また、数ヶ月後に次の本が刊行される予定になっています。
- Enzo De Pellegrin ed. Interactive Wittgenstein: Essays in Memory of Georg Henrik von Wright, Springer, Synthese Library, vol. 348, Due in December 2009
ここには次の三つが収録されているようです。その二つ目は、1914-1920年における Frege から Wittgenstein への書簡のドイツ語オリジナルとその英訳が掲載されています。
- Juliet Floyd “Prefatory Note to the Translation [of Frege-Wittgenstein Correspondence]”
- “Frege-Wittgenstein Correspondence,” Translated by Burton Dreben and Juliet Floyd
- Juliet Floyd “The Frege-Wittgenstein Correspondence: Interpretive Themes”
これら三つともすべてが Juliet Floyd さんの HP から無料で DL 可能となっています。これはありがたいと思い、入手させていただきました。大変ありがとうございます。
Wittgenstein と言えば、以下の本を何気なく拾い読みしていると、
- レイ・モンク 『ウィトゲンシュタイン 天才の責務 2 』、岡田雅勝訳、みすず書房、1994年
596-98ページ、特に597-98ページに、とても興味深い見解を Wittgenstein さんが示しておられることに気が付く。それは彼がいわゆる予定説を認めていないということです。この説を単に認めないどころか、それを「ナンセンス」だとさえ述べているようです*1。なぜならこの説を認めてしまうと、Wittgenstein さんによるならば、「「私たちが現在していることは、究極において違いをなくすることにある」、という結果になってしまうようであるからである。」*2 つまり平たく言ってしまうと、予定説を認めると人生にいみがなくなるということなのだろう。救われるか否かは既に決まってしまっているのだから、人生において何をなそうとも結局は無駄なのだ、ということになってしまうということなのだろう。
Wittgenstein さんが予定説をお認めにならないということは、私には大変興味深い。私自身の印象によると、予定説またはそれと類似した考えを認めるか否かによっては、その人の宗教観や人生観が大きく違ってくるのではないかと感じています。予定説を認めないということは、Wittgenstein さんの宗教観・人生観に大きな影響を与えるのではないかと思われるので、このことの帰趨を見定めることは、個人的にとても興味深い問題だと感じます。
なお私は予定説について特段詳しい訳ではありません。念のため。