Abstraction Principle: Fregeの場合とRussellの場合

本年、12月9日の日記の続き。
Abstraction principleについて、FregeとRussellとでは、大きく異なった捉え方がなされている。両者ではabstraction principleに与える役割が、正反対のように見える。そこで、どう正反対なのかを見てみよう。


Fregeにとってのabstraction principleの役割
まずFregeの場合。ただし、Fregeの場合はほとんど既知のこととして、ごく簡単に触れるのみにとどめる。
Fregeはabstraction principleの実例として、一つにはHume's Principleを上げていた。Hume's Principleは以下のように書ける。

    • N(F) = N(G) ⇔ F 〜 G.

これの一般形としては、例えば次のように書ける。つまりこれがこの場合、abstraction principleの一般形ということになる。

    • a = b ⇔ Φ(ξ, ζ).

この式の、右辺が左辺の内容を与えるとされる。実際に、右辺が左辺の内容を与えており、右辺が真であるならば左辺も真である。文脈原理と統辞論優先テーゼを堅持するならば、この左辺が真であることにより、左辺中の‘a’,‘b’に指示対象が与えられる。そしてこれらa, bが数ならば、それはFregeにとって抽象的なものであった。したがって以上から抽象的対象というものが与えられると結論される。


今までの簡略な論述から、Fregeにとってabstraction principleが果たす役割とは、抽象的対象を導入するということになる。Fregeにとりabstraction principleは、抽象的対象を導入するために利用されているわけである。ただしFregeはHume's Principleを、それでもって私たちに数が与えられる手段として提案したそのすぐ後に、そのprincipleには不備があるとして早々に撤回してしまっているのではあるが…。


Russellにとってのabstraction principleの役割
さて、次にRussellにとってのabstraction prinicipleの役割を見てみることにする。彼の場合についても、私の不勉強により、詳細を論述することはできない。

まずは彼の発言を、和訳で引いてみよう。

これら二つの場合 [ Fregeの数論と物理学の概念に関する理論 ] においても、また他の多くの場合においても、私たちは、「抽象化の原理」と呼ばれるある原理に訴えることになろう。「抽象化なしにすませる原理」と呼んでもさしつかえないこの原理は、信じられないほどたくさんたまった形而上学のがらくたを整理してしまう原理であるが、数理論理学によって直接示唆されたのであって、数理論理学の助けなしには、証明することも、実際に用いることもほとんどできなかったであろう。この原理は、[後の]第四講で説明されることになるが、その用いかたを前もって簡単に示しておいてもよい。一群の対象がある種類の類似性を備えていて、その類似性が、これらの対象がある共通の性質をもっているということに原因があると思われる場合に、問題の原理によって、その群れに属しているということと、その群れのメンバーが共有していると考えられる性質をもつということが、あらゆる点で同じことになり、したがって共通の性質が実際に知られていなくても、その性質が互いに類似した対象からなる群れ、あるいは集合が、共通の性質 − その存在は必ずしも仮定する必要はない − の代わりになるということが示される。このようにして、数理論理学のずっと進んだ部分さえ、間接ではあるが、たいへん役立つのである。[…] *1

上記の引用文中、Russellがabstraction principleということで具体的にはどのようなことを考えているのか、そのことを平易な例を使って説明してみよう。それは恐らく次のように説明できるのではないかと思われる。


今、ある王国にある王様がいて、宮廷前広場に同国の国民の中から、兵士にふさわしい体格を持った成年男子すべてを集めたとしよう。そして集まってきた成年男子を見て、王様がある同値関係を使ってこれらの国民を兵士A, B, C の三つのグループに分けたとしよう。この時誰もがどこかのグループに属し、しかも複数のグループに属することはないとする。さてこのようにグループ分けされたわけだが、Aに属する兵士1は同じグループに属するその他の兵士2, 3, … を見てもどのような基準、すなわち同値関係で自分たちがAグループに分けられたのか、わからないとしよう。同じAグループの兵士2や3, … にもわからないとする。さらにまた1や2や3, … の誰も、BグループやCグループを眺め回しても、どうして自分たちがAグループなのかわからないとする。そして以上のことはB, Cグループの兵士たちにとっても同様だとしよう。つまり宮廷前広場に集まった国民兵士の誰もがどのような基準でグループ分けされたのか、わからないということである。
さてしかし、たとえ基準がわからないとしても、各々の兵士が各自どのグループに属しているのかを知っていれば、軍事行動に支障は来たさないであろう。基準が何であれ、この際問題なのはどのグループに属するか、である。
したがってそうするとこの時、確かに王様は何らかの同値関係により、グループ分けをしているのだが、そのような同値関係という「共通の性質が実際に知られていなくても、その性質が互いに類似した対象からなる群れ、あるいは集合 [A,B,C] が、共通の性質 − その存在は必ずしも仮定する必要はない − の代わりになるということ」である。


以上からRussellが引き出してくる教訓は、集合と性質が結局同じことになるのなら、(あやふやな)性質なるものを存在するもとの想定する必要はない、ということであり、代わりに集合の存在を仮定するだけで充分だ、ということであろう。性質という形而上学的雑草の繁茂を一掃して見せるのがabstraction principleだ、というわけであろう。
そして性質なるものが抽象的なものだとすると、そしてその可能性は恐らく高いように感じられるのだが、Russellにとってのabstraction principleの役割とは、Fregeの場合とは正反対に、抽象的なものを導入するのではなく、排除するために使われているようだ、ということである。


まだまだ、多分続く…。

*1:ラッセル、「外部世界はいかにして知られうるか」、石本新訳、『ラッセル ウィトゲンシュタイン ホワイトヘッド』、山元一郎編、世界の名著 58、中央公論社、1971年、124-125ページ。