「哲学的分析のパラダイム」という言葉は、元々どのような文脈で語られていたのか?: Ramsey did not think that Russell's Theory of Descriptions was a paradigm of philosophy.

「哲学的分析のパラダイム」という言葉を聞くことがある。これは P. F. Ramsey の言葉だと記憶している。とても有名な言葉なので、あるいは言い換えると、特に珍しい言葉でもないので、このようなことを Ramsey がどこでどのように述べているのかを改めて調べてみることもなかった。しかし少し気になったので、彼がどこでどのように書き記しているのかを確認してみた。それは彼の1929年の遺稿 “Philosophy” に見られる言葉である。その遺稿の冒頭で Ramsey は、おおよそのところ、次のようなことを述べているものと思われる*1

Ramsey によると、哲学とは諸定義の一つの体系である。あるいは哲学とは、定義をどのようにして与えたらよいのかについて記述している体系である。そして定義は主として、今まで我々がいみしていたことを説明しているのではなく、これから我々が何をいみしようと意図しているのかを示しているものなのだと Ramsey は考えている。また時に哲学は、以前からの、曖昧で混乱していた諸観念を、明晰にし識別すべきであるとされ、この場合、これは明らかに今後のいみだけを定めようとしているのだと Ramsey は述べている。いずれにせよ少なくとも定義は、これからいみしようとしていることを与えるものなのであり、過去にどうであったのかを示すのは、その主たるところではない、とされているようである。

このようなことを述べたところで Ramsey はいわゆる「哲学的分析のパラダイム」に相当する言葉を註として付している。以下に該当する箇所の前後を、少し長くなるが引用してみよう*2。引用は Braithwaite 版に拠っている。

Philosophy must be of some use and we must take it seriously; it must clear our thoughts and so our actions. Or else it is a disposition we have to check, and an inquiry to see that this is so; i.e. the chief proposition of philosophy is that philosophy is nonsense. And again we must then take seriously that it is nonsense, and not pretend, as Wittgenstein does, that it is important nonsense!
In philosophy we take the propositions we make in science and everyday life, and try to exhibit them in a logical system with primitive terms and definitions, etc. Essentially a philosophy is a system of definitions or, only too often, a system of descriptions of how definitions might be given.
I do not think it is necessary to say with Moore that the definitions explain what we have hitherto meant by our propositions, but rather that they show how we intend to use them in future. Moore would say they were the same, that philosophy does not change what anyone meant by ‘This is a table’. It seems to me that it might; for meaning is mainly potential, and a change might therefore only be manifested on rare and critical occasions. Also sometimes philosophy should clarify and distinguish notions previously vague and confused, and clearly this is meant to fix our future meaning only.1 But this is clear, that the definitions are to give at least our future meaning, and not merely to give any pretty way of obtaining a certain structure.


1.
But in so far as our past meaning was not utterly confused, philosophy will naturally give that, too. E.g. that paradigm of philosophy, Russell's theory of descriptions.


この引用文最後の註の1を試訳してみると次のような感じになるであろうか。かなり square に訳してみる。

しかし、我々の過去のいみがまったく混乱しているという訳でなかった場合に限り、哲学は当然 [今後のいみのみならず、過去の] そのいみも与えるものなのである。例えば、哲学のそのような例は、Russell の記述の理論である。


さて、Ramsey によるならば、哲学とは定義の体系である。しかも主として今後どのようないみで使うのかを述べた定義の体系である。過去にどのようないみを持っていたのかを定義で述べる場合もあるが、そしてその場合は、定義しようとしている観念があまり混乱していない場合に限られるのであって、いずれにせよ主として定義で述べているのはこれからのいみである。図式的にまとめるならば、哲学における定義とは今後のいみを定めるのが主であり、過去のいみを明らかにするのは従である、ということになるものと思われる。そしてこの今までにあったいみを与えようとしている副次的な哲学の事例が Russell の記述の理論である、ということになるものと考えられる。

ところで、「記述の理論は、哲学的分析のパラダイムである」という言葉によって、私たちが抱くイメージとは (あるいは私個人が抱くイメージとは)、Russell の記述の理論は哲学の見習うべき模範例であり、最も率先して実践すべき哲学の典型例であって、第一に賞賛・称揚される哲学の見本である、というものであると思われる。しかし上に引用した Ramsey の文を見るならば、私たちの抱くイメージ (あるいは私個人の抱くイメージ) とは少々異なるいみ合いで Ramsey は‘that paradigm of philosophy, Russell's theory of descriptions’という言葉を使っているようである。というのも、私の理解した限りでは、そしてその限りでだが、Ramsey にとって哲学における定義の主たる役割は、これからのいみを定めるものであって、過去のいみを明らかにするのは副次的なものに過ぎず、その副次的な例として Russell の記述の理論が上げられているように見えるからである。話の前後からして Ramsey は、Russell の記述の理論を哲学の主要事例とはみなしておらず、必ずしも見習うべき模範例として、最も率先して実践すべき典型例として、賞賛・称揚している訳ではないものと思われる。

以上の話は私にとって少し意外に感じられます。私のイメージとしては、Ramsey が記述の理論を哲学の典型例として、賞賛・称揚しているものとばかり思い込んでいましたが、どうやらそうではないような感じである。但しもちろんこれは私の理解が間違っていなければの話であり、また私の抱いていたイメージが個人的な妄想でなければの話である。それに私はそもそも Ramsey について無知であり、上に引いた該当箇所を読んだ限りの話を略述しているだけであって、Ramsey の哲学の全体を踏まえた上での話では全くない。だから以上の私の話は間違っている可能性が非常に大きい。眉に唾付けて読むべきである。間違っていたら申し訳ありません。

何にしろ、私個人には Ramsey の言葉が意外に思われたのですが、ではもしも仮に以上の叙述が正しいとするならば、誰かがいつかどこかで記述の理論を分析哲学の模範例として Ramsey が勧めていると思わせるような話をしたことがあるということになりそうである。そうだとするとそれは誰がいつどこでそうしたのだろうか? 残念ながら今のところそこまでは私にはわからない。あるいは「哲学的分析のパラダイム」に相当する言葉を述べているのは、Ramsey 以外にいるのかもしれない。例えば、少し調べてみると有名どころでは Ayer がいるようである。私の知っている限りでは、Ayer は次のような言葉を述べている*3

In citing Bertrand Russell's theory of descriptions as a specimen of philosophical analysis, I unfortunately made a mistake in my exposition of the theory.

ここの‘a specimen of philosophical analysis’における‘specimen’は、単なる一事例というよりも、典型例、代表例、見本というニュアンスが含まれるから、Ramsey の文脈よりかは私たちのイメージに少し近づいているように思われる。これ以外に Ayer はどこかで似たような文言を残しているかもしれない。彼には Bertrand Russell という名の本もあるので、そこで何か言っているかもしれないが、私は未見である。
またもっと詳しく件のことに関係することを述べていると思われるのは、有名なところでは Moore がいて、次の文献がそれである。

  • G. E. Moore  “Russell's “Theory of Descriptions”,” in Paul Arthur Schilpp ed., The Philosophy of Bertrand Russell, 5th ed., Open Court, The Library of Living Philosophers, vol. 5, 1944/1989

この論文の copy を持っているが、まだ読んでいない。

‘that paradigm of philosophy, Russell's theory of descriptions’という言葉が変容して行ったかもしれないというこの問題に関しては、できれば分析哲学史家が確認しておく課題として、お譲りしておきたい。


以上、よく見直していないので誤字・脱字等がありましたらお許し下さい。そしてそもそも Ramsey の文章について、私が大きな勘違いをしているようでしたらお詫び致します。

*1:Frank Plumpton Ramsey, “Philosophy,” in his Foundations of Mathematics and Other Logical Essays, R. B. Braithwaite ed., Routledge, International Library of Philosophy, 1931/2006, p. 263. または Frank Plumpton Ramsey, “Philosophy,” in his Philosophical Papers, D. H. Mellor ed., Cambridge University Press, 1990, p. 1. 邦訳では、F.P.ラムジー、「哲学」、『ラムジー哲学論文集』、D.H.メラー編、伊藤邦武、橋本康二訳、勁草書房、1994年、1-2ページ。

*2:Braithwaite, p. 263, Mellor, p. 1, メラー、1-2ページ、369ページ。

*3:Alfred Jules Ayer, Language, Truth and Logic, Second ed., Victor Gollancz, 1946/1970, First ed. published in 1936, p. 22.