How Were Buddhist Scriptures Translated into Classical Chinese? Part I: How Long Did It Take to Translate its Scripture into Chinese?

私は哲学を学んでいます。中でも欧米の哲学、特に分析哲学を学んでいます。そのため、哲学史も学びます。古代ギリシアで始まった哲学が中世のヨーロッパへと伝えられ、アメリカに渡り、日本にもやってきました。その間、様々な文献が色々な言語に翻訳され、人々の手に渡りました。西洋の哲学史を学んでいると、古い時代では、中世の写字生が何か文献を写すなり翻訳するなりしている絵を見かけることがあります。斜めになった書見台のようなところに置かれた羊皮紙か何かに字を書き込んでいる姿です。このような絵を見たことが何度かあるので、哲学がどのように翻訳され伝えられてきたのかは、漠然とながら想像ができます。しかし私たち日本にいる者がたびたび接するお経がどのように翻訳されて伝えられてきたのかは、少なくとも私には、まったく想像ができませんでした。私たちの身近にあるお経がインドに発し、中国を経て、日本に入ってきていることは、誰もが知っていることだと思います。しかしあの意味不明の漢字だらけの呪文のようなものが、どのようにサンスクリットから漢語に訳されて、今に至るのか、ぼんやりと疑問に思ってみたことはあるものの、そう思うだけで、取り立ててそれについて調べてみようとは、してきませんでした。そのような折に、次の本が出ることを知り、

  • 船山徹  『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』、岩波書店、2013年

出た後に書店店頭で手に取ってみて、中をのぞくと私が漠然と思っていた疑問の答えが書かれていることに気が付きました。とても意外でとても面白い答えでした。店頭で「え!? そうなんだ!」と思ってしまいました。私にとってはかなり意外でしたので、その意外に思ったことをここでご紹介致します。普段は哲学のことぐらいしか、この日記では記しませんが、哲学と直接には関係ありませんものの、面白いので記させてください。少なくとも二回に分けて記す予定です。今日が第一回目です。まず、仏典の漢訳とは何か、仏典が書かれていた言語は何か、漢訳の歴史的区分にはどのようなものがあるのか、これらの基本的な疑問に対する答えを、順番に引用によって提示します。

以下の引用文中で、'[…]' とあるのは引用者による省略です。また、漢字の後の丸カッコの中にひらがなを書いて、その漢字の読みをしばしば記入していますが、それも引用者によるものです。原文では漢字に添え字として読みが書かれているのですが、ここでは丸カッコに入れて記しています。それ以外のカッコの類いはずべて原文にあるものです。なお、原注は省いています。


それでは、仏典の漢訳とは何か、という疑問について。

 仏典の漢訳とは、仏教の教えをある原語から漢文に翻訳することである。その場合、漢文とは漢語、より厳密には、文章語としての古典漢語 (クラシカル・チャイニーズ Classical Chinese 古典中国語) である。一方、仏教の原語とは具体的に何をさすだろうか。仏典の場合、若干の例外を除けば漢語に翻訳される以前の原典の言語はインドの言語であり、インド語 Indic languages と総称することができる。*1


次に、仏典で記されている言語とは何か、について。

 漢訳された仏典の原語となるインド語の主なものとしては、サンスクリット語 (梵語)、パーリ語ガンダーラ語、そして […] 仏教混淆梵語を挙げることができる。このほかにも例外はあるが、大抵の場合、この四種のいずれかがインド仏教の原語であった。*2


最後に、漢訳史の時代区分について。

 つぎに漢訳の時代区分について述べよう。漢訳の長い歴史を区切る方法に「旧訳 (くやく)」と「新訳 (しんやく)」がある。唐の玄奘 (げんじょう) (六〇〇/六〇二〜六六四) を新訳の始まりとし、それ以前を旧訳として一括する区分法である。新訳とは元来、新しい訳という普通の意味であり、特定の漢訳経典を指す言葉ではないが、以前の訳を刷新した玄奘訳を指すことが仏教では多い。
 旧訳と新訳を代表する訳者はたとえば誰だろう。これについて、西域は亀茲 (きゅうじ) 国 (クチャ、現在の新疆ウイグル自治区庫車の東) の出身で五世紀の初頭に活躍した鳩摩羅什 (くまらじゅう) (クマーラジーヴァ) と、七世紀中頃、唐の太宗 (たいそう) 皇帝の時代にインド巡礼より帰還して厖大な質量の訳業を成し遂げた漢人僧、玄奘の名を挙げることに異を唱える人はいないだろう。鳩摩羅什玄奘こそ、仏典漢訳史の二大巨頭であり、それぞれ旧訳と新訳の代表である。*3


以上をまとめると、仏典の漢訳とは、主にサンスクリット語を昔の漢語に翻訳することで、翻訳の流れとしては、唐の玄奘を境にそれ以前を旧訳、玄奘以降を新訳と言った、ということです。さて、仏典を含めた聖典や重要な政治的、法的文書、それに正典となる文学作品の翻訳は、私の印象では、それらの文書はとても重要で大切で影響力のあるものですから、じっくりと時間をかけて翻訳されたのだろうと思います。考えに考え抜いて定訳を確定する、ということが行われたのだろうと想像します。それに仏典の漢訳は、江戸時代の終わりに『解体新書』を翻訳するように、まったく異なる文化の文書をまったく異なる文化の中に移植する作業だと思われますので、必ずしも決まった訳語が既に定まっているわけではないでしょうし、苦心惨憺、ひどく時間がかかりながら、訳し終えたのだろうと思います。少なくとも私は漠然とそのような感じのことを思っていました。そのような中、今回取り上げている船山先生のご高著をひも解くと、私にはものすごく意外なことが書かれていました。それではその文章を引いてみます。

 漢訳の実態を理解するに当たってまず知っておくほうがよいと思われるのは、旧訳 (くやく) にせよ新訳にせよ、漢訳の具体的作成作業は現代のわれわれが漠然と想像するよりもはるかに早いスピードで行われたことである。[…]
 たとえば西晋竺法護 (じくほうご) 訳の場合、『正法華 (しょうほっけ) 経』十巻の翻訳は太康七年 (二八六) 八月十日から九月二日まで行われたとされている (『出三蔵記集』巻八「正法華経記」)。この記録が確かならば、一巻を訳すのに二日あまりしかかからなかった計算となる。同様に、竺法護訳『如来大哀 (にょらいだいあい) 経』七巻の場合には一巻分の翻訳所要日数は六、七日とわかる (『出三蔵記集』巻九「如来大哀経記」)。この二例が示す翻訳速度は異なるが、竺法護訳の場合は、一巻分につき数日という、想像をはるかに超える驚異的な早さで訳したようである。
 もちろん翻訳のスピードは個々の具体的状況で変わる。六朝時代の翻訳がすべて竺法護訳と同様の迅速さでなされたわけではあるまい。おそらくはもっと多い日数の場合もあったことだろう。後秦鳩摩羅什 (くまらじゅう) 訳の『大品 (だいぼん) 経』と称される『摩訶般若波羅蜜 (まかはんにゃはらみつ) 経』の場合は、計算すると一巻分の翻訳にかかった日数は九〜十日ほどであり、訳了後の校正まで含めても一巻につき十五日ほどである。同じ鳩摩羅什訳の『小品 (しょうぼん) 経』の場合は、校了まで含めて一巻分の所要日数は十二日ほどである。東晋の法顕 (ほっけん) 訳『大般泥洹経 (だいはつないおんぎょう)』六巻は一巻につき二十日弱程度、仏駄跋陀羅 (ぶっだばっだら) 訳『華厳経 (けごんぎょう)』の場合も十日ないし十一日とほぼ同様である。このほかの事例は割愛するが、まとめて整理すると、いわゆる旧訳の場合、特に何か不測の事態でも出来しない限り、一巻の分量を訳すのに必要な日数はおよそ十日前後であり、時にはそれより早い場合も、遅い場合もあったとみて大過あるまい。
 以上は『出三蔵記集』巻二「新集撰出経律論録 (しんしゅうせんりつきょうりつろんろく)」および巻六〜十一に収める経序 (経典の序文) に基づいて概算した結果である。一方、新訳の玄奘 (げんじょう) の場合はどうかと言えば、概してさらにスピードアップしたようだ。『開元釈教録』巻八に記す玄奘訳の諸経論のうち、訳出年月日の明らかなものを調べてみると、『大菩薩蔵 (だいぼさつぞう) 経』は一巻につき六日、『瑜伽師地 (ゆがしじ) 論』 『仏地経 (ぶっちきょう) 論』は七日ほどであり、『大乗掌珍 (だいじょうしょうちん) 論』 『入阿毘達磨 (にゅうあびだつま) 論』などの訳出には、一巻分わずか三日ほどしかかからなかった。ただ玄奘訳の中にも一巻平均十日以上かかった例や、計算上、数十日となる例もあるし、また同時並行的に複数の文献を訳した場合もあるので、極度に単純化して理解することは慎まねばならないが、六朝時代の訳経と較べて、玄奘訳のほうがさらに翻訳が速かったのは確かだろう。
 以上、おおよそのイメージをつかむため、一巻分という表現を用いたが、じつは六朝隋唐で一巻の字数が確定していたわけではない。写本学の概説として定評ある藤枝晃『文字の文化史』(一九七一) によれば、最初は一行の文字数さえ一定せず、後に一行を十七字とする書式が写経の体裁として定着するようになる。その時期はおよそ五世紀後半頃であった。そして縦一尺、横一尺五寸ないし二尺の紙を二十〜三十紙貼り繋いだものを一巻とするのが通常だったという。だから一巻の分量と言っても、字数は一定ではなかった。ただその点を考慮したとしても、上記の訳経速度は直感的理解を得るのに役立つだろう。*4

一巻あたり、何文字で書かれていたのか、いつも一定していたわけではないようなので、正確なことは私にはわかりませんが、いずれにせよ、ものすごいスピードで訳していたみたいで驚きました。読んだはなから訳し下して行くという感じみたいです。何だか同時通訳的な勢いです。ものすごく大事と思われるお経を、そんなにあわてて訳していたとは、そんなに急いでいいのだろうか、と心配になります。じっくり訳してから、しばらく寝かせ、再び見直し推敲し直して、これを何度か繰り返して、最後に清書する、というのんびりしたのものではなかったみたいですね。大学の英書講読などの授業で「来週までに、このページを訳してきなさい」と言われて、あわてて徹夜で訳しているのと、あんまり変わらないような気がするのですが…。いいんだろうか、という感じがします。こんなことだとサンスクリット語原文と漢訳とを見比べると、手早く訳したせいで、誤訳などがちょくちょく見られるのではないかと予想しますが、私はサンスクリットも漢文も駄目なので、誤訳が散見されるのかどうかはわかりません。それとも、世界史の教科書でも出てくる鳩摩羅什玄奘は天才的翻訳者だったので、誤訳などほとんどなかったのでしょうか。よくわかりませんが…。ちょっと心配になります。あまりに速く訳しているようだったので、私にはとても意外でした。


PS
今日のこの日記項目の前で、慧皎、『高僧伝 (一)』、吉川忠夫、船山徹訳、岩波文庫青帯、岩波書店、2009年、という本を購入したことを記しましたが、この『高僧伝 (一)』では、仏典を漢訳した歴代のお坊さんの伝記が多数収められています。鳩摩羅什の伝記も入っています。高校生の時、「鳩摩羅什って変わった名前だなぁ、どういう人なんだろう?」って思っていましたが、その鳩摩羅什の伝記がこの『高僧伝 (一)』に入っているとは、船山先生の本を開くまで全然知りませんでした。この本は仏典漢訳の実態を知るのに貴重で重要な文献のようです。とても面白そうだったので、仏教関係の本は普段買いませんが、この本は早速購入しました。ところどころ開いて読んでみたいです。

*1:船山、1ページ。

*2:船山、1-2ページ。

*3:船山、21ページ。

*4:船山、53-55ページ。