What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? More Precisely, What Problem Is a Great Part of his Most Famous Paper Devoted to? Part 1

以下において、Gottlob Frege (1848-1925) の有名な論文 "Über Sinn und Bedeutung" について、基本的な事柄を確認してみたいと思います。その基本的な事柄とは、この論文全体を通して、Frege は何を行おうとしていたのか、ということです。これから述べる内容には目新しいことは何もありません。大変基本的な事柄を確認するだけですので、今さらここに明示するまでもないことのようにも感じられます。しかし、その大変基本的な事柄に私が気が付いたのは、随分遅くなりましたが、最近のことですので、念のためその基本事項を記してみたいと思います。これから記す事柄は基本的なことですが、間違っているかもしれません。決してそのまま信じてしまわず、読まれる方は批判的な態度を堅持しつつ、ご覧いただければと思います。あらかじめ、含まれているはずの間違いや、誤字、脱字などに対し、深くお詫び申し上げます。

(この後で「いみ」という言葉を使った場合、それは素朴に、前理論的に、使っています。何かの専門用語でもなければ、誰かの術語の邦訳でもありません。従って Frege の用語のどれということではありません。最大限広義になるように使っています。また、以下の論述は、Gregory Landini, Frege's Notations: What They Are and How They Mean, Palgrave Macmillan, History of Analytic Philosophy Series, 2012 を読む以前に書かれました。この Landini さんのご高著を拝読した後では、色々と書き直したい点がありますが、直し始めると切りがありませんので、何も手を付けずに、かつての文章を以下に掲げます。)


さて、次の論文では、何が論じられているのでしょうか?

  • Gottlob Frege  》Über Sinn und Bedeutung《, in: Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, Bd. 100, 1892 SS. 25-50. 邦訳 G. フレーゲ、「意義と意味について」、土屋俊訳、黒田亘、野本和幸編、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年

この論文で論じられていることは何なのか、そのことを以下で簡単に説明してみたいと思いますが、この論文は大変有名であり、分析哲学言語哲学を学んでいる者ならば、ここで何が論じられているかは、わざわざ説明するまでもなく周知のことだろうと思います。それは「宵の明星 (Abendstern)」や「明けの明星 (Morgenstern)」などの単称名 (singular terms) のいみに関して、Sinn と Bedeutung を区別すべきだということが、これらの単称名を含む同一性言明を例に、述べられているということです。上記の論文では何が行われているのですかと聞かれれば、恐らく大抵の人が今述べたように答えるでしょうし、あるいは Sinn と Bedeutung とは何ですかと聞かれれば、やはり大抵の人が ''Über Sinn und Bedeutung'' の今言ったような例を挙げて答えを与えるのではないかと思われます。私自身も同じようにするでしょう。しかし、Frege の ''Über Sinn und Bedeutung'' で主として論じられていることは、「宵の明星」や「明けの明星」などの、私たちもよく知っている例の話なのでしょうか。Frege が ''Über Sinn und Bedeutung'' で最も論じたかったことは、私たちもよく知っている「宵の明星」や「明けの明星」などの例の話なのでしょうか。


以下の内容目次

 1. ''Über Sinn und Bedeutung'' の構成面からわかること: 「宵の明星」や「明けの明星」などの単称名の Sinn と Bedeutung の話は、論文全体に対する序論にすぎず、論文の本論は文の分析にある。
 2. "Über Sinn und Bedeutung" の本論で行われていることは何か?: 単文と複合文を含む文一般の Bedeutung が真理値であることの確認
 3. 文一般の Bedeutung が真理値であることの論証
  3.1 単文の Bedeutung が真理値であることの論証
  3.2 副文の分析による、複合文の Bedeutung が真理値であることの論証
 4. おさらい



1. ''Über Sinn und Bedeutung'' の構成面からわかること: 「宵の明星」や「明けの明星」などの単称名の Sinn と Bedeutung の話は、論文全体に対する序論にすぎず、論文の本論は文の分析にある。

Frege の論文 ''Über Sinn und Bedeutung'' で何が論じられているのかを把握するために、今から少し、基本的事実として、その論文の構成を確認してみましょう。
この論文は、Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik という雑誌の1892年刊行の第100号において、25ページ目から50ページ目に渡って掲載されています。詳しく言うと、25ページ目の大体半分辺りから下に向かって論文の論述が始まり、50ページ目の大体上から半分辺りまで進んだところで論文が終わっています。この25ページ目から50ページ目の間には、広告の類いや column の類いが挟まれることなく、すべて Frege の件の論文の論述が space を占めています。そうしますと、26ページ目から49ページ目までで24ページ分あり、25ページ目の下半分と50ページ目の上半分を合わせて約1ページ分となり、先ほど述べた24ページ分とこの1ページ分を合計すると25ページ分になります。つまり、Frege の件の論文は、およそ25ページを使って書かれているということです*1


次に、論文の内容をページに即して大まかに見てみます。
まず論文の始まる25ページ目の中ほどから28ページ目の終わりまでで、大体一区切りがつくと考えられます。ここでは主として単称名の Sinn と Bedeutung が論じられています。それから29ページ目の冒頭から32ページ目に入ってすぐのところ (32ページ目の上から4行目) までで、おおよその区切りがつきます。そこでは主に単称名が呼び起こす表象 (Vorstellung) について論じられています。そして今度は32ページ目の冒頭近く (32ページ目の上から5行目) から36ページ目の真ん中辺りで、大体の区切りがつきます。この部分では単一文・単文 (einfache Satz) としての主張文 (Behauptungssatz) の Sinn と Bedeutung が分析されています。それから36ページ目の真ん中辺りから50ページ目に入ったすぐのところ (50ページ目の上から2行目) までが大きなくくりとなります。この長い part ではすべて、複合文 (Satzgefüge, zusammengesetzte Satz) の主文 (Hauptsatz) に従属する副文 (Nebensatz) の Sinn と Bedeutung に関して分析が行われています。そして最後に、50ページ目の冒頭近く (50ページ目の上から3行目) から、論文が終わる同じ50ページ目の真ん中辺りまでで、ひとまとまりになっており、この最後の部分では、論文の総括が行われています。以上を式のように表すと、以下のようになります。なお、件の論文1ページ分では、本文部分が38行で構成されています。


論文全体: 25ページ目半ば − 50ページ目半ば (全体で約25ページ分)

 = 

単称名: 25ページ目半ば − 28ページ目 (約3.5ページ)
 +
表象: 29ページ目 − 32ページ4行目 (約3.1ページ)
 +
単文: 32ページ5行目 − 36ページ目半ば (約4.4ページ)
 +
副文: 36ページ目半ば − 50ページ2行目 (約13.6ページ)
 +
総括: 50ページ3行目 − 50ページ目半ば (約0.4ページ)


となります。


次に各 part が論文全体に占める大よその割合を出して、図式的に記してみましょう。

    • (1) 論文全体 100% = 単称名 14% + 表象 12% + 単文 18% + 副文 54% + 総括 2%

表象の part は主に単称名の表象の分析です。また、単文と副文の part はどちらも文についての分析です。ここから各 part を以下のようにまとめ直すこともできます。

    • (2) 論文全体 100% = 単称名 26% + 文 72% + 総括 2%


さて、翻ってみて、私たちのよく知っている「宵の明星」や「明けの明星」などの単称名のいみに関する Sinn と Bedeutung を区別の話が出てくるのは、今問題としている論文のどの part だったでしょうか? それは上記の図式 (1) の「単称名 14%」の部分です。論文冒頭14%までの部分です。この部分に私たちがよく知っている話が出てきます。私たちが Frege の有名な論文 "Über Sinn und Bedeutung" を説明する時、あるいは彼の Sinn と Bedeutung を説明する時、持ち出してくる話は、件の論文冒頭14%までの部分の話です。この冒頭以降は主として表象の話であり、文の話です。

こうして見ると、私たちがよく知っている、単称名に関する Sinn と Bedeutung の区別の話は、論文冒頭の14%の部分でしかないということがわかります。あとの大部分は、私たちが普段 "Über Sinn und Bedeutung" を説明する際に触れることのない、あるいは触れることの少ない話題だという訳です。上記の図式 (2) を見ると、この論文の大部分は、文についての分析が占めているということがよくわかります。図式 (1) を見るならば、文は文でも副文の分析が、この論文の半分以上を占めているということがわかります。図式 (2) から単称名と文の分析の割合を比較するならば、文の分析は単称名の分析の3倍近くにも上ります。図式 (1) よって、副文だけに限ってみても、単称名とその表象の分析に対し、副文の分析は2倍以上もあります。

以上のように、論文の構成面から見てみると、"Über Sinn und Bedeutung" における単称名の Sinn と Bedeutung の話は、論文全体に対する序論部分に相当し、論文の本論は文の分析にあるということがわかります。私たちがよく知っている「宵の明星」、「明けの明星」などの単称名に関する Sinn と Bedeutung の区別の話は、本論に対する前置きであり、話の枕として持ち出されていると考えられます。つまり、Frege 本人としては、論文の main としていたのは文の分析の部分であり、取り分け副文の分析部分を論文の山場に据えていた、ということです。はっきり言ってしまえば、私たちがよく知っている「宵の明星」、「明けの明星」に関する Sinn と Bedeutung の話は、本論に対する前口上にすぎない、ということです。

この結果は、私個人にとっては、とても意外なことでした。私自身も知っている「宵の明星」、「明けの明星」に関する Sinn と Bedeutung の区別の話が、件の論文全体のほんの冒頭部分を占めるにすぎないということ、Frege にとっての本論は、文の分析、なかでも副文の分析にあること、このことが論文の構成面から客観的事実として言えるということ、これは全く意外でした。うかつだったことを認めます。Frege の有名な論文 "Über Sinn und Bedeutung" は、単称名の分析というよりも、文の分析を main として行っている論文であること、この論文の本論は、文の分析であって、単称名の分析は序論にすぎないということ、これはこの論文に対して一般に流布していると思われる image からすると意外です。

考えてみるに、文の分析、なかでも副文の分析が、この論文の本論であるとするならば、なぜ Frege が論文冒頭に、序論に相当するものとして「宵の明星」、「明けの明星」に関する Sinn と Bedeutung の区別の話を持ち出してきたかが推測できます。件の論文を読まれた方はみなさんお感じになられると思いますが、論文の副文部分の分析は、複雑です。難しくて長い説明が続きます。一読してすぐにわかるというものではありません。例えそこで言われていることがわかったとしても、そこでの Frege の考えに、すぐさま同意できるというものでは全くありません。このことを思ってみたならば、いきなり副文の話を持ち出したとすると、必ずや論文読者の理解は得られず、複雑でこまごまとした話に反感を買うことになると Frege は感じたことと思われます。そのようなことをできるだけ避けるためには、わかりやすい、同意の得られやすい話から始めなければならないでしょう。恐らく Frege が単称名の Sinn と Bedeutung の区別から論文を書き出しているのは、その区別なら読者も比較的納得しやすいと感じたからだろうと思われます。事実、このような区別は、はるか昔の Stoics においてもなされていたということが研究者によって指摘されており*2、いみについてのそれほど sophisticate されていない理論しか持ち合わせていなかったと考えれらる昔々の人でさえ区別できた違いなのだから、単称名に関する Sinn と Bedeutung の区別なら、素朴ではあれ哲学を研究している当代の読者にも比較的理解しやすいだろうと Frege が考えたかもしれないということは、私たちにも予想が付きます。つまり、「宵の明星」、「明けの明星」に関する Sinn と Bedeutung の区別の話から論文を始めているのは、その区別なら比較的受け入れてもらいやすいと Frege が踏んだからだろうと思われます。だからこそ、この区別の話は論文の冒頭部分で切り上げて、早々に本論としての文の分析へと Frege は話を進めているのだろうと思われます。

ところで、以上の事実を認めるならば、現代の私たちがいかに単称名の Sinn と Bedeutung にこだわりを見せているのかが、思いやられます。論文冒頭の、せいぜい14%ほどの部分に人々の注意が過度に集中していると感じられます。実際、私自身がそうでした。"Über Sinn und Bedeutung" や Sinn と Bedeutung の区別を説明する段になると、単称名の Sinn と Bedeutung の区別に話が集中します。ほとんど単称名に関するその区別だけ、という観があります。このように件の論文の前置き部分だけに注目が集まるのは、一つには、やはり単称名の Sinn と Bedeutung の区別だと、話が分かりやすいということがありますが、これ以外に忘れてはならないのは、 Sinn と Bedeutung の区別に関しては、いわゆる述語や文に対してよりも、単称名に対してこそ、その区別を現代の私たちが、意識的にであれ無意識的にであれ、重視しているということにあるものと思われます。つまり、知らないうちに私たちにとって重要と思われる部分だけを Frege の論文からくみ取っているということであり、私たちにとってそれほどには価値があるとは考えられないものは、論文の中に見ていないということです。Frege 本人にとってどうであったかではなく、私たちが見たいものをそこに見ているだけなのではないでしょうか。ほしいものだけを取って、あとは顧みていないということではないでしょうか。Frege にとって、この論文で一番示したかったこと、論文読者に一番納得してもらいたかったこと、それは必ずしも私たちが見たいものとは限らない、ということだろうと思います。


続く。

*1:この Frege の論文 ''Über Sinn und Bedeutung'' は、2011年2月27日現在、Wikipedia のドイツ語版、項目 'Über Sinn und Bedeutung' において、論文の original のままを、Djvu 方式の画像で、誰でも無料で全文を net 上から閲覧できるようになっています。雑誌の現物を手に取って見た場合と比べて、この画像は体裁が不均等であり、見た目がよくありませんが、一応ながら簡単に全文を俯瞰できるという点で便利です。http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:%C3%9Cber_Sinn_und_Bedeutung.djvu&page=1&filetimestamp=20080307084022

*2:古代の Stoics が、単称名に関して Frege の Sinn und Bedeutung の区別を既に行っていたという指摘については、当日記の2010年11月14日の項目 'Stoics Have Already Divided Word Meaning into Two Parts, Sinn and Bedeutung' を参照して下さい。