補遺 2: Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで充分で、単文の Bedeutung が真理値であることを立証することは不要か?*1

日記項目 ''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? More Precisely, What Problem Is a Great Part of his Most Famous Paper Devoted to?'' において、Frege の論文 "Über Sinn und Bedeutung" で、主として論じられていることは、いわゆる単称名/固有名の Bedeutung についてではなく、文の Bedeutung が真理値であることだ、と述べました*1。この Frege の論文で彼は、まず、単文の Bedeutung が真理値であることを彼なりに確認し、続いて複合文の Bedeutung も真理値であることを彼なりに確認していました*2。今言及した私の日記項目を書く際に、諸先生方は Frege の Bedeutung について、どのように論じておられるのかを確認のため、いくつか私は見てみました。そのうちの一つが以下の文献です。

この本の「第2章 フレーゲ的意味論の基礎」における section 「2.3.2 イミ Bedeutung と実在」*3で、飯田先生は、Frege にとって、文の Bedeutung は真理値である、ということを論証されています。

実は今までにもこの section は何度か拝読させていただいていたのですが、今回改めて読み直してみて、大変驚いたことがありました。これまでは気が付かなかったことなのですが、Frege にとって、文の Bedeutung は真理値であるという飯田先生の論証に、重大な不備があると感じられるようになりました。今まではその section にそのような不備があるとは思っていなかったのですが、先日読み返していると、論証に重要な step が抜けていることに気が付きました。先生にも知らないうちにその step が抜けてしまっているのか、それとも、先生はその step を明示することは、重要ではないとお考えになって意図的に省かれたのか、あるいはそもそもその論証にそのような step は不要であると考えて、その step が書き込まれていないのか、はっきりしたことは私にはわかりません。しかしいずれにせよ、その step は私には明示する必要があると感じられます。それにやっかいなことに、そのような step が抜けているのに、あたかも抜けていないかのように先生の論証が読めてしまうので、step の脱落に気が付きにくいところが問題です。現に私自身今までその脱落に全く気が付きませんでした。先生のご説明はいつもとても見事なので、今回の論証部分も全く正しいものだとばかり思って拝読しておりました。しかし私には必要不可欠な step が抜けていると思われます。そのことを以下にごく簡単に記します。私が先に記しました日記の項目 ''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? …'' をお読みの方は、以下の私の説明がごく簡単なものであってもその内容を容易に理解していただけると思いますので、下記の私の説明はごくごく手短なものとさせてもらいます*4。前もって明示しておきますと、私が先生の論証で不備と感じられることは、(1) Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで、単文の Bedeutung が真理値であることを立証されていないことと、(2) 文の Bedeutung が、他でもない真理値であるということの論証が、全くとは言わないまでも、ほとんど欠如している、ということです。

なお、言うまでもありませんが、私の見解は、間違っている可能性があります。私の方が間違っていて、飯田先生の方が正しいという可能性があります。飯田先生の方がはるかにはるかに秀でておられるのは衆人の認めるところであり、先生の方が正しい可能性は圧倒的に高く、私の方が正しい可能性は圧倒的に少ないです。ですから下記の説明を真に受けないで下さい。そのような方はいらっしゃらないと思いますが、念のため、注意しておきます。必ず先生の 「2.3.2 イミ Bedeutung と実在」をお読みになり、私の説明と見比べてから、判断して下さい。きっと私の説明の方にこそ、誤りがあります。どこに誤りがあるのか、確認してみて下さい。ですので、あらかじめここでその誤りに対し、お詫び申し上げます。どうかお許し下さい。飯田先生にもお詫び致します。


(1) Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで、単文の Bedeutung が真理値であることを立証されていないことについて

さて、Frege にとって、文の Bedeutung は真理値であったという飯田先生の論証に、抜け落ちていると思われる重要な step とは、単文の Bedeutung が真理値であるということを立証する step の部分です。飯田先生の 「2.3.2 イミ Bedeutung と実在」*5のところをゆっくり読まれればわかると思うのですが、ここでは単文の Bedeutung が真理値であるということが全く論証されていません。先生はそこで複合文の Bedeutung が真理値であることは論証されています。また、単文を構成する単称名の Bedeutung が Frege にとって実在する (実在した) 指示対象であったということは論証されています。しかし、複合文の level と、単文構成部分の level のちょうど中間にある、単文自身の Bedeutung が何であるかの論証がありません。困ったことに、先生は複合文の Bedeutung が真理値であると、具体例を使って示された後、ただちに単文の Bedeutung が真理値であると述べておられるような書き方をされておられます。「単文の Bedeutung も真理値である」ではなく、「単文の Bedeutung が真理値である」というような書き方になっていると思います。つまり、複合文の Bedeutung が真理値であるとお記しになられた後、それで単文の Bedeutung が真理値であることの証明になっているとお考えになられているような記述になっていると思います。複合文の Bedeutung が真理値であるという話が、いつの間にか単文の Bedeutung が真理値であるという話に切り替わっているのです。109ページの最後から5行目で、複合文の Bedeutung が真理値であるという論証が終わり、それがそこまでで単文の Bedeutung が真理値であるという話となってしまっており、109ページの最後から4行目以降は、単文の Bedeutung が真理値であるということは、立証済みであるかのごとく話が進んでしまっています。110ページ以降は、単文の Bedeutung が真理値であるということが、根拠なく完全に前提されたまま、話が進んでしまっています。

もう少し具体的に言いますと、107ページの後半から、Frege にとって文の Bedeutung が真理値であったことが、先生によって論証され始めます。107ページ終りから8行目辺りから始まっているものと思います。そしてこの初めから、文は文でも複合文が念頭に置かれていることが、そのページの終わりから4行目の「複合的な文」という表現によってわかります。この後ずっと複合文の Bedeutung が真理値であることが、複合文の具体例を使った論証によって展開されて行きます。この論証の渦中で、先生はいわゆる Bedeutung の合成原理を掲示されています。次がそれです。

    • (合成B) 文のイミは、それを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。

この原理において最初に現われる「文」という表現は、先生の論証の流れから言って、複合文のことです。つまり正確には次のように記されねばなりません。

    • (合成B') 複合文のイミは、それを構成する単文のイミと複合文の構造によって決定される。

しかし、この (合成B') のように Bedeutung の合成原理が先生の論証中で正確に記されていないため、私自身も (合成B) の「文」や「部分表現」が何であるか、不明確なまま、先生の論証を読み続けることになり、(合成B) の「文」を厳密には論証の流れから言って「複合文」と捉えなければならないのに、不明瞭なために自分でも気が付かないうちにその「文」を「単文」と勝手に読み替えて、先生の論証が完成しているかのような錯覚に陥っていました。先生ご自身も、本当は (合成B')でなければいけないところを、不明瞭な (合成B) で表記してしまっているがために、110ページでこの (合成B) を次のように注意を一切与えずに読み替えられています。

    • (合成B'') 単文のイミは、それを構成する部分表現 ( = 単称名) のイミと単文の構造によって決定される。

この (合成B'') の方を利用して、単文を構成する単称名の Bedeutung が Frege にとって実在する (実在した) 指示対象であったということが論証されています。その論証とは110ページの終わりから5行目の「イミについての合成原理が、」という表現以下の部分です。
また、109ページまでは複合文の Bedeutung が真理値であるという話であったのに、110ページ以降は、いつの間にか単文の Bedeutung は真理値であるという話に変わってしまっていることは、そのページに現われる「文のイミ (= 真理値)*6」、「文のイミ、すなわち真理値」という表現の「文」がすべて断りなく知らない間に全部単文のことに切り替わっていることからもわかります。110ページには、「文のイミ (= 真理値)」が一回、「文のイミ、すなわち真理値」が二回、あらわれていますが、それらはすべて論証の流れからそれらの「文」とは「単文」であると考えられます。特に二回の「文のイミ、すなわち真理値」は、そこでの論証が完全に単文に関するものであることと、そこで先生ご自身によって挙げられている例文が単文である「アリストテレスはおしゃれだった」、「『ニコマコス倫理学』の著者はおしゃれだった」ことから、110ページ以降で念頭に置かれているのは、単文である、いつの間にか単文になっている、ということがわかります。

私はしばらく前に「先生は複合文の Bedeutung が真理値であると、具体例を使って示され」ていると記しました*7。この点について補足しておきますと、先生は先ほどから私たちが言及している section で、複合文の例として、「AかつB」と「∀xF(x)」を取り上げて、前者の「AかつB」は「A」と「B」の真理値から、その真理値が決まってくること、後者の「∀xF(x)」は「F(a)」や「F(b)」などの真理値から、その真理値が決まってくることを、ご説明されています*8。しかし前からも述べているように、単文 (と推測される) 「A」、「B」や、単文「F(a)」、「F(b)」などの Bedeutung がなぜそもそも真理値なのかの論証が欠けています。また、単文「アリストテレスはおしゃれだった」の部分表現「アリストテレス」の Bedeutung が、Frege にとって、アリストテレス本人であったことの説明はなされています*9。しかし単文「アリストテレスはおしゃれだった」自身の Bedeutung がなぜそもそも真理値なのかの論証が欠けているのです。


(2) 文の Bedeutung が、他でもない真理値であるということの論証が、全くとは言わないまでも、ほとんど欠如している、ということについて

確かに、先生のご説明にあるように、Frege にとって、論証のメカニズムの解明が最重要事項であったのであり、したがって、複合文と単文を含む文一般が、論証中に置かれている際に示してみせる文の Bedeutung の特徴を抽出してやることが、Frege の何よりの課題であった訳で、それはきちんと先生のご説明に明記されています*10。しかし、複合文と単文の Bedeutung が兼ね備えねばならない特徴とは何であり、それが真理値でなければならない必然性はどこあるのか、ということの説明が必要だと思います。先生のご説明では、複合文の Bedeutung が真理値である理由は述べられています*11。しかし単文の Bedeutung が真理値である理由は述べれらていません。しかも、複合文の Bedeutung が真理値である資格を満たしていることと*12、それがそうである「自然な」理由とされているものは述べられていますが*13、複合文の Bedeutung の候補として、真理値がその資格を満たしているということを示しているだけで、かつ複合文の Bedeutung が真理値である「必然的な」理由は何も記されていません。先生のご説明はいつも本当に見事なので、複合文と単文を含む文一般の Bedeutung が真理値で「なければならず」、それ以外に「あり得ない」かのような印象を、私は今まで抱いていたのですが、先生のご説明では Bedeutung が真理値としての資格条件を満たしていると述べられているだけで、そうでなければならない必然性は何も示されていないと思います。真理値が、複合文の Bedeutung である資格を十分備えており、複合文の Bedeutung として、真理値を選択することが自然であるとする先生による理由を、念のために引用します。

複合的な文の真理値を決定するものは、その文の構成要素である文の真理値であり、それ以外の特徴を考慮する必要はない。つまり、真理値は、イミについての合成原理 (合成B) を満足するものとして、文のイミと見なされるべき十分な資格をもっている。それだけではない。言語の理論は、その言語においてどのような推論が妥当であるかの特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択することは、もっとも自然な選択であると言える。*14

ここでは真理値が、その文の Bedeutung と見なされるべき十分な資格を持っていると言われています。しかし、あるもの α があるもの β である資格があれば、α は β になるのでしょうか。太郎が東京大学の入学試験に合格し、東大生になる資格を得れば、太郎は東大生でしょうか。彼は東大を蹴って Harvard に進むかもしれません。また、真理値がその文の Bedeutung と見なされるべき十分な資格を持っていたとしても、真理値だけがその資格を有するのでしょうか。真理値しかその資格を有さないのでしょうか。真理値しかその資格を有さないという証明は、先生のご説明ではなされていません。

加えて、真理値を選択することが、最も自然な選択であると言われています。しかし、一般的に言って、その選択が自然であるか否かは人に依ります。あるいは立場に依ります。論理学の授業の初期の段階で、真理値について教えられている私たちにとっては、真理値というものが、正確に言って何であるのか、その詳細はわかっていないとしても、とりあえずなじみ深いものとして親しんでいます。そのため、真理値に基付いて推論の妥当性を説明することは、私たちにとっては、何も奇妙なところはありません。しかしもしかすると、19世紀の中頃以前の人々にとっては、真理値によるその説明は奇異で不自然に感じられたかもしれません。というのも、現代的な真理値の観念 (notion) が現れるのは Peirce, Frege 辺りからだと思われるからです*15

飯田先生は文の Bedeutung が真理値であるとし、真理値以外の可能性に論及されていませんが、文の Bedeutung の候補として、実際に真理値以外のものが挙げられる場合があります。例えば、真理値の代わりに facts が挙げられることがあります*16。Facts も真理値と同じく文の Bedeutung としての資格を有するという訳です。実際、Frege は "Über Sinn und Bedeutung" において、文の真理値とは真であったり偽であったりする Umstand のことだと明言しています*17。Frege の時代のものではなく最近の辞典ではありますが、Oxford-Duden を引くと、'Umstand' とは 'circumstance', 'fact' と出てきます。つまり、Frege 自身が真理値を facts のこととして捉え返してよいと述べているのです。したがって、文献上も文の Bedeutung を facts と見なして構わないということになります*18。はたして文の Bedeutung としては、真理値がふさわしいのか、facts がふさわしいのか、重々検討して見なければ確たることは言えませんが、文の Bedeutung としては初めから真理値のみがふさわしいと決まっている訳ではなく、そこには検討の余地があるということです。

そしてそのことを詳細に検討する手立てとなるのが、有名な Slingshot Argument です (以下 'Slingshot' と略記)。Slingshot は一般に、文が表している事実 (facts)、事態 (states of affairs)、状況 (circumstances, situations)、出来事 (events) なるものが存在すると主張する人々に対し、脅威をもたらす論証として盛んに検討されていますが、それは、知られているように、文の Bedeutung は真理値であるとする Frege の論証に元々由来します*19。つまり、Slingshot は Frege によって文の Bedeutung は真理値なのだとする論証を、より精緻化、明確化し、形式的に定式化したものと見なすことができます*20。そうすると Slingshot がもしも妥当だとするならば、Frege による文の Bedeutung は真理値だとする主張の正しさが裏付けられることになると思われます。しかしもしその Slingshot を block できたならば、 Frege による文の Bedeutung は真理値だとする主張は、完全な間違いだとは言えないまでも、その主張に大いなる疑問を付すことは可能となるでしょう。完全な間違いだとは言えないというのは、Slingshot が妥当であることは、文の Bedeutung が真理値であることに対する十分条件ではあっても必要条件ではないでしょうからです。Slingshot 以外の論証で、文の Bedeutung が真理値であることを立証できる論証が他にあるかもしれません。

そうするとなされるべきは、改めて Slingshot を定式化し、複数ある定式化のうち最も有望と思われるものを選定し、Frege による文の Bedeutung が真理値であることの論証にどれだけその Slingshot が忠実かを check した後、check を pass した Slingshot で実際にその Slingshot を block できるかを検証してみる必要があります。とはいえ、Frege による文の Bedetung は真理値であるとする論証に忠実な Slingshot とは何であり、かつその Slingshot を block できるのか否か、ということの検討は今はおくとして、文の Bedeutung を真理値とせず、facts なり states of affairs なり situations なりとすることによって、自然言語のいみにまつわる現象を、詳細かつ体系的に説明してみせようとする試みが、既に前々から行われています。Situation semantics です。この semantics を立ち上げるに当り、J. Barwise さんと J. Perry さんは Slingshot を block する方法を考えるとともに、実際に Slingshot を block できるのだから、文の Bedeutung を situations としてよいとし、よってもって人々が生み出す言語現象の解明を試みました*21。この semantics においては situations が文の Bedeutung として「十分な資格をもって」おり、しかも文の Bedeutung として真理値という奇異なものを持ち出さず、代わりに常識や直観に見合った situations なるものを当てるという「もっとも自然な選択」を採用しています。

このような situation semantics という、文の Bedeutng として真理値ではなく、situations というものを採る意味論が真剣に探求されているところから、文の Bedeutung を真理値とする通念は、初めからそのまま鵜呑みにするのではなく、少なくとも批判的に検討し直す余地を有していると思われます。


(1) の続き

翻ってみて、Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで充分で、単文の Bedeutung が真理値であることを立証することは不必要でしょうか。私の理解では、不要ではなく必要なことではないかと思います。だからこそ、Frege は "Über Sinn und Bedeutung" において、単文の Bedeutung が真理値であることを、彼自身、立証ないしは説明していたのだと思います*22。私の理解では、単文の Bedeutung が真理値であることの立証とは、数学的帰納法における basis clause の step を証明することに当たるのではないかと思います。単文の Bedeutung が真理値であると証明できてこそ、それら単文から構成される複合文「AかつB」などの Bedeutung もやはり真理値であると証明できるのではないでしょうか。単文の Bedeutung が真理値であると証明できてこそ、いわば潜在的にそれら単文から段階的に構成されていると考えられる量化文「∀xF(x)」などの Bedeutung もやはり真理値であると証明できるのではないでしょうか。Basis clause に相当する、単文の Bedeutung が真理値であることを証明できていなければ、数学的帰納法の結論部分に相当する、任意の文の Bedeutung が真理値であることの証明へと至ることはできないのではないでしょうか。飯田先生の話では、初めの一歩が踏み出されていないと思います。ドミノ倒しの最初の一駒が、倒されていないと思います。これだと証明は全く完了しません。証明が全く始まっていません。Frege において、文の Bedeutung は真理値であるという飯田先生の論証における重要な step の欠落とは、数学的帰納法における、この最初の一歩の basis clause の証明が脱落してしまっているということにあるということです。


以上で終わります。
上述の私の話は間違っているかもしれません。私が拝読した飯田先生の文献箇所、私が参考にした諸文献、これらの情報を上に記しておきましたので、それらを読まれてから、私の話が間違っているのかどうか判断して下さい。私の話を決してそのまま受け取らないで下さい。間違っている可能性が非常に高いので、ここで前もってお詫びしておきます。大変申し訳ございません。

*1:''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? …'' は、まだ日記に up しておりません。

*2:ここで私が言っている単文の例としては、例えば「Plato はギリシャ人である。」などがあります。複合文の例としては命題結合子によって繋げられた文や量化文があります。例えば「Plato はギリシャ人である。かつ、Aristotle はマケドニア人である。」や「すべての人間は動物である。」などです。

*3:飯田、106-111ページ。

*4:繰り返しますが、''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? …'' は、まだ日記に up しておりません。

*5:飯田、106-111ページ。

*6:この '( )' は飯田先生によるものです。

*7:節「(1) Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで、単文の Bedeutung が真理値であることを立証されていないことについて」が始まって少ししたところです。

*8:飯田、108-109ページ。

*9:飯田、110-111ページ。

*10:飯田、109ページ。

*11:飯田、109ページ。

*12:飯田、109ページ。

*13:飯田、109ページ。

*14:飯田、109ページ。

*15:次の文献を見ると、truth-value が現れたのは、1882年の Peirce, 1891年の Frege 辺りからのようです。Alonzo Church, Introduction to Mathematical Logic, revised and enlarged edition, Princeton University Press, Princeton Landmarks in Mathematics Series, 1956/1996, p. 25, n. 67.

*16:簡単には、Michael Morris, An Introduction to the Philosophy of Language, Cambridge University Press, Cambridge Introductions to Philosophy Series, 2007, p. 32.

*17:Gottlob Frege, ''Über Sinn und Bedeutung,'' in: Kleine Schriften, Zweite Auflage, Herausgegeben und mit Nachbemerkungen zur Neuauflage versehen von Ignacio Angelelli, Georg Olms, 1990, S. 149. 邦訳、「意義と意味について」、土屋俊訳、黒田亘、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、80ページ。

*18:もっとも、真理値を circumstance, fact することが、Frege の本意であったのかについては、疑問が残ります。真理値を circumstance, fact とすると、Frege が望まなかったであろう事柄がすぐに帰結するからです。次の二つの文 'The rose is red,' 'The sky is blue' は、どちらも真です。真理値が真であったり偽であったりする状況 (Umstand) ならば、前者の文はバラが赤いという状況を表し、後者の文は空は青いという状況を表しているでしょう。そして一方の状況はバラに関することであり、他方の状況は空に関することなので、それぞれの状況は別々の互いに異なる状況であると私たちは考えるでしょう。しかし Frege は文の真理値について、以下のようなよく知られた見解を "Über Sinn und Bedeutung" の中で主張していました。「文の真理値がその意味であるならば、一方ではすべての真なる文は同一の意味をもち、他方ではすべての偽なる文も同一の意味をもつことになる。このことから、文の意味においてはすべての個別的なものが消え去ることがわかる。」(''Über Sinn und Bedeutung,'' S. 150. 邦訳、82ページ。) 先ほど、真理値を状況と解するならば、真なる状況には色々とあることを確認しました。しかし今引用した Frege の見解では、真理値が状況であるならば、状況には真である状況と偽である状況のただ二つしかないということになります。真である状況に関し、互いに異なる複数の状況があるように見えたとしても、それらは全部同じただ一つの状況だ、というのです。これは整合的とは言えません。したがって、真理値を Umstand と見なす Frege の記述は、彼の slip, 勇み足と見るのがよいのかもしれません。今説明した不整合性については次を参照して下さい。Joseph Salerno, On Frege, Wadsworth/Thomson Learning, Wadsworth Philosophers Series, 2001, p. 70.

*19:See Alonzo Church, ''Carnap's Introduction to Semantics,'' in: The Philosophical Review, vol. 52, no. 3, 1943, pp. 299-301. この書評とともに、Church, Introduction to Mathematical Logic, pp. 24-25 においても Slingshot は現れていますが、前者の書評では Church さんは自身の Slingshot が Frege の "Über Sinn und Bedeutung" に由来すると明言しているのに対し、後者の文献ではそこに現われている Slingshot が Frege に由来するとは、厳密に言うと、明示されていません。

*20:実際に Church, ''Carnap's …, '' p. 301 におけるChurch さん自身がそう見なしています。また Frege 自身がその Slingshot の妥当性をも認めるはずだと主張する人々もいます。See Kenneth Russell Olson, An Essay on Facts, Center for the Study of Language and Information, CSLI Lecture Notes, 1987, p. 76, Marco Ruffino, ''Church's and Gödel's Slingshot Arguments,'' in: Abstracta, vol. 1, no, 1, 2004, p. 24.

*21:Jon Barwise and John Perry, ''Semantic Innocence and Uncompromising Situations,'' in: Midwest Studies in Philosophy, Special Issue: The Foundations of Analytic Philosophy, vol. 6, 1981, John Perry, ''Evading the Slingshot,'' in Andy Clark, Jesús Ezquerro, and Jesús M. Larrazabal ed., Philosophy and Cognitive Science: Categories, Consciousness, and Reasoning: Proceedings of the Second International Colloquium on Cognitive Science, Kluwer Academic Publishers, Philosophical Studies Series, vol. 69, 1996. Slingshot を本当に block できているのかどうかは、よくよく検討して見なければなりません。また、situation semantics でどの程度、自然言語に関する現象を説明できるのか、この点も重々確認してみる必要があります。

*22:"Über Sinn und Bedeutung," SS. 148-150. 邦訳、78-82ページ。