The Extremely Short History of Plural Logic

入手したばかりの

  • Alex Oliver and Timothy Smiley  Plural Logic, Oxford University Press, 2013

に関連して、少し取り留めのないことを書いてみます。これから書く文章は、

に絡めたものです。以下に出てくる英語の文と、それに関する述語の考察は、この飯田先生の論文の412-414ページを参考にしています。


さて、

    • Whitehead and Russell are philosophers.

という文の述語は、何でしょうか? おそらく ' are philosophers' でしょう。'are' の前の空所を便宜上、'x' で埋めれば、'x are philosophers' となります。これは複数形の述語です。実際、先の完全な文を見ると、x には複数のもの Whitehead and Russell が入っているので、この述語は複数形であることが正しい、ということになります。また、

    • Whitehead and Russell wrote these three big books.

の述語は何でしょうか? おそらく ' wrote ' でしょう。やはり空所 (argument) を 'x', 'y' で埋めてやると、'x wrote y' となります。この述語表現の x と y には、それぞれ Whitehead and Russell と these three big books という複数のものが入っているので、'x wrote y' は、明示的に複数形の 's' を付けていないものの、実際には複数形として働いていると見なすことができます。

ところで述語は Frege にとって関数の名前でした。関数は、その都度一つのものを取って、一つのものを返す対応のことです。しかし、今見たばかりの二つの英文を観察すると、どちらの英文も述語の空所に一度に複数のものを取っていることがわかります。複数のものを同時に取ってくるようなものは、関数ではありません。にもかかわらず、Frege は述語を関数の名前と見なしていました。


ここで飯田先生の上記の論文から引用します。先生の論文の413-414ページからです。

 複数形の述語や、明示的に複数形を取っていなくとも、複数の入力をその項 [argument] に必要とするような述語があるのだとすれば、述語を関数の一種とみなしたフレーゲのやり方は根本的にまちがっていたと言わざるをえないだろう。フレーゲが著作を行ったドイツ語はもちろん複数形の述語をもつ言語である。複数形の述語の存在はフレーゲにとっても明らかだったはずである。フレーゲだけでなく、現代論理学の建設者たちはみなドイツ語や英語やフランス語といった単数と複数の文法的区別をもつ言語の中で育った人々である。それなのになぜ、複数形の述語が、述語を関数とみなすことに反対する論拠として出されなかったのだろうか。
 その理由はおそらく、この点に関しては、述語に対するフレーゲの考えが、述定 [predication] についての伝統的考えと一致していたことにあると思われる。それによれば、複数のものに述語が適用されているというのは見かけだけのことであり、そうした述語の適用はすべて単一のものへの述語づけと等しいか、あるいは、そうした述語づけに還元できる。*2 こうした主張を「述定に関する単称主義」と呼ぼう。

この引用文末尾の註2を引用します。415ページからです。

2
述定はすべて単一のものに対してなされ、決して複数のものに同時になされることはないという見方 [つまり、述定に関する単称主義] は、古代ギリシア以来の西洋の哲学の伝統の一部であるという観念を、私は漠然ともっているのだが、本当にそれが正しいという証拠があるわけではない。[…]

「本当にそれが正しい」かどうかを確かめてみるための取りかかりとして、購入したばかりの

を読んでみるとよいかもしれない。特にその chapter の 2.1, Distributive and Collective Predication (pp. 15-19) が手始めとなるかもしれない。ただし、該当箇所を読んでみましたが、飯田先生の推測が正しいかどうかの決定的な答えが書かれているというのではございません*1。どうも、西洋世界では、「述定はすべて単一のものに対してなされ、決して複数のものに同時になされることはないという見方」は、あまり表だって主張されたり否定されたりは、していないように見えます。主に、複数のものをひとまとめに考えて主語としている文から、複数のものをバラバラに考えて主語としている文を推論すること、およびその逆は、妥当な推論ではない、ということが、昔から指摘されてきたようで*2、述定に関する単称主義をあからさまに主張したり反駁したりということは、あまり見受けられないような感じです。それでも、述定に関する単称主義が、昔の文法家たちの半数ぐらいに支持されていた時期 (18世紀半ば) もあったようです*3。そしてどうやら現代に近づくにつれ、述定に関する単称主義が無自覚に支持されるようになってきたみたいです。John Maynard Keynes のお父さんの、John Neville Keynes の書いた論理学の本では、述定に関する単称主義が成り立つような例文が、当たり前のように現れてきているようです*4


述定に関する単称主義が正しいか否か、それを支持すべきか否かは、些細な問題に見えるかもしれませんが、もしも支持すべきでないとすると、言い換えれば、plural logic こそが本来 standard な logic なのだとすると、現在の哲学の landscape が大きく変わってくると思われますので、butterfly effect のような結果をもたらすかもしれません。というわけで、無視を決め込むわけにもいかないように感じられます。とはいえ、私は plural logic については、ほとんど知らないので、またおいおい勉強して行きたいと思います。


以上、何か勘違いしておりましたらすみません。謝ります。おやすみなさい。

*1:正直なところ、該当箇所を完璧に理解した、とは今の私には言えません。ちょっとピンとこない箇所があります。よくよく読むとわかりそうですが、熟読玩味している時間がないので、パスさせてもらいます。

*2:例えば次のように言われます。「Socrates と Plato は二人の人である、ということから、Socrates は二人の人であり、かつ Plato も二人の人である、と推論することは妥当ではない」。あるいは「Socrates は一人の人であり、かつ Plato も一人の人である、ということから、Socrates と Plato は一人の人である、と推論することは妥当ではない」。詳しくは、当日記、2011年11月27日、項目 'According to Frege, Natural Number Isn’t a Property Attributed to Objects. Why Did He Think So?' を参照ください。

*3:Oliver and Smiley, p. 19.

*4:Oliver and Smiley, p. 18.