How Did the Production Processes of the Vienna Circle Manifesto Look Like?

さて、さっそくですが、The Scientific Conception of the World: The Vienna Circle (1929) は、誰がどのような手順で書いたのでしょうか? 分析哲学の歴史にいくらかでも興味を持っている方ならば、今までにこのような疑問を抱いたことがあろうかと思います。私も少し疑問に思っておりました。


例えば影響力のある次の和書では、

上記の疑問に関し、註の中で以下のように記されています*1

このパンフレットの執筆者が誰であるのかを確定することは、むずかしい問題らしい。ノイラート、カルナップ、ハーンの三人の署名があるが、執筆の過程を実際に見守ることができたというメンガーの証言 ([Karl Menger, ''Introduction'' to H.Hahn, Empiricism, Logic, and Mathematics. (Vienna Circle Collection 13) 1980, D.Reidel,] p.xiv) によれば、それは、主としてノイラートによって書かれ、カルナップもそれにある程度参与し、最終稿がハーンに渡されたのであり、ハーンは実際の執筆には関与していないという。(勝手な推測だが、多分、ノイラートは、政治的パンフレットを書くのに慣れていたのだろう。) したがって、これが正しければ、このパンフレットの英訳が、現在、ノイラートの選集 (O.Neurath, Empiricism and Sociology. pp.299-318.) に収められているのは、もっともであると思われる。しかし、他方、最近の調査では、ノイラートが起草したものをカルナップが拒否し、結局、カルナップが中心となって事を運んだと言う (R.Haller, ''Was Wittgenstein a neopositivist?'' in S.Shanker (ed.), Ludwig Wittgenstein: Critical Assessments. Vol.I. 1986, Croom Helm. p.267)。

ここでは、主として Neurath が書いて、Carnap はそれに加わりつつ Neurath に従った (K. Menger)、あるいは、最初に Neurath が書いたが、それを Carnap が拒否し、結局、主として Carnap が書いた (Haller)、と報告されています。これをより簡略化して言うと、Neurath が主、Carnap が従 (K. Menger)、あるいは Carnap が主で、Neurath が従 (Haller) であった、ということのようです。つまり、Menger の証言では Neurath が主、Carnap が従、Haller の見解では、その逆の Carnap が主で、Neurath が従、ということになります。


また、the Vienna Circle の説明に関して影響力のある次の洋書では、

  • Friedrich Stadler  The Vienna Circle: Studies in the Origins, Development, and Influence of Logical Empiricism, Springer, Veröffentlichungen des Instituts Wiener Kreis, 2001

以下のように述べられています*2

The manifesto Wissenschaftliche Weltauffassung. Der Wiener Kreis (The Scientific Conception of the World: The Vienna Circle) (1929), published one month before the meeting [i.e., the first conference on the Epistemology of the Exact Sciences in Prague on September 15-17, 1929], was - though signed jointly by Carnap, Hahn, and Neurath - probably first written by Neurath and then revised by Carnap.10 Neurath coined the term Vienna Circle (Frank 1949[sic]*3 [Modern Science and its Philosophy], 38) and probably also ''scientific world conception,'' while the other members and adherents were asked for comments and contributions (The Scientific Conception of the World: The Vienna Circle, in Neurath 1973 [Empiricism and Sociology], 318). The term ''world conception'' was chosen in place of the term ''world view,'' which was rejected because of its metaphysical connotations and its role in the separatist conception of the Geisteswissenschaften held by Dilthey and Windelband. The new term was to indicate the movement's alternative philosophical and scientific orientation (Neurath 1930-31 [''Wege der wissenschaftlichen Weltauffassung''], in Neurath 1983[sic]*4 [Gesammelte philosophische und methodologische Schriften, Band I], 33).
10 According to a reconstruction based on the diaries of Rudolf Carnap.

ここでは、最初に Neurath が書いて、それを Carnap が書き直した、と記されています。簡略化して言うと、Neurath が主、Carnap が従、ということになるでしょうか?


さて、先日、私は以下の論文を拝読致しました。

  • Thomas Uebel  ''Writing a Revolution: On the Production and Early Reception of the Vienna Circle's Manifesto,'' in: Perspectives on Science, vol. 16, no. 1, 2008

この論文では、その副題にある通り、問題の manifesto の production process, production history が、おそらく今までにはないほど詳細に解明されています。この論文ではこれ以外にも、色々と論じられていることがありましたが、ここでは多くの方々が関心を少しはお持ちであろうと思われる、問題の manifesto の production process を、この論文を通して報告してみたいと思います*5


まず、問題となる manifesto / 小冊子の production process を記す前に、この小冊子が作られた背景を、極めて簡単に述べておきますと、この小冊子とともに the Vienna Circle が誕生したと考えられていますが、この学団の前身は、Verein Ernst Mach (Ernst Mach 協会) です。ここの中心的人物は、Moritz Schlick (1882-1936) でした。問題の小冊子は、この Schlick に感謝の意を表すため、および問題の学団を世に appeal するために作られました。また、この学団と、Berlin の Society for Empirical Philosophy との共催で、the First Meeting on the Epistemology of the Exact Sciences という学会が、1929年9月15-17日に Prague で開催されましたが、問題の小冊子はこの学会に合わせて作られました。そしてこの学会の場で、恐らく初めて小冊子は配られたようです*6


それでは本論に入りたいと思いますが、Uebel 論文では、小冊子の production process が、Carnap の日記と書簡の詳細な分析に基付いて明らかにされています。このようなことを行ったのは Uebel さんが最初だという訳ではありませんが*7、多分ですが、今までにないほど日記を詳しく分析し、それを問題の小冊子の production process の解明に利用しています。この process が解明されているのは、Uebel 論文の '2. The Role of Schlick's Offer from Bonn' と '3. The Authorship of the Brochure' ですので、この二つの section に、以下では注目します。そしてありがたいことに、'3. The Authorship of the Brochure' の末尾で、問題の process が表にしてまとめられていますので、まずはこの表を掲げて、最初に軽く全体を俯瞰してみましょう。次がその表の原文と*8、私の試訳です。

1. The inception of the idea by Carnap with likely early input by Waismann;
2. Carnap’s and Feigl’s first efforts;
3. Neurath’s first draft;
4. Carnap’s and Feigl’s second go (partly dictated by Feigl);
5. Neurath’s second draft (dictated to Carnap);
6. Carnap’s editing together of what had been produced so far;
7. the incorporation by Carnap of final comments by Hahn, Feigl, Frank and Neurath;
8. corrections in proof by Carnap, Feigl and Neurath;
9. last checks and joint imprimatur by Carnap and Neurath.


1. Carnap が小冊子を作る案を最初に出し、Waismann が初期の段階で advice を与えた可能性がある。
2. Carnap と Feigl による最初の [原稿作成の] 試み
3. Neurath の最初の原稿
4. Carnap と Feigl による二度目の試み。(部分的に Feigl が口述。)
5. Neurath の二つ目の原稿。(口述して Carnap に書き取らせる。)
6. 今までに得られた原稿を Carnap が一つにまとめて編集する。
7. Hahn, Feigl, Frank, Neurath による最終的な comment を Carnap が原稿に盛り込む。
8. Carnap, Feigl, Neurath が校正に修正を入れる。
9. Carnap と Neurath が最後の check をし、一緒になって印刷許可の判断を下す。

大体の流れとしては、まず、Carnap が小冊子の案を思い付き、彼と Feigl が原稿を書きます。次に、Neurath が出てきて、自身の原稿を提示します。これを受けて Carnap と Feigl が第二の原稿を書きます。そしてさらに Neurath は自身の第二の原稿を提示します。この後、Carnap は出揃った原稿をまとめます。そして Frank, Neurath らに修正案の提示を依頼してその案を原稿に盛り込み、Carnap, Feigl, Neurath が校正を行って、最後にCarnap と Neurath が最終 check をしたうえで両者合意のもと、印刷所に原稿を回した、ということのようです。


このような流れを Uebel 先生は、先ほども申しました通り、Carnap の日記と書簡から、あぶり出しています。そこで以下では、この Carnap の日記の本文と書簡の内容を (そして場合によっては、一部、他の人の文献を)、Uebel 論文から抽出し、時間順に並べて確かめてみましょう。下に並べた各項目の頭には、'1.', '2.' などの数字を付けています。例えば '1.' は、上の表の 1. である第一番目の段階に当たると私が考えて付けました。どの数字を付けるべきか微妙で、判断に迷う場合もありましたので、おおよその目安とお考えください。そしてその数字の下に、Carnap の日記または書簡の内容を記しています。Uebel 論文の英訳から私が日本語に訳して記しています。訳出に疑問を感じた場合には、Uebel 論文にドイツ語 original も脚註として掲載されていましたので、そのドイツ語も参考にしました。そして訳文の後に註として私が補足事項を付け加えています。ただし、よく知られた人名については、一々補足はしませんでした。例えば、'Neurath' とあっても、この際補足は不要だと考えられます。それでは、Carnap の日記などを並べてみましょう。


1.
1929年*9
5月27日(月) 76*10
10:30, 大学で Schlick に会った。彼は Vienna に残る! … そして今晩 America に発つ。Waismann と昼食。小冊子「Wien 哲学学派の指導的思想 [Leitgedanken der Wiener philosophischen Schule]」を作る私の案を彼に話す。*11


2.
6月17日(月) 76-77, 80
3 pm lecture. その後、Feigl と Neurath 夫人のもとへ。… 後で Neurath が我々に加わる。Prague の学会と計画されている小冊子について。
彼 [Neurath] は我々 [Carnap and Feigl] に対し、そんなに浮世離れした [weltfremd] ものにすべきでないと主張する。*12


3.
6月20日(木) 80
3 pm lecture. その後、Neurath 夫妻のもとへ、Feigl と行く。小冊子に対する Neurath の原稿。*13


3.
6月22日(土) 80-81
[…] Neurath と彼の事務室 (Büro) へ、Feigl も。小冊子に対する彼 [Neurath] の新たな原稿。


4.
6月23日(日) 81
午後にここで Feigl と。小冊子「Wien 学派」について。


4.
6月24日(月) 81
3 pm lecture. Neurath 夫妻のもとへ、Feigl も。小冊子「Wien 学派」について議論した。


4.
6月27日(木) 81
3 pm lecture. Wien 学派についての小冊子に対し、Feigl と新たな原稿案。*14


4.
6月29日(土) 81
午後と晩に、ここで Feigl と Kaspar. 一緒に小冊子の作業。*15


4.
6月30日(日) 81
午後と晩に、Feigl, Kaspar と小冊子の作業。Feigl の口述を、速記で書き留める。11:30まで。*16


5.
7月1日(月) 81
Hahn と昼食の場で Zilsel と小冊子について話す。3 pm lecture. Neurath 夫妻のもとへ、Feigl, Kaspar と。… Feigl と Kaspar が帰った後、Neurath が小冊子について口述し、私に書き取らせる。*17


5.
7月3日(水) 81
午後に Neurath のもとへ。彼は Wien 学団についての小冊子の口述を続ける。


5.
7月4日(水) 82
午後7時に Hahn のところで。彼と Neurath と小冊子について。*18


6.
7月18日(木) 82
午後2時間小冊子の作業。*19

6.
7月19日(金) 82
午後5:30, Neurath のもとへ。Hahn もそこにいる。私は小冊子を読み上げる。*20


6.
7月21日(日) 82
とても暑い。懸命に小冊子の作業。Frau Mauerhofer が昼食を持って来てくれる。*21


6.
7月22日(月) 82
同上。


6.
7月23日(火) 82
同上。


6.
7月24日(水) 82
同上。


6.
7月25日(木) 82-83
同上。小冊子を type し終えた。晩遅くに雷雨。*22


7.
7月26日(金) 83
Carnap から Hahn, Neurath, Frank への書簡。
「同封されているのは、小冊子の text の原稿です。変更・修正の提案を挿入してください。 (どうか印刷用の書式で!) そして遅くとも8月2日には私のところへ送ってください。」

この書簡には、非常に興味深いことが書かれています。Carnap が Neurath に向けて、次のように書いています。ドイツ語原文*23、Uebel 先生によるその英訳*24、そして私の試訳を掲げます。

Lieber Neurath! Du siehst, dass ich mich nicht habe entschliessen konnen[sic], das im Schweisse meines Angesichts formulierte und im gleichen Schweisse getippte Opus nun auf Gnade und Ungnade in andere, und seien es selbst Deine, Hände zu überliefern, sondern mir doch die saure Pflicht und das süsse Recht der letzten Formulierung doch vorbehalten habe. Ganz zuletzt darfst Du aber unmittelbar vor dem Druck noch korrigieren!


Dear Neurath! You see that I could not resolve to surrender unconditionally the opus that I formulated and typed in the sweat of my brow to other hands, and be they yours. Instead, I have, after all, reserved for myself the sour duty and the sweet right of the final formulation. But at the very end, just before the printing, you may make some corrections!


親愛なる Neurath! 君にはわかってもらえると思うのですが、私が額に汗して文書化し type した作品を、無条件に他の人の手の中に、あなたのものでよろしいですよと言って引き渡すことは、私には決断しかねました。むしろ、最終的な文書化のにがい義務と甘い権利とを、やはり私自身のために取っておきたく思います。しかしながら、最後の最後、印刷をすぐ目の前にして、修正していただいても構いません!

ここにおいてとても興味深いのは、小冊子の原稿について、Carnap が事実上、「これは私の著作だ」と主張していることです。私が考え、私がみんなの意見を盛り込んで苦労して書いたのだから、この小冊子の著作権は私にある、と言わんばかりです。もちろんこの小冊子は、学術論文ではありませんし、Schlick にいわば献呈されるものですから、公には「私のものだ!」とは言えません。それに、先輩、年配の Hahn, Neurath を立てる必要もおそらくあるでしょうから、「私だけのものだ!」とは、やはり言えないでしょう。しかし、それらの点を除いてしまえば、本音のところ、「この作品は私が first author のはずだ」と言いたい Carnap の気持ちが上の引用文から読み取れます。問題の小冊子は Neurath, Hahn, Carnap の連名で書かれたことになっていますが、実質的に Carnap が中心になって書いており、文責は Carnap にあることをうかがわせる引用文です。


7月27日(土) 84
文献表を type.*25


7月29日(月) 84
文献表を type.


8月6日(火) 85
小冊子終了!*26


7.
7月30日-8月6日頃 85 n.62
Carnap から Neurath への書簡。
Neurath と Frank の修正案を受け取り、原稿に盛り込んだが、Hahn からは残念ながら返信がないと伝え、Neurath にいくつかの典拠事項を正すよう頼む。Neurath, これに応える。


7.
8月7日(水) 85
印刷用小冊子を Neurath へ!*27


8.
8月23日 85-86
Carnap, 校正刷りを受け取る。
Carnap から Neurath への書簡。
「あなたの校正を待っているところです。Feigl のものもです。彼には校正刷りをすぐに送りました。校正がなされた後で、私がそれを読み、それで早ければ9月8日に校正刷りを印刷所に戻すことができます。こうして最終的に Prague への用意ができるという訳です。」


8.
8月29日頃 86 n. 67
Neurath から Carnap への書簡。
「[…] 最後の修正として、[…] 「社会主義者」という言葉を [本文中に] 付け加えたい。[…]」
Carnap, 了承。これですべての問題点がなくなった。


9.
9月11日(水) 86
印刷所へ。修正 check 完了。Neurath 到着。印刷許可。Neurath と Wolf 出版社へ。[…] 昼食、その後、café へ。それから Ring. のそばに腰を落ち着ける。[古くからの友人] Flitner について話す。*28


9月12日(木) 86
ついに Prague での公理論の用意が完了!*29


9月14日(土) 86-87
13:30-21:30 にかけて Feigl と Plague へ、彼は初刷りの小冊子を入れた荷物を持って来ている。Neider, Reidemeisterin, Neurath 夫妻、Hahn (二等列車に乗る), the Conference on the Epistemology of the Exact Sciences へ。*30



こうしてここまで Carnap の日記や書簡を通して見てくると、私には次のような大まかな流れを感じます。
Uebel 論文の分析が大筋正しいとするならば、まず、最初に小冊子の案を Carnap が思い付き、Carnap と Feigl の双頭体制で原稿が書き始められます。そこに Neurath が出てきて自らの案を出します。これを受けて Carnap と Feigl は、今度は新しい原稿を書き始めます。ここに助太刀として Kaspar が加わり、troika 体制で執筆が進められます。するとまた Neurath が出てきて新たな案を出してきます。この後、Carnap, Feigl, Kaspar の troika 体制が解体され、Hahn が出てきて、Carnap, Neurath, Hahn の新 troika 体制が作られ確立されます。この新体制で内容が検討され、それを Carnap 一人が引き受けて全部を文書化し、できたものに Neurath と Frank の修正案を盛り込んで、最終的に Carnap が完成させた、と見ることができると思います。
もっと単純化して言えば、最初に Carnap が思い付き、Carnap と Feigl の流れが一方にでき、他方には Neurath の流れが出てきて、二つは時々交錯しながらも並行してしばらく走り、後でそれらが合流して Carnap, Neurath, Hahn からなる一本の太い流れとなり、その後この太い流れが細い一本の Carnap という流れに収斂して、最終的にそこから小冊子が出てきた、という感じです。私はそんな風に感じました。


さて、この報告の初めで飯田先生と Stadler 先生の文を引用しました。そこでは Neurath が主で、Carnap が従、またはその逆が、小冊子執筆者の主従関係を表していました。しかし、ここまで見てきてわかったように、最初の引用文にあるような執筆の主従関係は、極めて単純にすぎるということです。事態はもっと複雑だったことがわかりました。そしてここまでの分析が大筋で正しいとするならば、小冊子執筆者の主従関係においては、Neurath が主で、Carnap が従、ということはなく、むしろ、どちらなのかと迫られれば、その逆の方がより真理に近かったと言わざるを得ないだろうと思われます。


最後に、Uebel 論文の残された問題点を二つ指摘しておきたいと思います。

一つ目。Uebel 論文では、Carnap の未刊行資料を駆使して、大変興味深い結果を私たちにもたらしてくれました。小冊子執筆者のなかでは、Carnap が最終的に主導権を握っていたらしいということが明らかになりました。しかし、これは Carnap 側から見た光景であって、Neurath 側から見た光景ではありません。おそらく Neurath 側から様子をうかがうならば、事態はもっと違って見えてくるはずです。今回の Uebel 論文では、Carnap の未公刊資料は盛んに利用されているものの、Neurath の資料の利用は、極度に少ない状態です。 これは fair ではありません。当事者のうちの一方の言い分だけを聞いて、他方の言い分は聞いていないという状態です。これでは客観的で公平な事態の評価は不可能です。したがって、今後必要とされるのは、Neurath の日記や書簡が残されているのならば、それに当たって Neurath から見た事態を描き出してみせることでしょう。彼の Nachlass は Amsterdam, Den Haag, Univ. of Reading in UK, そして Wien に残されているようですので*31、ここにある Nachlass を調査する必要があると思われます。その結果、もしかすると、Uebel 論文の結論とはまったく逆に、Neurath が主で、Carnap が従、という答えが出てくるやもしれません。


二つ目。ここでもう一度、最初に掲げた飯田先生の引用文の一部を再引用してみましょう。

このパンフレットの執筆者が誰であるのかを確定することは、むずかしい問題らしい。ノイラート、カルナップ、ハーンの三人の署名があるが、執筆の過程を実際に見守ることができたというメンガーの証言 ([Karl Menger, ''Introduction'' to H.Hahn, Empiricism, Logic, and Mathematics. (Vienna Circle Collection 13) 1980, D.Reidel,] p.xiv) によれば、それは、主としてノイラートによって書かれ、カルナップもそれにある程度参与し、最終稿がハーンに渡されたのであり、ハーンは実際の執筆には関与していないという。*32

「執筆の過程を実際に見守ることができたという」 Menger の証言では、Uebel 論文の結論とは、大まかに言って、逆の事態が真であると述べていると考えられます。そうすると、Uebel 論文の分析が正しいとするならば、この分析と齟齬を来たすと思われる当事者 Menger の証言は、どのように扱えばよいのでしょうか。Uebel 論文でも、この Menger の証言に言及していますが*33、詳細な検討はなされておらず、この Menger の証言は事実上、宙に浮いてしまっております。Uebel 先生の分析が正しいとするならば、なぜ Menger のような発言が生じたのでしょうか。この発言はどうすればよいのでしょうか。単純に無視してすますのではなく、以上の Uebel 論文の文脈の中に Menger 証言を位置付け直す必要があると思われます。さもないと、喉に小骨が引っかかったままで、何か今一つすっきりしない状態が続きます。しかしもしも位置付け直すことがうまくできれば、それだけ Uebel 論文の分析に対し、説得力がより増すことになるでしょう。
なお、Menger 証言を Uebel 論文の文脈の中に、どのように位置付け直せばよいのかについて、私自身の根拠のない推測を述べれば、次の通りです。Uebel 論文に記されている Carnap の日記によると、実際の小冊子執筆過程に Menger の名前は一切出てきませんでした。もしもこれが正しいとするならば、Menger は実のところ、本人のまさに目の前で「執筆の過程を実際に見守ることができた」という訳ではなさそうです。直には執筆の様子を見ていなかった可能性が高いと思われます。Carnap, Neurath, Hahn, Feigl, Kaspar, Frank, Olga-Hahn Neurath, Waismann, これらの人々は、直に執筆の様子を見守ることができたと言えると思われます。しかし Menger は、実際には見ていない可能性があります。Menger の証言を Uebel 論文から孫引きして、彼の話を聞いてみましょう*34

Menger reported: ''Great was the joy of all of us when we learned that Schlick had decided to return to Vienna for good. 'This must be celebrated,' Neurath said and we all agreed. 'We must write a book outlining our views—a manifesto of the Circle—and dedicate it to Schlick when he comes home in the fall,' Neurath added; and with his habitual expeditiousness and energy he went to work'' (Menger 1982 [''Memories of Moritz Schlick.'' Pp. 83–103 in E. T. Gadol, ed., Rationality and Science. Vienna-New York: Springer.], 91).

Neurath が、「みんな! Schlick の帰還を祝おうじゃないか! そして俺たちの manifesto を書こうじゃないか! それを帰ってきたら Schlick に捧げよう!」と言っています。さてここからが私による根拠のない推測ですが、「小冊子を書いたらいいんじゃないか?」と最初に思い付いたのは Carnap で、彼はこれをまず Neurath (と Hahn など先輩格、leader 格) に相談したのではなかろうか? そして Neurath は「それはいい idea だ、俺がみんなの同意を取り付けよう」と約束し、それで会合の際、みんなの前で上記の Menger 証言のような発言を行ったのではなかろうか? 何といっても Neurath は彼らの間で実務面での leader であったろうし、稀代の activist で、演説上手、アジるのがうまかったであろうから、年少の Carnap が会合の際に小冊子を作成しようと緊急的に動議を出すよりも、Neurath が統率力を発揮して、「みんなでやろう!」と呼びかけ牽引しようとしたのではなかろうか? その様子を Menger も見ていて、上記のような証言となったのではなかろうか? だから、小冊子の idea を最初に提案し、執筆を推し進めて行ったのは、Carnap, Neurath, Hahn, Feigl, Kaspar, Frank, Olga-Hahn Neurath, Waismann, これらの人々以外にとっては、Neurath だったと記憶する結果となったのではなかろうか? 実際は Carnap であったにもかかわらず。このように考えるならば、Menger 証言を Uebel 論文の文脈の中にうまくはめ込むことができると思うのですが…。まぁ、物的証拠は何も、今のところはないのですけれどもね。でも、個人的には、あり得なくもない気がするんです。どうでしょうかね?


以上の記述につきまして、翻訳の間違いや、誤解に無理解、誤字や脱字が含まれているかもしれません。そうでしたらお詫び致します。誠に申し訳ございません。

*1:飯田、105-106ページ、註(4)。

*2:Stadler, pp. 335-337. 引用文中の '10' は原文の脚註です。

*3:引用者註: 引用元の本にある文献表に基付くと、正しくは '1949a' であると思われます。

*4:引用者註: 引用元の本にある文献表に基付くと、正しくは '1981' であると思われます。

*5:以下は、単なる報告です。私自身が何か目新しいことを述べているのではありません。Uebel 先生の主張の一部を、まとめ直しただけの報告の書です。

*6:See Uebel, p. 73. 以下では、この Uebel 論文の page 数を記す時は、'Uebel, p. 73.' とはせず、単に 'p. 73.' とします。

*7:上に引いた Stadler さんの引用文中の脚註 10 をご覧ください。

*8:See p. 87.

*9:以下における Carnap の日記と書簡に関する記述は、すべて1929年中のものなので、ここより下では、日付けの前に「1929年」とわざわざ記すことは省きます。

*10:'76' は、Uebel 論文での page を指します。この page に5月27日の Carnap の日記の記述があります。以下同様。

*11:大学というのは、the University of Vienna のことと思われます。 Schlick は Bonn へ転出することを考えていましたが、Vienna に残ることに決めました。この日の晩、Stanford Univ. へ客員教授のため、出発しました。なお、文中の '…' は、英語原論文にあるもの。以下同様。Uebel 論文によるならば、ここで初めて問題の小冊子の作成提案が出たらしい。Neurath が最初に提案したのではなく、Carnap だとのことである。Schlick のVienna 残留決定に合わせて小冊子が作られることになったようなのですが、この残留決定が Schlick によってなされたのは、この日5月27日であり、その日の午前にその話を Carnap は Schlick 本人から聞いて、お昼には Waismann に冊子作成の提案をしている。この頃、Neurath は Vienna におらず、Sweden にいたことがわかっており、残留決定の知らせを受けたのは、Carnap の方が早かったろうから、Schlick のVienna 残留決定に合わせて小冊子が作られたとするならば、冊子作成を最初に提案したのは Carnap だ、という論理のようです。

*12:'3 pm lecture' が何であるかは、私は未確認。Neurath 夫人とは、Olga-Hahn Neurath (1882-1937) のことと思われます。彼女は H. Hahn の sister で、Neurath と結婚しました。The University of Vienna で数学を勉強し、Neurath と数学の論文を書いています。22歳の時に眼の病気で完全に失明しています。しかし、Neurath の助力で dissertation を完成させました。1912年に Neurath と結婚。C. I. Lewis は彼女の論理学の仕事を高く評価しています。Stadler, p. 653. 先の日記が書かれた5月27日から今日の日記が書かれるまで、しばらく間がある。このあいだに Carnap と Feigl は小冊子の最初の原稿を書き進めていたと思われます。そしてそうやって書いたものを、今日、Neurath に読み聞かせたところ、「そんなに浮世離れしたものにすべきでない」と批判されたということが考えられます。

*13:前回17日に批判を展開した Neurath は、自分の案を原稿にしたのだろうと思われます。それを Carnap に示してみたのだろうと思われます。

*14:Carnap と Feigl は、Neurath の原稿 (と、おそらく Olga-Hahn Neurath の意見) に触れることで、自分たちの原稿を新たに書き直してみたのだろうと思われます。

*15:Kaspar というのは、Maria Kaspar のことと思われます。名前からわかるように女性で (Stadler, p. 213, n. 16.)、後に Feigl と結婚しています (Stadler, pp. 427, 624.)。Feigl は恋人または fiancée と Carnap のところにやってきて、作業していた訳です。今までは Carnap と Feigl の双頭体制で書き続けていたようですが、ここにきて Kaspar が加わり、troika 体制に変わったことがわかります。

*16:速記術の習得は、この頃中欧では、割と一般的だったのかもしれません。Husserl, Gödel も速記術を駆使していたと記憶しています。

*17:ここまで、Carnap, Feigl, Kaspar の troika で書いていたところ、Neurath がまた割って入ってきて、自分の案を展開しているらしいことがわかります。

*18:ここでは、Hahn が小冊子の原稿について、話にはっきりと加わっているらしいことが推測されます。小冊子は一般に、Neurath, Hahn, Carnap の執筆になるものと考えられていますが、ここではおそらく三人が冊子原稿検討のため、初めて本格的に膝を突き合わせていることが見て取れます。普段、Ernst Mach 協会の会合で、他の参加者たちとともに、この三人はいつも顔を合わせていたでしょうが、ここではおそらく冊子の検討のためだけに初めて三人のみで集まっているのかもしれません。

*19:たぶん、7月4日に Hahn, Neurath と検討した内容をもとに、Carnap は原稿をまとめているのかもしれません。

*20:ここでも Hahn が小冊子の内容検討に加わっていることがわかります。昨日まとめた原稿を読み上げているものと思われます。

*21:Frau Mauerhofer とは、Carnap の大家さん、または大家さんのおかみさんらしい。See p. 82, n. 48. 注意すべきは、この日以降、Carnap 一人で原稿の執筆が何日も連続して行われていることです。おそらく、7月18, 19日に Neurath, Hahn, Carnap の三者会談で原稿内容をかなり煮詰め、方向性と細部とを確認し合い、後は一番年少の Carnap がすべてをまとめる役を引き受けて、原稿執筆に全力投球を始めた、ということが想像されます。

*22:小冊子を type し終えたのは、小冊子のいわゆる本文のことです。ところでもしかして、この雷雨は、the Vienna Circle の行く末を暗示しているのでしょうか?

*23:See p. 83, n. 52.

*24:p. 52.

*25:今回の小冊子の和訳は、ヴィクトル・クラーフト、『ウィーン学団 論理実証主義の起源・現代哲学史への一章』、寺中平治訳、双書プロブレーマタ、勁草書房、1990年、において、読むことができますが、そこではこの文献表は訳出・掲載されていません。しかし元々は注釈付きの文献表が、小冊子本文の後に付いていたようです。「文献表を type」というのは、その文献表のことを指します。なお、このような文献表を付ける idea を思い付いたのは、Carnap のようです。See p. 84.

*26:一通り、本文と文献表を type し終えたことを言っているものと思われます。

*27:印刷用小冊子を Neurath へ回したのは、彼が印刷所と出版社への交渉に当たっていたからです。また彼が字体の選択を、Frank と相談の上、行いました。Ernst Mach 協会を紹介し推奨する宣伝文のページが小冊子内にあるらしいのですが、それを小冊子の後ろの方に配する決定を Neurath が行いました。See p. 85.

*28:Wolf 出版社というのは、Vienna にあった Artur Wolf Verlag のこと。Stadler, p. 336. Ring. というのは、有名な Ringstrasse のことかもしれない。この日、小冊子作成のすべての作業が完了しました。やっと終わった訳です。Uebel 論文でも記されているように。'Mission accomplished' です。思い起こせば5月27日に Carnap が小冊子作成の案をぶち上げて、今日9月11日の作業完了の日まで、3ヶ月強かかりました。きっと Carnap の胸の内では、長かったような、短かったような、複雑な気持ちが湧き上がっていたことでしょう。Ringstrasse のそばにある木陰で、「やれやれ、やっと終わったよ」と空を見上げながら思っていたかもしれませんね。

*29:Carnap は、Prague の学会のおそらく2日目に、すなわちこの4日後の9月16日に、英語で書けば ''A Report on the Studies on the General Axiomatics Concerning Fundamental Questions of Mathematics and Logic'' という発表を行っています (Stadler, p. 341.)。その原稿の用意が完了したということでしょう。小冊子の原稿ができても、すべてが終わった訳ではなかったみたいですね。

*30:Neider とは、Heinrich Neider (1907-1990) のことと思われます。Physicalism を案出した人物と考えられています。See Stadler, pp. 211, 431. ただし、本当にそうかどうかは検討を要します。特に see Stadler, p. 431. Reidemeisterin とは、Kurt Reidemeister の sister で、後に Neurath の妻になる Marie Reidemeister のこと (p. 87, n. 71.)。Olga-Hahn Neurath が亡くなった後に、Neurath はこの Marie と結婚しています。See Stadler, p. 701. 明日15日から、学会が始まります。前日の晩遅くに Plague に入り、翌日から「戦闘開始!」ということだったみたいです。ぎりぎり小冊子が間に合ったみたいですね。Uebel 先生は、'just-in-time' と評しておられます。まさに 'just-in-time!' ですね。

*31:Stadler, p. 717.

*32:飯田隆、『言語哲学大全 II 意味と様相 (上)』、勁草書房、1989年、105-106ページ、註(4)。

*33:See pp. 75, 77.

*34:See p. 75.