For Scottish School of Neo-Fregeanism, Is Hume's Principle a Logical Truth?

Hume's Principleの位置付けについて、「おやっ?」と思ったことがある。そのことを記す。


まず次の文献を読むと

  • Roy T. Cook  “Introduction”, in his ed., The Arché Papers on the Mathematics of Abstraction, Springer, The Western Ontario Series in Philosophy of Science, vol. 71, 2008

Scottish Schoolの一員とも目されるR. Cookさんが、Scottish School of Neo-Fregeanismの試みを要約する中で、Hume's Principleについて以下のように述べておられる*1

Hume's Principle, […] just does not have the character of a logical law or theorem […].

Wright and those that follow him deny that Hume's Principle is a logical truth.

一つ目の引用文では、‘just’によって‘not’が強調されている。つまり、「まったく 〜 ではない」と全否定されている。
二つ目の引用文では、Scottish Schoolの頭目Wrightさんの名前を直接挙げておられる。

以上、要するに、Scottish Schoolにおいては、Hume's Principleは論理的真理ではない、とScottish Schoolの一員自身によって述べられている訳である。


次に日本におけるFrege研究の代表的な先生方の、Hume's Principleに関するごく最近の文章を見てみよう。
まず野本先生の文*2

「新フレーゲ主義(Neo-Frege[a]nism)」には、様々な提案が含まれるが、ライト=ヘイルのスコットランド「新論理主義者(Neo-logicist)」[…] は、「ヒュームの原理」が二階の「論理的真理」だと主張する。


次に田畑先生の文*3

フレーゲ主義とは何か? […] 要するに、HP [Hume's Principle] が、無矛盾で「論理的」(「分析的」という古色蒼然(?)のタームを避けるとすれば)であり、数の文脈的定義と呼べるほど明晰なものであるとすれば、これを基本原理として算術を展開することで論理主義の成功を示せる、という主張に集約されよう。


最後に岡本先生の文*4

フレーゲ主義の立場からライトやヘイルが主張するのは、最も基本的には、ヒュームの原理それ自体が、ほとんど「論理的真理」「分析的真理」と言ってよいような性格のものであり、しかもこの原理だけから、基数という無限に多様な抽象的対象の存在が帰結する以上、そうした無限な抽象的対象の存在を受け入れることが、意味理論的・認識論的に十分に正当化される(抽象的対象の存在を、何らかの唯名論的・物理主義的な仕方で存在論的に還元しようとする必要はない)ということである。
ここで筆者自身の意見を言ってよければ、確かに、そうした存在論的還元など行われなくとも、無限な抽象的対象の存在を受け入れることが正当化されるというのは、おそらく正しい。しかし同時に、この主張のためにヒュームの原理を持ち出すのはいかにも的外れである。冷静に考えてみよう。そもそも、たかだか命題論理の言語を採っただけでも、実はすでにそこにおいて、無限に多くの対象の存在は幾重にも前提されている。原始命題記号を始めとして、この言語のシンタクスを形作る諸シンボルは、いずれも少なくとも可算無限ないし潜在無限でなければならないし、さらに何より、証明という、やはり無限に多様なシンボル構成が存在する […]。しかも、[…] こうしたシンボル構成は、単に無限であるのみならず、ヒルベルトからゲーデル、ゲンツェン以来の現代証明論が示してきた通り、少なくとも再帰的関数レベルの十分に豊かな数論的構造を体現している。無限に多様な対象の存在 […] の意味理論的正当化という問題をまともに探究するのであれば、「論理的真理」「分析的真理」と言えそうなものを見つけ出すといった、恣意的で因習的な試みに入り込む前に、この種の証明論的・シンボル論的考察に向かうべきである。この事情を予感さえしていない新フレーゲ主義者は、論理から何を学び取るかという点において、あまりにも素朴で稚拙だと言わねばならない。

以上、要するに、日本の代表的な先生方によると、まったく、あるいは大体のところ、Scottish SchoolはHume's Principleを論理的真理だと主張している、と述べておられるように読める。


結局つまり、Scottish SchoolのメンバーであるCookさんによると、WrightさんたちはHume's Principleを論理的真理とは認めていないと述べているのに対し、日本の方では、WrightさんたちはHume's Principleを論理的真理と認めていると述べていることになる。本場では「認めない」と言い、こちらでは「認めている」と言っている訳だ。

これはどうなっているのだろう?
ここから私に感じられることは、Scottish School of Neo-Fregeanismについて、早急な判断を下すのではなく、まずはきっちり細かくScottish School of Neo-Fregeanismを追跡してみる必要がある、ということであろう。Hume's Principleの極々基本的な特徴付けに関してさえ、上記のように正反対の記述が見られるのであるから、ここからしてScottish School of Neo-Fregeanismに対しては、いかに慎重な判断が必要とされているかがわかろうというものである。恐らくScottish SchoolによるNeo-Fregeanismの議論には、微妙なところがあるのかもしれない。そのために本場とこちら側とで意見が食い違ってしまっているのかもしれない。


なお、私の方で何か激しい勘違いをしていましたら大変申し訳ございません。さらに精進致します。おやすみなさい。

*1:二つの引用はともに、Cook, p. xix.

*2:野本和幸、「フレーゲ論理哲学的探究の全体的構成とメタ理論の可能性 − 《認識論的》位相に留意しつつ」、野本和幸責任編集、日本科学哲学会編、『分析哲学の誕生 フレーゲラッセル』、科学哲学の展開 1、勁草書房、2008年、61ページ。

*3:田畑博敏、「書評 岡本賢吾・金子洋之(編)『フレーゲ哲学の最新像』(勁草書房、2007年刊)」、『科学哲学』、第40巻、第2号、2007年、99ページ。

*4:岡本賢吾、「編者解説」、岡本賢吾・金子洋之編、『フレーゲ哲学の最新像』、双書 現代哲学 5、勁草書房、2007年、360-361ページ。岡本先生の原文ではHume's Principleを「[ヒュームの原理]」と角括弧で括って太字にされておられるが、引用者による挿入句と区別がつかなくなる恐れがあるので、以下の引用文中では角括弧をほどいて太字をやめ、プレーンに表記してある。