Substructural Logics in Ancient Times

古代に substructural logics があったと言うのだろうか。もちろん厳密ないみであったという訳ではない。しかし、既に古代末期の紀元後2〜3世紀において structural rules に言及されている例があり、しかもそのいくつかの規則に対しては、異論が述べられている。


次の文献の

  • Francesco Paoli  Substructural Logics: A Primer, Kluwer Academic Publishers, Trends in Logic, vol. 13, 2002

Chapter 1, note 13, 22 を見てみると、Sextus Empiricus が weakening, exchange に言及しており、彼の見解では、それらの規則は疑わしく認め難いものだということらしい。

なお上記 Paoli さんの話は、次の Casari さんの論文に基づいている*1。この Casari 論文を見ると、Sextus Empiricus は contraction にも言及していたとわかる*2

  • Ettore Casari  “Conjoining and Disjoining on Different Levels,” in Maria Luisa Dalla Chiara, Kees Doets, Daniele Mundici and Johan van Benthem ed., Logic and Scientific Methods: Volume One of the Tenth International Congress of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Florence, August 1995, Kluwer Academic Publishers, Synthese Library, vol. 259, 1997.


さて、Sextus Empiricus が contraction と weakening, exchange に言及している例を、好奇心に任せて確認してみよう。


Contraction に言及している例

  • セクストス・エンペイリコス  『学者たちへの論駁 2: 論理学者たちへの論駁』、金山弥平、金山万里子訳、西洋古典叢書京都大学学術出版会、2006年、第8巻、229-233.

ここでは以下に見られる論証 1 が、それを分析してみるならば、より複合的な論証 2 からなっていると述べられている。その際に contraction に言及されている。


論証 1

もしも昼であるなら、もしも昼であるなら光がある。
しかるに、昼である。
したがって、光がある。

p → (p → q)
p
∴ q.


論証 2

もしも昼であるなら、もしも昼であるなら光がある。
しかるに、昼である。
よって、もしも昼であるなら光がある。
しかるに、昼である。
したがって、光がある。

p → (p → q)
p
p → q
p
∴ q.


Weakening に言及している例
Weakening は成り立たないと言っている。

  • セクストス・エンペイリコス  『学者たちへの論駁 2: 論理学者たちへの論駁』、金山弥平、金山万里子訳、西洋古典叢書京都大学学術出版会、2006年、第8巻、429-431.


ストア派によると、妥当でない議論には四つのパターンがある。そのうちの一つが「余剰のための議論」と呼ばれるものである*3

余剰のために議論が妥当でなくなるのは、諸前提に付け加える形で、何かが外部から余計に採用されている場合である。例えば、「もしも昼であるなら、光がある。しかるに、昼である。しかるにまた、徳は益になる。したがって、光がある」のような議論がそれにあたる。というのも、「徳は益になる」はその他の諸前提に加えて余計に採用されているからである −とにかく、それを取り除いても、残りの諸前提「もしも昼であるなら、光がある」と「しかるに、昼である」を通して、帰結「したがって、光がある」は導出されうるのであるから。

‘p’を「昼である」、‘q’を「光がある」、‘r’を「徳は益になる」として以下のように形式化してみる。

p → q, p ├ q
∴ p → q, p, r ├ q

Sextus Empiricus によると、この際の r は余剰であり、上記のような weakening は妥当でないとのことである。


Exchange に言及している例
Exchange は普遍的に成り立つのではないと言っている。

ストア派によるならば、詭弁的な論証には「不明瞭なことへと誘導する議論」または「変換する議論(changing arguments)」と呼ばれるものがある。この議論によると、前提を構成する文の順番を入れ替えると、入れ替える前には出て来た結論が、入れ替えた後では出て来なくなり、詭弁的だ、ということである。
この話は『ピュロン主義哲学の概要』の第2巻、234に現れているのだが、正直に言ってこの箇所が私には完全に理解できたとは思われない。訳者の先生方が補註を付けておられ、それを参考にさせていただいても、何かが私の頭の中で邪魔をして、すっきりわかったとは感じられないでいる。しかし大体次のような論証が念頭に置かれているのであろうと考えられる。以下に私なりに修正を加えたその論証を記す。前置きするならば、少しばかりくどくてかつちょっと長い。


Exchange は普遍的に成り立つのではないという論証、あるいは exchange に対する反例


私はあなたに何ら質問をしていないと仮定する。
そこで次のような論証をしたとしよう。


論証 A

私はまずあなたに質問をした。P (1)

「私はまずあなたに質問をし P、かつ私はまずあなたに質問をしていない ¬P」というようなことはない、¬(P∧¬P) (2) そうですね? (3)

この(2)は次のことと同じことである。

つまり、私はまずあなたに質問をしていないか ¬P、または私はまずあなたに質問をしていないことはないか ¬¬P、である。¬P∨¬¬P (4)

(4)の後半を少しつづめれば次になる。

つまり、私はまずあなたに質問をしていないか ¬P、または私はまずあなたに質問をしているか P、である。¬P∨P (5)

さて仮定により、(1) P は偽である。したがって(5)の前半 ¬P は真である。

よって、私はまずあなたに質問をしてはいない。¬P (6)


ところで、(1) P を(3)の後に持って来た論証を展開してみよう。



論証 B

「私はまずあなたに質問をし、かつ私はまずあなたに質問をしていない」というようなことはない、¬(P∧¬P) (2) そうですね? (3)

私はまずあなたに質問をした。P (1)

論証Aにより、(2) ¬(P∧¬P) は(5)と同じことであった。
つまり、私はまずあなたに質問をしていないか、または私はまずあなたに質問をしているか、である。¬P∨P (5)

さて、今(1)に先立って、(3)において私はあなたに質問をしている。したがってこの論証Bにおける(1) P は、論証Aの場合と違って、真である。

したがって、論証Aの場合と異なり、論証Bの場合、(5)の前半 ¬P は偽であり、(5)の後半 P は真である。

よって、私はまずあなたに質問をしている。P (7)


ところで、論証AとBは、順番は入れ替えたものの、同じ前提を持っているのに、結論は(6) ¬P と(7) P というようにそれぞれ互いに矛盾し合う関係になってしまった。

論証Aの(1) P を(3)の後に持って来るだけで、論証Bに見られるごとく、互いに矛盾する結論が得られるということから、論証の前提を構成している文を入れ替えることにより、詭弁が生じることがあり得るのである。したがって論証における文の入れ替えはいつでも許されるという訳ではない。


これら論証Aと論証Bの話は、exchange がいつでも成り立つ訳ではないということを教えているものと思われる。


以上、Sextus Empiricus が contraction と weakening, exchange に言及している例を見た。これらの structural rules は簡単な規則といえば簡単な規則であるから、もしかすると Sextus Empiricus 以前にも、(ストア派を別にして)これらの規則に言及している人々がいたかもしれませんね。


上記の話はよく見直していないので、間違い等がございましたらすみません。
おやすみなさい。

*1:この Casari 論文では、Sextus Empiricus のみならず、J. Venn も 1894年に彼の著書 Symbolic Logic, 2nd ed. で contraction とexchange に言及しているとし、Venn の本から該当箇所を引用されておられる。Venn の話は今日はやめておきます。

*2:Casari, p. 262.

*3:セクストス・エンペイリコス、『学者たちへの論駁 2』、第8巻、431。