The Days of the Writing of “On Denoting”

次の論文を見ると、

  • Alasdair Urquhart  “G. F. Stout and the Theory of Descriptions,” in: Russell, vol. 14, no. 2, 1994

Section 1: How “On Denoting” Was Writing*1 に Russell が “On Denoting” を書いた時期についての説明がある。興味深いので、以下にその時期の流れを表にしてみる。この表は、その Section 1 を読んで私が再構成したものである。若干私の補足が含まれている。
結論めいたことを述べると、どうやら “On Denoting” はとても短い期間に書き上げられたようである。そして事によると Russell が精神的に非常につらい時期に書かれていたのかもしれない。


1905年6月7日
手稿“On Fundamentals,” p.18ff. にて New Theory of Denoting が姿を現し始める。


1905年6月13日
Description を巡る Waverley の puzzle が解けたと手紙で Lucy Donnelly に報告。


1905年7月23日(日)
「“On Denoting Phrases”を書き上げた時には、存在に関する私の見解をよりよく説明できるだろう」と述べた手紙を Couturat に送る。この日から論文“On Denoting”を書き始めたか、あるいはこの日までにはその論文を書き始めていた可能性がある。


1905年7月25日(火)
England 北西にある Cumbria 州の Kirkby Lonsdale の川で、Cambridge Univ. からの Russell の親友 Theodore L. Davies が溺れて亡くなる。但し、この時点では Russell はこのことを知らない。この日に Theodore の兄弟 Crompton がこのことを伝える手紙を Russell に出す。Crompton も Russell の親友である。


1905年7月27日(木)
明後日7月29日(土)から8月10日(木)まで、妻と Ireland に滞在するつもりだと、Couturat に手紙を送る。Russell の知り合いの知り合いを訪問するための滞在である。またこの日に付けた Crompton の記録によると、自分は31日月曜日には London に戻るので、そこで会おうと Russell に伝えたとしている。これは今日そのことを伝える手紙を Russell に出したということか?


1905年7月28日(金)
恐らくこの日に Russell 夫妻は Ireland へ向けて出発。


1905年7月29日(土)から31日(月)
Ireland に滞在か? そして Ireland 滞在中に訃報を受け取ったか?


1905年8月1日(火)
本日 Ireland から帰京か? London の Westminster Abbey 近くから Couturat へ返事の手紙を出す。この書簡に、先日3日間だけ Ireland にいて、そこで Couturat からこの返事のもととなる手紙を受け取ったと記している。この日にか、あるいはこの日の後に Crompton と会い、打ちひしがれる彼とともに数週間を過ごす。Russell 自身も親友の死に打ちのめされた。8月10日(木)から24日(木)の2週間を Crompton と一緒に Normanday で過ごす。


1905年8月3日(木)
件の論文を書いたと手紙で Lucy Donnelly に報告。7月23日から書き始め、8月3日に書き終えたとするならば、その論文はこの悲劇的な12日間に書かれたということになる(Urquhart 説)。これが正しいとするならば、“On Denoting”は、短期間かつ極めて精神的に困難な状況下で書かれたということになるだろう。

但し、Kenneth Blackwell による説では、“On Denoting”は7月23日から書き始められ、7月28日までには書き終えられて、それから Russell は Ireland に向かい、悲報を受けて London に戻ってきたというものである。この場合だと、件の論文は5日で書き上げられたということになる。


以上で “On Denoting” 執筆経過の表を終わる。
最後に、感想のようなものを一つ。
いずれにしても上記の表からわかることは、“On Denoting”はかなり短期間で書き上げられたのだろうということである。但し、そこで話題となっている denoting を巡る問題は、1903年刊行の The Principles of Mathematics にも、一章を割く分量を持って出てきており、その後もこの問題は手稿中に表れてくる問題なので、論文の執筆時間は短かったものの、Russell が denoting について検討してきた期間は少なくとも数年に及ぶ。このように最低でも数年に渡って考えられてきた問題なので、“On Denoting”のような短い文章に書き出すこと自体は、それほど時間を要しなかったであろうことは充分あり得ることであると思われる。そして、上記の表に見られる様子から、Gray's Elegy Argument が、その読解に困難を極め、Russell 本人でさえ、その論証は混乱していると言わしめた理由がいくらかわかってくる*2。その理由の一端には、精神的につらい時期に短時間で書き上げられたか、あるいは Ireland へ出かける直前に急いで書き上げられたか、そのいずれかの状況が幾分かかわっていたのであろう。

*1:Urquhart, pp. 163-66.

*2:Gray's Elegy Argument が弁解の余地がないほど不明瞭である理由の一つを、Urquhart さんは、この論文が書かれた状況に見出している。Urquhart, p. 166. Russell 本人が、Gray's Elegy Argument を混乱していると発言したという話は、当日記の2009年12月16日‘Russell’s Dismissal of his Gray’s Elegy Argument’を参照。