に結びついている。したがって、一般名辞がいみする種のことである、心の中の抽象観念を「唯名的本質」と呼ぶことは理に適ったことであろう。


大略Lockeの主旨は、以上の通りである。それではLockeのsortalsを次に引用しよう。引用箇所は彼のAn Essay Concerning Human Understanding, Book 3, Chapter 3, Section 15 後半部である*2。「種的名まえ」と出てくるところがsortalsである。なお引用文冒頭の「事物」には和訳原文において「もの」とルビが振ってある。また引用文中の丸括弧とその中身は英語原文にあるものである。

事物は一定の抽象観念と、すなわち名まえが結びつけられた一定の抽象観念と一致するときだけ、その名まえのもとに種ないしスペキエスに類別されるのであるから、おのおのの類あるいは種の本質は、(もし類から類的と呼ぶように、種から種的と呼ぶことが許されるとすれば)類的あるいは種的名まえ[Sortal Name]が表わす抽象観念にほかならない、そういうことになる。で、これこそ、私たちは見いだすだろうが、本質ということばがそのもっともありふれた使い方で表意するものなのである。

要するに、種の本質が、種的名まえが表わす抽象観念なのだ、ということである。種的名まえは、種の本質という抽象観念を表わしているのである。Lockeにとってsortalsとはそういうものなのである。


なお、このmemoには誤字・脱字・無理解・誤解があるかもしれない。細部に至るまで正確・完全であることは保証しない。

*1:そもそもsortalsとは何なのかについては、概略的な説明だが、2007年9月8 日の日記を参照。

*2:ジョン・ロック、『人間知性論 (三)』、大槻春彦訳、岩波文庫岩波書店、1976年、106ページ。