Why Did Stout Require Russell to Rewrite His Paper “On Denoting”?

Stout が Russell に対し、彼の論文“On Denoting”について、それを再考し、書き直すよう求めたという話は、割と知られているものと思います。当日記の2010年1月2日の項目‘Stout's Letter to Russell on Denoting’で、そのことについて少し触れました。そしてこの件に関し、先日次の文献を拝読致しました。

  • Omar W. Nasim  “Explaining G. F. Stout's Reaction to Russell's ‘On Denoting’,” in Nicholas Griffin and Dale Jacquette ed., Russell vs. Meinong: The Legacy of "On Denoting," Routledge, Routledge Studies in Twentieth Century Philosophy Series, 2008


なぜ Stout が Russell に再考を促し、書き直すよう言ったのかは、正確なところ、現在ではわかっていません。しかし、上記の論文における研究からは、大体の理由が推測されています。そこで以下に、上記の論文に従って、その理由を記しておきたいと思います。以下の記述は Nasim 論文を私が読んで、わかりやすく図式的にまとめ直したものです。この論文は短く、かつ特に難しくもないものですが、私には若干ピンと来ない感じがしましたので、すっきりとチャート化してみました。ですので、件の論文の論述の流れが、そっくりそのまま以下のチャートの構成と同一であるという訳ではありません。「要するに Nasim さんのお話は、以下のようにまとめ直すことができますよね?」という気分で書かれています。このようなことのため、出典先のページ数などは、省いてあります。また、Nasim さんがお使いになられていない言葉を使っている場合もあります。それも逐一注記するということはしておりません。さらに、以下の記述は、Russell やいわゆる独墺学派について語られていますが、実際にそこに記述した通りのことを Russell が言っているとか、独墺学派に属するすべての人間が余すところなくそう主張しているということを保証するものではありません。Nasim さんが正しいならば、であり、私の理解と説明が間違っていなければ、という留保条件が付いています。この点お含みの上、お読み下さい。


まず押えておくべきことは二つあります。

    • (a) 一つは、Stout は、1896年頃には、ある認識論上の立場を獲得・堅持しており、その立場は当時の、いわゆる独墺学派(Austrian realists)の祖 Brentano の認識論上の見解とよく似たものであったということです。Stout の認識論上の立場が Brentano のものと似ているということは、Stout 自身も認めていました。
    • (b) もう一つは、Stout が自身の立場と独墺学派の立場が似ていると認めるのみならず、彼は独墺学派の認識論・意味論を積極的に支持しました。特に、独墺学派の認識論・意味論は、当時においては最新かつ最有力の立場として、Stout は重要視していました。

これら二つをまとめて手短に述べ直すならば、Stout は独墺学派の認識論・意味論を支持し、それは最も確からしい見解であると見なしていました。


それでは次に、その独墺学派の典型的な立場・特徴とは何でしょうか。Nasim 論文に従うならば、そして現在の論点に関係する限りでは、簡単には差し当たり次の二つのテーゼにまとめることができると思われます。

    • (1) All objects have being. 「どんな対象もすべて存在する」 (全存在テーゼ)
    • (2) There can be no mediating factor between objects and us. 「対象と私たちを媒介するようなものはあり得ない」 (無媒介テーゼ)

前者の「どんな対象もすべて存在する」というのは、簡単に言うと、何かに言及するなり、何かを話題にするなり、何かを思考するなりできるということは、それが何であれ、言及されているもの、話題にされているもの、思考されているものがあるのだ、ということを述べているものと思われます。何かに言及するなり、何かを話題にするなり、何かを思考するなりしているのに、その何かがないとすると、何についても言及していないし、何についても話題にしていない、何も思考していないということになって、その際、何もしていないことになります。あるいは何をしているのかわからなくなります。したがって、どんなものでも言及するなり、話題にするなり、思考するなりできるものは、何であれ、存在するのだ、ということです。これが全存在テーゼの実質と思われます。但し、もちろんこれを正しい考えとするか否かは、今は別です。
後者の無媒介テーゼとは、世界の側にあるとされているものを私たちが考えるなり、認識するなり、言及するなりする際に、世界の側のものと私たちの間に何かが媒介されているということはない、と述べています。これは具体的には、Locke の idea や Kant の直観の形式、純粋悟性概念のようなものに媒介されて、私たちは何事かを考えたり認識したり述べたりすることはない、ということを主張しています。但し、もちろんここでもこの考えが正しいか否かは、今は別問題です。


さて、これらの (1), (2) は、独墺学派が主張しているものであるとともに、Stout も支持している見解でした。次に、Russell の Theory of Denoting を取り上げてみましょう。
ここでは便宜上、Russell の Theory of Denoting を二つの呼び方で表すことにします。一つは1903年刊行の The Principles of Mathematics に見られる Theory of Denoting で、これを‘Old Theory of Denoting’と言うことにします。そしてもう一つの呼び方は、1905年刊行の“On Denoting”に見られる Theory of Denoting で、こちらを‘New Theory of Denoting’と呼んでおくことにします。


Nasim 論文によると、Stout は Russell の Old Theory of Denoting にも New Theory of Denoting にも否定的でした。なぜ否定的だったのでしょうか。それは Old Theory of Denoting も New Theory of Denoting も、ともに上記の両テーゼに抵触するからです。


まず、Russell の Old Theory of Denoting ですが、この理論は(1)に賛同するものと思われます。よく知られているように、The Principles of Mathematics の Russell は Homeric Gods も chimera も存在するとしています。思考できるものは何であれ、存在するとしているのです。ですから、Russell の Old Theory of Denoting は(1)に同調するであろうと推測されます*1
しかし、Old Theory of Denoting では、(2)を全面的には支持しません。Old Theory of Denoting では、多くの場合、(2)に同意するのですが、一部例外を認め、(2)を破る事例を容認しています。そのような事例とは、denoting phrase を含んだ文を使用する場合です。Old Theory of Denoting の Russell によると、denoting phrase は、それが何か存在している対象についての表現であるならば、その対象は denoting concept を媒介して表示される(denote)としています。例えば‘Aristotle is a philosopher’では、‘Aristotle’は無媒介に Aristotle に関わっていますが、‘The teacher of Alexander the Great is a philosopher’では、‘The teacher of Alexander the Great’は denoting concept The teacher of Alexander the Great を媒介して Aristotle に関わっているということです。この場合、denoting concepts が世界と私たちとの間の媒介項の類いとなっています。
こうして Old Theory of Denoting の Russell では、(1)に同意するものと思われますが*2、(2)には全面的に同意する訳ではありません。端的に言うと、Old Theory of Denoting は、(1)には適うようでも、(2)には抵触するのです。
では、New Theory of Denoting はどうでしょうか。こちらの理論はというと、まず(2)には賛同します。やはりよく知られているように、New Theory of Denoting である Theory of Descriptions では、denoting phrases の denoting concepts は消し去られてしまいます。Denoting phrases は incomplete symbols だとして、真理関数や命題関数、変項などに、いわば解体・解消されてしまい、denoting concepts を想定しなくとも済むとされます。こうしてここでは媒介項としての denoting concepts は消し去られます。
一方、New Theory of Denoting では、(1)に全面的に同意する訳ではありません。これもよく知られているように、‘The present King of France is bald’の‘The present King of France’は、何ら存在している対象についてのものではありません。‘The present King of France’によって、the present King of France に言及しているのではありません。あるいは、the present King of France には言及できておらず、そもそも the present King of France は存在しません。したがって、いつでも(1)が成り立つ訳ではありません。端的に言うならば、New Theory of Denoting では、(2)には適っていても、(1)には抵触するのです。


以上をまとめるならば、Russell の Old Theory of Denoting は(1)には適うが、(2)には抵触し、New Theory of Denoting は(2)には適うが、(1)には抵触する、ということです。そしていずれにせよ、Russell の Old Theory of Denoting と New Theory of Denoting は、どちらも(1)と(2)の二つを同時に満足させることはない、ということです。


ここで Stout に戻りたいと思いますが、まずはこの項目の初めの方に述べたことを振り返っておきます。最初に押えておくべきこととして二つのこと(a), (b)を述べましたが、Stout は自分の考えが独墺学派の考えと似ていることを認め(a)、かつ独墺学派の考えを支持し、その考えが現在最も確からしいと思っていました(b)。このため、彼は独墺学派の(1), (2)を擁護する立場にありました。このことを念のために確認しておいて下さい。


さて、Nasim 論文によるならば、どうやら Stout は、Russell の Old Theory of Denoting と New Theory of Denoting が、独墺学派の上記の(1)と(2)を充分には満たさないものであることに気が付いていたようです。Russell の Old Theory of Denoting と New Theory of Denoting は、どちらも上記の(1)と(2)の一つだけを満たすのみで、(1)と(2)の両方を満たすことはないため、Stout と彼の見解によく似た独墺学派の立場からすれば(a)、不完全で不徹底な理論です。Stout はこの不完全性・不徹底性に気が付いていたようです。彼にとっては独墺学派の見解は当時最も有力で最も説得力あるものでしたから(b)、その説得力ある見解に照らして、Russell の Old Theory of Denoting と New Theory of Denoting は、欠陥を含んでいるものと Stout には見えたのかもしれません。この話を現在の状況に引き付けて述べてみると、次のようになるかもしれません。今では、そして今でも、Russell の Theory of Descriptions は有力かつ説得力ある見解だと思われていると考えられますが、この Theory of Descriptions に抵触するような主張を展開している論文が権威ある journal に投稿されて来た場合、その論文が New Theory of Direct Reference を擁護する論文でもない限り、編集長から「再考を求む。例えば Russell の Theory of Descriptions とよく対照されたし。」とのコメント付きで、差し戻されて来たとしても不思議ではありません。当時の Stout としては、このような気分で Russell に再考を促したかったのかもしれません。


以上の記述が大よそのところ正しいとするならば、なぜ Stout は Russell の“On Denoting”に否定的だったのかがわかります。Stout は“On Denoting”を受け取る以前から、Russell の Old Theory of Denoting については知っていました。彼はこの理論に否定的でした。そして New Theory of Denoting が表明されている“On Denoting”を手に取り、それを読んで検討した後でも、やはり Russell の理論は歓迎する気にはなれなかったようです。そこで Stout は Russell に再考を促しました。しかし、Russell は自分の理論に自信がありましたので、Stout の忠告を拒否しました。そのために“On Denoting”は、恐らくほとんど本質は修正されることなく発表されたものと思われます。
Stout は Stout なりの考えがあって、“On Denoting”の書き直しを要求しました。今では“On Denoting”が天下を取りましたが、Stout としても、その場の思い付きからではなく、当時の最新・最有力の理論と、自らの信念に基づいて、“On Denoting”の書き直しを求めたのだろうと思われます。


最後に。上述の話はそれこそ‘Why Did Stout Require Russell to Rewrite His Paper “On Denoting”?’という疑問に答えたものです。いわば Stout の気持ちとしてはどうだったのか、という疑問に答えるものとなっています。しかし、単に Stout 個人の気持ちに限った話としてではなく、より広い文脈の中で上記の話を捉え直すことが必要でしょう*3。それは例えば上述の話を通して、なぜ Russell は Stout の反論に対し自信を持っていたのか、その自信は Russell の New Theory of Denoting のどのような強みから発するものだったのだろうか、Russell の新理論は Stout らの独墺学派のいかなる理論的側面を切り崩すものだったのだろうか、イギリスにおける独墺学派の勢いはその後どうなったのだろうか、Russell の中の独墺学派的側面は何であり、それが新理論を通じてどのように変化したのだろうか、そして Stout は今回の Russell との書簡を通しての論争の過程で何を取り何を捨てたのだろうか、そして現在から見て両人の主張から私たちは哲学的教訓として何を得ることができるであろうか、などの疑問を検討することが枢要でしょう。もちろんこれ以外の重要な疑問というものが多数残されているものと思われます。このように、上述の話は個人的エピソードにとどめるのではなく、広範な背景の中で考え直してみることが必要であろうと思われます。


PS
上記の話は、単なる図式的な解説です。また単に二次文献をまとめ直しただけのものです。ですから、細部はまったく不正確で、不充分です。今後理解を深めるための、当座のたたき台として略述されているに過ぎません。決して正確かつ完全なものと思わないようにお願い致します。そのように思われる方はいらっしゃらないでしょうが。
また、さまざまな誤解や無理解、誤字・脱字等があるものと思います。前もってお詫び申し上げます。

*1:ここでは「(1)に賛同するものと思われます」とか「(1)に同調するであろうと推測されます」と述べ、「(1)に賛同する」、「(1)に同調する」とは、断言しておりません。と言うのも、もしかするとこの(1)に対し Old Theory of Denoting はいつでも同意するとは限らないと思われるからです。少なくとも Old Theory of Denoting と New Theory of Denoting の中間段階で、というよりも、New Theory of Denoting の直前の段階で、Russell は何ものをも denote していない denoting phrase があることを認めています。そこでは denoting concept はあっても denoted object はありません。Cf., B. Russell, “The Existential Import of Propositions,” in his Essays in Analysis, Douglas Lackey ed., George Allen & Unwin, 1973, p. 100, this article was originally published in Mind in July 1905. このような訳で、断定は避けています。

*2:この点については、すぐ前の註を参照のこと。

*3:言うまでもないことですが、最優先には Nasim 論文の主張がそもそも正しいものなのかどうかの検証が、何よりも必要です。すべてのことはその後です。