Don't Judge a Philosophy Book by its Evil Cover. Is That Right?

先日、以下の論考を拝読致しました。

これは講演の記録のようです。そこで、興味深い発言がありましたので引用してみます。引用文中の '〔 〕' は、講演の録音テープを起こした秘書による挿入、'[ ]' は訳者の補足、'〚 〛' は引用者の補足です。また、引用文中の註(1)は、秘書による註です。加えて、原文の傍点は太字に改めています。

 皆さんの中には、次のように問う人がおられるでしょう。このすべては 〚つまりハイデガーの哲学は〛、ハイデガーの個人的な生涯、そしてナチス時代の初期に彼がフライブルク大学の総長になった事実とどう関わっているのか、と。このことについては、まず一般的なことを申し上げたいと思います。哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならないということです。ソクラテスアリストテレスのような偉大な古典的な哲学者たちでさえ 〔対象となった〕 戯画化も、プラトンが愚かにも彼の時代のヒトラー、つまりシュラクサイの独裁者の助言者となった事実もまた、哲学者がその個人的な決断と同一視できないということを示しています。それでもなお、ハイデガーの哲学と、ナチスが権力を獲得したときに彼が [踏み出した] 一歩との間には、一つの結びつきがあります。それがつまり、この決断という観念なのです。彼はそこにおいて、以前にはどこにおいても見出すことのできなかったほどの決断を、突然見出しました。しかしこの決断は、私たちに言わせれば、悪魔的なものでした。それは破壊的なもので、また反本質的なものです。しかし、ハイデガーは、それに反対する基準を何ら持ち合わせていませんでした。ヒトラーが権力を獲得する二年前に、スイスでカッシーラーハイデガーとの間に非常に興味深い議論がありました(1)。この議論は、状況全体を [指し示すものを] きわめて明瞭に示しています。カッシーラーは、カントから、そして考えと行動との合理的な基準をもつ合理的道徳哲学から出発していますが、ハイデガーは基準を欠いているため、基準なるものはないと言って、自らを弁護したのです。その一年後、カッシーラーは亡命し、ハイデガーフライブルク大学の総長になりました。さて、この状況は哲学的にも重要です − 伝記的にではありません。そうでなければ、私はここで言及しなかったでしょう。それは、純粋な実存主義が答えを出せないということを示していることのゆえに、哲学的に重要なのです。サルトルは抵抗運動の中にいましたが、彼 〔ハイデガー〕 はその中にはいませんでした − それはサルトルの書いた小説によって明らかなとおりです。その理由は、それが彼の基準に合致していたから 〔ではなく〕、むしろそれが行動だったからです。その行動が、何の決断も見出すことができなかった恐ろしい自由から、彼 〔ハイデガー〕 を解放したからです。

(1) 〚…〛この講演の後で、友人の学生たちと共にティリヒをユニオン 〔神学校〕 まで車で送って行く途中、ティリヒは、自分もまた、ハイデガーの政治的関係については、彼の妻やその他のことを考えるとやはりほとんど言えなかった、と語っていた。それに抗うだけの勇気を持っていなかった ..... 。〚…〛*1


この引用文中で、私が特に気になったのは、

まず一般的なことを申し上げたいと思います。哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならないということです。ソクラテスアリストテレスのような偉大な古典的な哲学者たちでさえ 〔対象となった〕 戯画化も、プラトンが愚かにも彼の時代のヒトラー、つまりシュラクサイの独裁者の助言者となった事実もまた、哲学者がその個人的な決断と同一視できないということを示しています。

の部分です。ここで正確には何が言われているのか、私にはよくわからないのですが (不正確になら、わかりますけれど)、「哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならない」というのは、私には意外な発言に思われました。何か倫理的なことを主張しているように見える哲学に対し、その哲学を唱える哲学者が倫理的に問題のある行動を取っている場合、彼/彼女の哲学とその人の行動とが何か密接に関係しているのではないか、その人の哲学の必然的な帰結が、その人の問題行動となって表れているのではないか、と考えることは、おそらく不合理なことではないだろうと思われます。そのような場合、「哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならない」のではなく、その哲学者の哲学を、その哲学者の問題行動を考慮することによって吟味し直すことは、不当なことではないだろうと思われます。

Tillich さんは、「まず一般的なことを申し上げたいと思います。哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならないということです。」と言って、これは一般論だと述べておられます。しかし、たとえ一般論だとしても、あまり通用しない主張ではないだろうか、と個人的には感じました*2。都合の悪いことをした哲学者には、とても都合のよい主張だと思います。 たぶん、Tillich さんは Operation Sternheim のことを、ご存じないのだろうと思います *3。ご存じであれば、Heidegger の哲学を評価する前に、たとえ一般論だとしても、「哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならない」というような、のんびりとした留保をつけることはできなかっただろうと思います。ただし、実際、上記引用文を読むとわかるように、Tillich さんも、今述べたような留保を解除して、Heidegger の哲学を、Heidegger の問題行動から吟味しておられますので、いいんですけれども…。

あと、引用文中の註の(1)について、そこに「自分もまた、ハイデガーの政治的関係については、彼の妻やその他のことを考えるとやはりほとんど言えなかった」と Tillich さんが語ったと書かれていますが、これを読むと、Tillich さんは Heidegger の家族の政治的立場を、おそらくよく知らなかったのだろうと想像されます (私もよく知っているわけではないのですが…。)。Tillich さんは Heidegger の妻を案じて、Heidegger の政治的関係について公言できなかったようですが、そのような心配は無用だったろうと思われます*4

「哲学者は、その生涯の欠点によって評価してはならない」という発言は、倫理的なことを主張している哲学者には、当てはまらないだろうと、何となく思っていましたが、Tillich さんがこのように発言していることに、ちょっと驚きましたので、そのことをここに記してみました。以上の話は、非常に sensitive なものであり、異論も色々とあるだろうと思います。簡単に解決のできる事柄でもないですし、すぐさま誰もが同意できる妥協点を見出すことも、難しいだろうと思います。(もしもそのような妥協点がすぐに見つかったとしても、それは空虚で自明で誰も譲歩せずにすむような無意味なものでしょう。) 今回の日記で言及した方々に関し、事実誤認などがございましたら謝ります。大変すみません。その際は、訂正させていただきます。どうかお許しください。

*1:ティリヒ、「ハイデガーヤスパース 上」、16-17ページ。

*2:ただし、「あまり通用しない主張ではないだろうか」ということを、しっかり正当化できる十分な根拠を私は持っておりません。申し訳ございません。

*3:次を参照ください。奥谷浩一、「ハイデガーと「シュテルンハイム作戦」」、『札幌学院大学人文学会紀要』、第81巻、2007年。

*4:Heidegger の妻の政治的立場については、次を参照ください。奥谷浩一、「ハイデガー反ユダヤ主義」、『札幌学院大学人文学会紀要』、第85巻、2009年、138ページ。