先日購入した次の本を読み始めたら、
集合が具体的対象ではなく、抽象的対象であることを論証している部分があった。そこを読むと、八木沢先生の言葉をそのまま使って先生の論証を、ひょっとすると論破できそうに生意気にも感じられました。そこで、以下にその駁論を記してみます。最初に八木沢先生の論証を抜き出して引用し、その後に反論を記します。言うまでもありませんが、私の記す反論は間違っている可能性が非常に高いです。それが正しいという保証はございません。私自身もその反論を暫定的なものと考えております。あるいは反論が暫定的に正しいとしても、八木沢先生の論証を論破することまではできておらず、先生の論証に何か問題があることを示唆しているだけなのかもしれません。(それを示すことができているだけでも、十分立派なことかもしれませんが…。) いずれにせよ興味がある方は、以下の立論と反論を比較、対照してご検討ください。そしてご自分なりの見解をお考えください。私の記述について、含まれているであろう誤りに対し、あらかじめお詫び申し上げます。
八木沢先生
Thesis: Sets Are Abstract Objects.
メンバーが何であろうと、集合は抽象的対象である。マリコは具体的対象でマモルも具体的対象だが、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は具体的対象ではない。それを手短に証明しよう。その手段として帰謬法 (背理法とも言う) を使う。[…]
まず、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合が具体的対象だと仮定する。ならば、その集合はマリコとマモルを部分として持つ全体である (それ以外のまともな可能性は考えられない)。すなわち「x は y のメンバーである」という関係は、「x は y の部分である」という関係と同じである。[…]
[…] 物理的全体に関してここで重要なのは、「x は y の部分である」という関係は推移的であるということだ。[…] たとえば、マリコの左目はマリコの部分であり、マリコはマリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。よって、マリコの左目はその全体の部分である。
よって (マリコとマモルをメンバーとする集合は、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体だという仮定に基づき)、マリコの左目はマリコとマモルをメンバーとする集合のメンバーである。だが、その集合はマリコとマモルというふたつのメンバーのみから成っており、それ以外のメンバーはない (これは、集合の同一性はそのメンバーの同一性によって決定されるという集合論の公理から帰結する)。つまり、マリコの左目はメンバーではない。よって、マリコの左目はマリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーであり、かつメンバーではない。これは矛盾である。ゆえに帰謬法により、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は具体的対象ではない。
というわけで集合は抽象的対象である。[…]*1
Professor Pseudo-Leśniewski
Antithesis: Sets Are Not Abstract Objecs.
部分が何であろうと、集合は具体的対象である。マリコは具体的対象でマモルも具体的対象だが、マリコとマモルを部分として持つ集合は抽象的対象ではない。それを手短に証明しよう。その手段として帰謬法 (背理法とも言う) を使う。[…]
まず、マリコとマモルを部分として持つ集合が抽象的対象だと仮定する。ならば、その集合はマリコとマモルを要素として持つ集合である (集合論において、集合に何かが含まれているならば、それはその集合の要素であるから)。すなわち「x は y の部分である」という関係は、「x は y のメンバーである」という関係と同じである。[…]
[…] 集合論上の集合に関してここで重要なのは、「x は y のメンバーである」という関係は推移的でないということだ。[…] たとえば、マリコの左目はマリコの要素であり、マリコはマリコとマモルを要素として持つ集合の要素である。しかし、マリコの左目はその集合の要素ではない。
よって (マリコとマモルを部分とする集合は、マリコとマモルを要素として持つ集合だという仮定に基づき)、マリコの左目はマリコとマモルを部分とする集合の部分ではない。だが、その集合はマリコとマモルというふたつの部分のみならず、それ以外の部分からも成る (これは、全体の同一性はその部分の同一性を一意的に決定しはしないという考えから帰結する)。つまり、マリコの左目はマリコの部分である。そして、マリコは、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。かつ部分であるという関係は推移性を満たす。したがって、マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。よって、マリコの左目はマリコとマモルを部分として持つ集合の部分であり、かつ部分ではない。これは矛盾である。ゆえに帰謬法により、マリコとマモルを部分として持つ集合は抽象的対象ではない。
というわけで集合は具体的対象である。[…]
Synthesis: Are Sets Abstract Objects? Yes or No? It's Your Turn to Choice.
Yes or No. Check the Correct Answer.
ここで Thesis と Antithesis を若干形式化し、文の順序を幾分入れ換え、少し補足を加え、再構成したものを次に掲げます。なお、以下に見られる形式化が、唯一可能な形式化であるというわけではございません。「例えば一つにはこのような感じにでもなるだろうか」というぐらいのものです。
Thesis: Sets Are Abstract Objects. Semi-Formal Version.
(1) 集合に注目した仮定:
マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は、具体的対象である。
⇔ マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体である。(逆も真である。)
(2) 集合への所属・包摂関係に注目した仮定:
x は y のメンバーである。⇔ x は y の部分である。
(3) 「x は y の部分である」という関係は推移的である。(事実・真理)
(5) マリコは、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。(1), (2) により。
マリコは、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーであり、かつ集合は物理的全体であるならば、マリコは、マリコとマモルをメンバーとして持つ物理的全体のメンバーであり、かつメンバーであることは、部分であることならば、(5) マリコは、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。
(6) マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。(4), (5), (3)
マリコの左目は、マリコの部分であり、マリコは、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分であるならば、部分関係は推移性を満たす故に、(6) マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。
(7) マリコとマモルをメンバーとして持つ集合 = マリコとマモルを部分として持つ物理的全体 (1)
(8) マリコの左目は、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合の部分である。(6), (7)
(9) マリコの左目は、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーである。(8), (2)
(10) マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は、マリコとマモルというふたつのメンバーのみから成っており、それ以外のメンバーはない。(1), 外延性公理
(11) マリコの左目は、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーではない。(10)
(12) マリコの左目は、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーであり、かつメンバーではない。(9), (11)
(13) これは矛盾である。(12)
(14) マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は、具体的対象ではない。(13), (1)
(15) 集合は抽象的対象である。(14)
Antithesis: Sets Are Not Abstract Objects. Semi-Formal Version.
(1) 集合に注目した仮定:
マリコとマモルを部分として持つ集合は、抽象的対象である。
⇔ マリコとマモルを部分として持つ集合は、マリコとマモルを要素として持つ集合である。(逆も真である。)
(2) 集合への所属・包摂関係に注目した仮定:
x は y の部分である。⇔ x は y のメンバー (要素) である。
(3) 「x は y のメンバーである」という関係は推移的ではない。(集合論上の真理)
(5) マリコは、マリコとマモルを要素として持つ集合の要素である。(1), (2)
マリコが、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分であるならば、マリコは、マリコとマモルを要素として持つ集合の部分であり、かつ部分であることが要素であることならば、(5) マリコは、マリコとマモルを要素として持つ集合の要素である。
(6) マリコの左目は、マリコとマモルを要素として持つ集合の要素ではない。(4), (5), (3)
(7) マリコとマモルを部分として持つ集合 = マリコとマモルを要素として持つ集合 (1)
(8) マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分ではない。(6), (7), (2)
(9) マリコとマモルを部分として持つ集合は、マリコとマモルというふたつの部分のみならず、それ以外の部分からも成る。(事実・真理)
(10) マリコの左目は、マリコの部分である。(4), (2), or (9)
(11) マリコは、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。(1)
(12) 「x は y の部分である」という関係は推移的である。(事実・真理)
(13) マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。(10), (11), (12)
(14) マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分であり、かつ部分ではない。(8), (13)
(15) これは矛盾である。(14)
(16) マリコとマモルを部分として持つ集合は、抽象的対象ではない。(15), (1)
(17) 集合は具体的対象である。(16)
こうしてみると、八木沢先生の立論と、それに対する反論は、ほとんど双対になっているかのような対照性を持っていることがわかります。どうしてこのようになっているのかは、よくわかりませんが、一つ明らかに言えることは、先生の立論ではいわゆる collective class の観念と distributive class の観念を、よく言えばうまく効果的に利用している論証となっており、悪く言えばそれらふたつの観念を混ぜこぜにした論証になっているように思われます。混ぜこぜになっているために、先生の立論は、わかりやすいようでいて、わかりにくい感じを醸し出しているように思われます。ひょっとするとですが、先生の帰謬法による論証が機能しているのは、これら collective class の観念と distributive class の観念という相反する観念を混同して使用することで矛盾が生じているからなのかもしれません。したがって、これら二つの観念をきれいに分離してしまうと、先生の論証では帰謬法が働かなくなるかもしれません。しかし今の私には、この私の分析、予想が正しいかどうか、よくわかりません。この私の分析、予想はまったく間違っているかもしれません…。そのようでしたら大変すみません。何にせよ、Antithesis が Thesis を完全に論破しているのか、それは私にはわかりませんが、もしも Thesis と Antithesis が互いにすっかり双対になっているのならば、一方が倒れる場合には他方も倒れ、一方が倒れているのに他方が倒れない、ということはなさそうに思われますので、一方が他方を論破しているということは、ないのかもしれません。その場合、少なくとも以上のような Antithesis がそれなりにもっともであるとするならば、Thesis の説得力を減じせしめる結果とはなっているものと思われます。つまり、その時、Thesis は見た目ほどの説得力を持ってはいない、ということになるように考えられます。だとすれば、Thesis を補強し直すか、Thesis を完全に切り崩す更なる論証を考案せねばならないものと思われます。
最後に、形式化する前の Thesis と Antithesis の異同を明示しておきますので参考にしてください。
Thesis: Sets Are Abstract Objects. Collated Version.
メンバーが何であろうと、集合は抽象的対象である。マリコは具体的対象でマモルも具体的対象だが、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は具体的対象ではない。それを手短に証明しよう。その手段として帰謬法 (背理法とも言う) を使う。[…]
まず、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合が具体的対象だと仮定する。ならば、その集合はマリコとマモルを部分として持つ全体である (それ以外のまともな可能性は考えられない)。すなわち「x は y のメンバーである」という関係は、「x は y の部分である」という関係と同じである。[…]
[…] 物理的全体に関してここで重要なのは、「x は y の部分である」という関係は推移的であるということだ。[…] たとえば、マリコの左目はマリコの部分であり、マリコはマリコとマモルを部分として持つ物理的全体の部分である。よって、マリコの左目はその全体の部分である。
よって (マリコとマモルをメンバーとする集合は、マリコとマモルを部分として持つ物理的全体だという仮定に基づき)、マリコの左目はマリコとマモルをメンバーとする集合のメンバーである。だが、その集合はマリコとマモルというふたつのメンバーのみから成っており、それ以外のメンバーはない (これは、集合の同一性はそのメンバーの同一性によって決定されるという集合論の公理から帰結する)。つまり、マリコの左目はメンバーではない。よって、マリコの左目はマリコとマモルをメンバーとして持つ集合のメンバーであり、かつメンバーではない。これは矛盾である。ゆえに帰謬法により、マリコとマモルをメンバーとして持つ集合は具体的対象ではない。
というわけで集合は抽象的対象である。[…]
Antithesis: Sets Are Not Abstract Objects. Collated Version.
部分が何であろうと、集合は具体的対象である。マリコは具体的対象でマモルも具体的対象だが、マリコとマモルを部分として持つ集合は抽象的対象ではない。それを手短に証明しよう。その手段として帰謬法 (背理法とも言う) を使う。[…]
まず、マリコとマモルを部分として持つ集合が抽象的対象だと仮定する。ならば、その集合はマリコとマモルを要素として持つ集合である (集合論において、集合に何かが含まれているならば、それはその集合の要素であるから)。すなわち「x は y の部分である」という関係は、「x は y のメンバーである」という関係と同じである。[…]
[…] 集合論上の集合に関してここで重要なのは、「x は y のメンバーである」という関係は推移的でないということだ。[…] たとえば、マリコの左目はマリコの要素であり、マリコはマリコとマモルを要素として持つ集合の要素である。しかし、マリコの左目はその集合の要素ではない。
よって (マリコとマモルを部分とする集合は、マリコとマモルを要素として持つ集合だという仮定に基づき)、マリコの左目はマリコとマモルを部分とする集合の部分ではない。だが、その集合はマリコとマモルというふたつの部分のみならず、それ以外の部分からも成る (これは、全体の同一性はその部分の同一性を一意的に決定しはしないという考えから帰結する)。つまり、マリコの左目はマリコの部分である。そして、マリコは、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。かつ部分であるという関係は推移性を満たす。したがって、マリコの左目は、マリコとマモルを部分として持つ集合の部分である。よって、マリコの左目はマリコとマモルを部分として持つ集合の部分であり、かつ部分ではない。これは矛盾である。ゆえに帰謬法により、マリコとマモルを部分として持つ集合は抽象的対象ではない。
というわけで集合は具体的対象である。[…]
以上です。私が間違っておりましたら大変すみません。八木沢先生にもお詫び申し上げます。「集合とはそもそもいったい何なのか」という問題は、以前から問い続けられている問題であり、私がこの問題について間違っていたとしても不思議ではないと思います。何より私の能力不足がそうさせているのです。誤解、無理解、誤字、脱字等、何卒お許しください。勉強に精進致します。
*1:八木沢、34-35ページ。