Frege and the Proof-Conditional Semantics, Part I

この項目を三回に分けて日記に掲載する。この項目内容は、言うまでもないことだが、単なる備忘録である。あるいは単なる感想文である。

先日、この論文を拝読させていただき、興味を感じた点があった。そのことを二つだけ記したい*1。そこでまず、上記論文の興味を感じた箇所全体を以下に引用する*2。引用に際しては、金子先生の註は省く。

では、もしフレーゲが『基本法則』においてもなお、存在論的カテゴリーが言語的カテゴリーに随伴するという『基礎』での考え方を維持していたとすれば、それはフレーゲの言語観に何をもたらすであろうか。明らかな帰結の一つは、彼が表象主義的な言語観をとることはできないし、モデル論的な真理条件をとることもできないということである。「7は素数である」を例にとろう。この文の真理条件を、数字7の意味するものが「素数」という概念を満たすか否か、というような形で与えることはできない。なぜなら、数字7の意味、すなわち数7という対象の存在が前もって確保されているわけではないからである*3。そして、そのような数を導入する手続きを実行するにあたっては、われわれはすでに言語を用いなくてはならない。実際、『基本法則』の構造を考えてみれば、「7は素数である」の真理性を確保する手段は、真なる公理から、真理を保存する推論規則を介した導出以外に何もないのである。
これに対し、いやフレーゲは通常のモデル論的な真理条件を「充足」という言葉を使って与えているではないか、という反論があるかもしれない。たしかにフレーゲは次のように語っているからである。


つまり、我々の約定によって、どのような条件のもとでその名前が真を意味するかが確定するのである。この名前の意義、思想はこれらの条件が充足されているという思想なのである[Grundgesetze I, §32]。


この箇所は、フレーゲが真理条件的意味論の祖型を考えていた証拠としてしばしば言及される箇所である。しかし、引用中の最初の部分[を]よく見ていただきたい。「我々の約定」は、その前の節§31での約定であり、それは公理Vと、それに基づく真理値の定義である。したがって、そうした約定から「どのような条件のもとでその名前が真を意味するかが確定する」とは、公理や定義からの導出によって真と確定するということ以外の何ものでもない。それ以外の道は『基本法則』にはないのである。それゆえ、もしこの解釈が可能であるとすれば、真理値の名前(つまり文)の意義・思想、すなわち「これらの条件が充足されているという思想」は、公理からの導出にあたって、それら公理の前提条件が充たされているという思想であり、言い換えれば、それは証明条件にほかならない。
フレーゲについてのこうした読み方は、「意義」について従来とは違った見方を与えてくれるかもしれない。言明の意義が通常の真理条件によって与えられるとしよう。この場合、もしその言明が真理値を欠いているならば(例えば、その言明中の名前が指示対象を欠いているがゆえに)、その言明の真理条件もまた欠落していることになるであろう。したがって、このように考えるかぎり、フレーゲが、意義はもつけれども真理値をもたない文の存在を認めている、という事実はきわめておかしな事態だということになる。しかし、偽な前提や真偽の定まらない原理からの導出を認めることにまったく問題はない。もし意義が単なる真理条件ではなく、そのような導出への貢献をも含むとするならば、真理値を欠いた思想という発想に何の問題もないことがわかる。

*1:金子先生は、この先生の論文の論述について、「議論の全体はかなり見取り図的なものになる」と、164ページで断りを入れておられる。詳細に論を展開されている論文ではなく、事柄を素描されている限定的で暫定的な論文のようである。したがってこの点を踏まえ、以下では単に感想を述べ、個人的に思いついた疑問をただ提示するのみにとどめたい。

*2:金子、167-68ページ。

*3:使用と言及の違いを明確にしたい場合には、ここでの文章を次のように書き換えるとよいであろう。「この文の真理条件を、数字‘7’の意味するものが素数という概念を満たすか否か、というような形で与えることはできない。なぜなら、数字‘7’の意味、すなわち数7という対象の存在が前もって確保されているわけではないからである。」