How Did Professor Masao Maruyama Write his Famous Papers?

先日、以下の書籍を購入した。

中を見てみると、例によって滅法面白い。特に次の二つが面白く、あちこちを拾い読みする。

  • 「生きてきた道 『戦中と戦後の間』の予備的な試み」、1965年10月、初出、『丸山眞男手帖』、丸山眞男手帖の会、2008, 2009年。
  • 「1930年代、法学部学生時代の学問的雰囲気」、1985年7月、初出、『丸山眞男手帖』、丸山眞男手帖の会、2009年。

その際、目に入ってきたこととして、丸山さんの有名な著作が、どのように書かれたのかがわかる文章がありました。よく知られた話なのかどうか、わかりませんが、興味深いので引用してみます。どの引用も、上記収録文献のうち、前者の「生きてきた道」から引きます。引用の際には、原注を省きます。'〔 〕', '( )' は原文にあるもの、'[ ]' は引用者によるものです。


まず、「本店」の仕事である『日本政治思想史研究』所収の論文がどのように書かれたのかについて。

[質問者] 南原 [繁] 先生は政治思想史の内容について、こういうものをやったらどうかという、そういう指導は全然なさらなかったのですか。
丸山 えぇ。全然しなかったです。
[質問者] 徂徠学をやるというようなことも全部先生の一存でしたか。
丸山 全く無我夢中ですよ。方法も何も分からない。〔徂徠学を中心に据えたことについても〕 多元的な動機が働いていますね。後から説明すると、えらく都合よく説明しちゃうんだけれど、多元的な動機が働いていて、そう簡単には言えませんよ。近代意識の成熟をたどりたいというものは確かにありましたけれども、単純に、とにかく読むに堪えて面白いということ。それから Das Politische というものが自覚されてくる過程という、これは何も「近代」意識と並行するものじゃありませんからね。そういうのもあるし、それからまた、徂徠学と宣長学との関連というのは、既に村岡 〔典嗣〕 さんが言っているわけですけれども、もっと違って関連させて結合させられないかということとか。
 だんだんと「規範」と「自然」とが分かれていって、そして二元的になって、徂徠学において完全に分裂しちゃって、それで宣長学が「治国平天下」の方をポイしちゃって、私的な自然性の方を受け継いだんだというシェーマ (Schema 図式) を作った時には、うれしかったですね、正直のところ。(笑) これでいける! と思って。(笑)
 しかし、どうもそういうのは一度作っちゃうとなかなか壊れないんで、それが弱っちゃうんです。だから、〔伊藤〕 仁斎と 〔山鹿〕 素行っていうのは、ずっと後になって勉強しました。朱子学を勉強して、徳川時代朱子学者のものは読んで、それで徂徠学を一所懸命読んで、宣長を読んで、論文を書く直前になって、朱子学から徂徠学をつなぐために 〔仁斎や素行を〕 読んだんです。もちろん、それまでとにかく乱読しましたから。その時は全く問題意識なしに、パァーッと読んでいましたけれど、改めてまた読んだんです。そうしたら、こう、スーッとそういうものが目についてくるわけですね。いわゆる「朱子学的思惟の崩壊過程」という − そこをずっと拾っていって、それで埋めていったということです、順序から言うと。*1

ここで興味深いのは、どうやら初めから朱子学的思惟の崩壊過程を跡付けるという構想が明確にあったのではなく、あれこれ乱読しながら、読むに堪えて面白いものは何かないものかと探しつつ、漠然と近代意識の成熟過程を追跡し、政治的なるものの自覚過程を探索する、ということを遂行している中で、例の朱子学的思惟の崩壊過程とか、自然と作為の分裂状況が浮かび上がってきたようですね。おそらく林羅山などの朱子学から、徂徠を経て、宣長に至るという大枠ができた後で、間を埋めるように、素行と仁斎に言及するという執筆の流れを取っていたみたいですね。私個人的には、素行が後付されているところが、興味深い。やはり、初めから素行があったのではない、ということですね。この点、尾藤正英さんの『日本封建思想史研究 幕藩体制の原理と朱子学的思惟』における丸山批判は、あるいみで、当たっていた、と考えられます。(ただし、私個人は、尾藤先生の丸山批判は、別のいみで、的を外していると思っています。専門家でもないのに、生意気言ってすみません。あるいみで当たっていて、別のいみではずれている、ということは、どういうことなのか、これについては大した見解でもないので詳説を控えさせていただきます。)


次に、専門家のみならず、一般の人々にも鮮烈な印象を与えた、「夜店」の仕事である「超国家主義の論理と心理」について。自身の論文の書き方や speed を問われて曰く、

 「超国家主義の論理と心理」は、準備も含めて一週間ですね。だから「力作」なんて言われるのは、恥ずかしいものです。こうやって紙にちょこちょこ書いて、こうやって線を引っ張っていって、こうやってくっつけて、そしてそれを見ながらサァーッと書いていっちゃうんです。
 ああいう芸当はもうできないですね。非常に創造力が枯渇したということを感じますよ。歳もとったし。それからやっぱり溜まっていたものが吹き出したんですね、あの頃は。だから早い[ママ]。この頃は 〔無理して〕 絞り出す方です。*2


最後に、最もよく知られ、最もよく読まれているであろう論文である「日本の思想」(と、『日本政治思想史研究』) について。ここでは文体について問われて曰く、

 僕は全部一応必要な穴を埋めないと書けないでしょ。で、穴を埋めて、部屋中散らかして、そしてこうやって史料を眺めていて、この上にこれが来るというように積み重ねていくんですね、だんだん。それで済んだ史料はこっちへ重ねておくという風にして組み立てていくわけです。だから終わりの文を先に書いたり、中途が先にできたりして、そしてその間をまたつなげていく、という風にして全体ができるんですけれど、そうじゃない書き方をする場合もあるんですね。つまり、自分の思索の進んでいく方向をそのまま文章にしちゃうという。「日本の思想」なんてそうです。結論が出ていないで、こうかな、なんていうのがそのまま文章になっちゃう。だから藤田 [省三] 君が全く破調であるなんて言ったのは当たっているんだ。非常にスタイルが崩れている。まとまらないんです。あのくらい困ったものはない。九〇ページぐらいで日本の思想なんて、無理ですよ。(笑) あれはもう、清水幾太郎先生の独裁ですよ。「丸山さん! 序論・日本の思想」って言うんで…。無茶苦茶ですよ。どうにもしょうがないから何でも書き出していけってんで、書き出した。そういうのもある。
 大体は、年ごとに並べておいて、そして組み立てていくんですけれど。はじめの部分はきちっとしなければいかん… それで、つじつまを合わせちゃって。さっきの素行と仁斎というのを先にくっつけて、だんだん、だんだん崩れていくように、作っちゃう。(笑) だから虚構って言ったのは当たっているな。吉本 [隆明] 君が実在感がないという、虚構だという。ただ、その解釈の批評にはちょっと異議があるんですよ。つまり第一級の思想家を書くのが得意だっていうやつね。あれは僕として異議があるの。僕が書きたいのは、もっと雰囲気みたいなもの。雰囲気を全体として書ける能力はちょっと僕はあると思わないけれど。*3


どれも面白い話ですね。丸山さんは、どうやら書き始めるまでは時間がかかって、書き出すと一気に書き上げるという感じだったみたいですね。


以上の記述に関し、何か間違っていたり、勘違いしたことを述べておりましたら謝ります。すみません。

*1:「生きてきた道」、75-76ページ。

*2:「生きてきた道」、79ページ。

*3:「生きてきた道」、110-111ページ。