Carnap Renaissance

以下の1本目を一部読み、2本目を全部読む。

  • A. W. Carus  “Carnap's Intellectual Development”, in Michael Friedman and Richard Creath ed., The Cambridge Companion to Carnap, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2007
  • Thomas Ryckman  “Carnap and Husserl”, in Michael Friedman and Richard Creath ed., The Cambridge Companion to Carnap, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2007

とても印象深い。非常に刺激的である。大変触発される。読みながら色々な思いが頭の中を駆け巡る。その感想をここに記したいが、何から書き出せばよいかわからないぐらい多くのことを感じ、学ぶことができた。本当に何から書けばいいものか、戸惑ってしまう。それにまた、書き記したいことがたくさんあり過ぎる。


Seriousに分析哲学をやっている人は、上に記した本を読むべきである。勝手ながら断言してしまうが、これは読んでおいた方がよい。通読しなくてもいいかもしれないが、一部は読んでおかないといけないと思う。この本に書かれてあることがすべて正しいというわけではなかろうが、しかしこの本を読んでいて、わかっていたことだが自分がいかにCarnapを一面的にしか見ていないか、いかに一部しか知らないか、思い知らされた。私も含めて戯画化されたCarnapしか知らない方は一読しておいた方がよい。Carnapに対する見方が変わってくると共に、分析哲学と大陸哲学、特に現象学との見方も変わってくるだろう。少なくとも私は変わってしまったようだ。


Carusさんの論文を読みながら、Carnapという人はずっと複雑な考えをお持ちだったのだろうと思われた。ずっと彩りのある考え方、人生をお持ちだったのだろうと感じられる。Wittgensteinには『ウィトゲンシュタインのウィーン』という本が書かれたが、Carnapにも同種の本が書かれねばならないことは私には明らかである。論理実証主義の政治性について検討された論考が今ではいくらかあるが、Carnapの政治観、政治的スタンスを検討した論考もこれから書かれねばならない。Carnapを含めた論理実証主義の運動がModernismの一種であるとPutnamさんは自身の論文「規約」で語られていたが、これなどもより深化させて詳述されねばならぬ。CarnapがModernistだとしても、それは私たち現代の日本人が考えるModernismとはかなり異なるものだろうと推測される。とにかく細かい話はこのような場ではできない。いずれにしても彼を彼の生きた時代の思潮の中に入れた上で理解せねばならぬ。そうするならば非常に多彩な人物との関係が明らかになってくるだろう。とにかくこの場では語りつくせない。あまりにも多くのことがあり過ぎる…。一つだけ記しておくと、ドイツ青年運動である。これはCarnapにとってのみならず、当時のドイツの若い知識人予備軍にとっては大変重要な社会動向である。いわゆる文系的な若者にも理系的な若者にも共に大変重要だった。例えばBenjamin, Heisenberg. そして若者ではない人物にも。Weber. 語りつくせない…。


Ryckmanさんの論文にも同様の強い印象を受ける。氏の論考は充分周到に実証的な論文だ、というわけではない。しかし私はかなり説得されてしまった。私はCarnapianでもHusserlianでもないので、氏の論考に描かれたCarnapとHusserlの哲学が公平・妥当なものかどうか、にわかには判断できない。しかしAufbauの頃のCarnapはHusserlと似ているところがあるのみならず、単に似ているのではなくて本質的なところで同じであるかのように感じられる。同じ問題を考えていて、違った方法で解答をそれぞれ与えているように思われる。もちろん両者は異なっているところが色々あるわけだが、一言で現象学風に言うと、いかにして内在は超越に達するのか、という問題を両者とも考えていたように感じられる。本質的なところで両者は問題を共有しているらしいというこの見解についてはRyckmanさんの論考を直接読まれたい。細かいところまでここでは書き切れない。とにかく思ったよりもずっと両者は近いようである。FregeとHusserlについては、両者の近さをしばしば指摘されるが、CarnapとHusserlはもっと近い。なぜなら初めて今回知ったが、CarnapはHusserlのゼミに出ており、直接現象学を学んでいるようであるから*1。このことは既に以前から記録としてある。さらにCarnapがHusserlの影響を受けているという話は何十年も前から出ていたが、その影響はどうやら周縁的なものだと思われてきたようである。しかしRyckmanさんの文を読むと、核心的なところで、一時期で終わったのかもしれないが、CarnapはHusserlの影響を受けているみたいである。時は1922-25年、ところはFreiburg大学。1924-5年のゼミにCarnapは出ているようである。驚くべきことに当時、当地にはHeideggerがいた。両者とも初めて直接Husserlに教えを受けたのはここ、Freiburgである。(ひょっとすると両者は相見えたことがあったのではなかろうか。) CarnapとHeideggerとの対立は戯画化して語られる傾向があるが、もしも以上の話が正しいとするならば、両者の師匠のうちの一人は、共に、Husserlなのである。共にHusserlの影響を受けているのである。そして一方は北海へと至り、他方は黒海へと至る。二人の対立が鮮明となった時、つまりCarnapのHeidegger批判論文が出た時、最終的に分析哲学現象学は袂を分かったと言われることもあるようだが、分岐点はそこにはなく、その少し前にあったのが実情ではなかろうか? いつごろHeideggerはHusserlから離反し、いつごろCarnapはHusserlから離反したのか? そこが分岐点かもしれない。私はそう感じる。少なくとも今日のところは…*2


とにかく語るべきことが多すぎる。書き切れない。何を書いているのか分からなくなってきたぐらいである。全然書き足りない。もう真夜中である。寝なければならない。今日は一気呵成に書いたので、誤字脱字が多く含まれているだろう。

*1:ただしゼミに出ていればそれだけで近い、とは言えない。しかし出て勉強していたとは私は知らなかった。

*2:分岐点はもっと前にあったのかもしれない。正確な検討は他日を期さねばならぬ。