Why and How Does Quine Identify Individuals with Their Unit Classes?

前回の日記で説明しましたが、Leśniewski にとり singleton は、その唯一の要素であるもの (object) と等しいのでした*1。言い換えると、Leśniewski はものを、それ自身だけから成る singleton と同一視しています。このように、ものとそのものから成る singleton を同一視するという、いささか奇妙な見解は、Leśniewski という異端的とも見える型破りな logician だからこそできたことのようにも思われますが、分析哲学の正統派であり大御所でもあった有名な Quine も singleton とそれに含まれているものとを同一視しています。例えば Quine が執筆したある書評で、彼は 'we identify individuals with their unit classes' と述べています*2。しかし彼は Leśniewski と同じ根拠から、ものとそのものから成る singleton とを同一視しようと言っているのではなく、Leśniewski とはまったく別の根拠から、ものである個体を singleton すなわち unit class と同一視しよう、と言っています。

それではどのようにして Quine は、個体を、それからなる unit class と同一視するというのでしょうか、そのことを幾分多めに敷衍しつつ、説明してみましょう。これから記す話は、Quine の次の諸文献を参考にしています。

  • ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン  『集合論とその論理』、大出晁、藤村龍雄訳、岩波書店、1968年、27-30ページ、
  • W. V. O. クワイン  『論理学の方法』、原書第3版、中村秀吉、大森荘蔵、藤村龍雄訳、岩波書店、1978年、273-274ページ、
  • Willard Van Orman Quine  ''New Foundations for Mathematical Logic,'' in his From a Logical Point of View: 9 Logico-Philosophical Essays, Second Edition Revised, Harvard University Press, 1953/1980, pp. 81-82, and p. 82, fn. 2, 邦訳、「数理論理学の新しい基礎」、『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』、飯田隆訳、双書プロブレーマタ II-7, 勁草書房、1992年、121, 151ページ、註(2), あるいは、「数理論理学のあたらしい基礎」、『論理学的観点から 9つの論理・哲学的小論』、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1972年、102ページとそこでの脚注(2).


これらの文献の該当 page に書かれている内容を当方で反芻し、換骨奪胎して、煎じ詰めた結果をこのあと記すことに致します。そのため、以下に記している内容と一字一句同じことが上記の Quine の諸文献にそのまま現れているというわけではございません。上記諸文献の叙述を当方で咀嚼し、一部を省き、一部を補足して、理路整然とまとめ直したものを提示致します。なお、これ以降では、本来引用符が必要な場合でも、それを省いて記します。加えて、私は Quine の専門家ではございません。それゆえ、間違ったことを書いている可能性が非常に高いので、絶対に鵜呑みにしないでください。上記の文献の一つである ''New Foundations ... '' に描かれている集合論の一種 NF に関連してくる話を以下ではするのですが、正直に言いまして、私はこの NF のことをよく知りません。したがって、以下の話は暫定的なものとお考えください。いずれにせよ、このあとの話が間違ってないかどうか、慎重に慎重を重ねつつ、論述を追跡していただければ幸いです。あらかじめ含まれているであろう多くの間違いに対し、ここでお詫び申し上げたいと思います。


さて今、個体と class を念頭に置いて話をすることにしましょう。そして class と set を区別せず、class についてだけ語ります。また、個体も class もそれが何であるか、さしあたり既知であるとします。加えて、通常通り、null class の存在を認め、それは何も member を持たない class であるとします。


まず前提としたい一つ目のことは、

    • (1) 個体は member を持たない、個体には member は属さない、


ということです。これは私たちの直観に適っているでしょう。個体とは、何か充溢、充満し、内部構造のない atom のようなものと捉えられているのではないでしょうか。


次に前提としたい二つ目のことは、

    • (2) 成員関係 ∈ の現れている式 x ∈ y の y に class のみならず、個体が来た場合も、今の式はいみを持ち、真偽を問い得るようにしたい、


ということです。形式的に言えば、式 x ∈ y の x, y に来る表現に制限を課さず、何かの名前であれば何であれ代入できるように一般化したい、ということです。内容的に言えば、これは x ∈ y の x と y に type の区別を設けないようにしたい、ということです。簡単に言えば、存在しているものの間に、何か level とでも言うべき段階的な種類分けをしない、ということです。例えば、x ∈ y の x に level 1 の存在様態を持っているとでも言えるようなものが来たとすると、y には level 2 の存在様態を持っているとでも言えるようなものが来なければ、x ∈ y という式は無意味になる、というようなことはしない、ということです。具体的には x ∈ y の x には個体が来た場合、y には個体よりも level の一つ上のものが来なければならない、というようなことはしない、ということです。つまり x ∈ y という式の x, y には、どんな種類のものが来てもよく、それらには個体でも class でも、存在しているものなら何が来てもよい、とすることです。通常、存在しているものの中には、互いにその在り方を根本的に異にするものたちがあって、しかもそれらが段階的に秩序付けられているとは、一般に思われていないでしょうから*3、以上の (2) という前提は不自然ではないでしょう。とはいえ集合論の初歩を学ぶ際、私たちは x ∈ y の y にはもっぱら class が来ると教えられると思います。これに対して式 x ∈ y の y のところに個体を持って来た場合、今の式を ill-formed ともせず、かつ無意味ともしないとするなら、x ∈ y の真偽はどうなるのかと言うと、その式は偽になると考えます。なぜなら個体には何の member も属さないでしょうから、何かが個体に属するということは、どんな場合も偽になる、と考えられるからです。よって今の式 x ∈ y の x に何が来ようとも、y のところに個体が来ただけで、いわば自動的にその式は偽となるということです。

ここで、今の式 x ∈ y の y のところに null class が来た場合も、まったく同じ結果になるということに注意しておきます。式 x ∈ y の y に個体が来た場合も、この式は必ず偽となりますが、null class が来た場合も同じく偽となります。Null class には、個体と同様、何の member も属さないからです。


最後に前提としたい三つ目のことは、成員関係 ∈ を支配している規則であり、一般に受容されている外延性 (extensionality) の公理

    • AE: (x)( x ∈ y .≡. x ∈ z ) ⊃. y = z  (y に属するもの x がどれも z に属し、逆も成り立つならば、y と z は同一である。)


に関することで、

    • (3) AE: (x)( x ∈ y .≡. x ∈ z ) ⊃. y = z における ∈ の右辺に個体が来た場合も、この公理が成り立つ、


とすることです。言い換えると、class だけでなく、個体に関しても、それに何かが属するとした場合、外延性の公理が成り立つとすること、あるいは簡潔に、個体は外延性の公理に従う、とすることです。これは前提 (2) における ∈ の処置を受け、個体が AE の y, z に来た場合も、AE が成り立つことを要求している、ということです。

以上の通り、三つのことがら (1), (2), (3) を前提としたいのですが、Quine によると、これでは不都合が生じるということです。では、どのような不都合が生じるのでしょうか。


今、AE に現れている ∈ の右辺 y と z, および AE の後件の y, z に member を持たないものが来たとしましょう。Member を持たないものには二つありました。個体と null class です。もしも今の y と z に null class が来た場合、どのようになるでしょうか。A と B を null class としてみましょう。すると AE は次のようになります。

    • (x)( x ∈ A .≡. x ∈ B ) ⊃. A = B.


この式の x ∈ A における x に何が来たとしても、x ∈ A の A は null class なので、x ∈ A は偽になります。x ∈ B についても同様に偽になります。したがって、今の式の前件 (x)( x ∈ A .≡. x ∈ B ) は真になって成り立ちます。よって今の式の後件 A = B が帰結します。A = B とは、A という null class と B という null class が等しく、A, B は任意の null class なので、どの null class も互いに等しく、それらは結局みんな同じなので、null class は一つしかない、ということを言っています。私たちは集合論の初歩の段階で、null class は一つしかない、と学んでいますので、ここまでの話に何の不都合もありません。では、AE の y と z に null class ではなく個体が来た場合はどうなるでしょうか。a と b を個体とするならば、AE は次のようになります。

    • (x)( x ∈ a .≡. x ∈ b ) ⊃. a = b.


個体である a, b は member を持たないので、x に何が来るとしても、x ∈ a も x ∈ b も、ともに偽になります。よって直前の式の前件は真になって成り立ちます。したがってその式の後件 a = b が帰結します。この a = b は何を言っているのでしょうか。a, b は任意の個体です。それらがどれも互いに等しいということです。これは二つ上にある式 の null class A, B の時と同様、個体はあったとしても一つしかない、ということを言っていることになります。この世に存在する個体という個体は、どれもこれも実は互いに等しく、故に一つしか存在しない、ということです。これでは個体というものが、あたかも Parmenides の The Great Fact であるかのようです。これはいかにも信じがたい話でまったく不都合です。これが Quine の言う不都合です。


このような不都合が出てきたのは、一つには、∈ の右辺に個体が来るだけで、∈ を含んだ式はただちに偽になるとしたことにあると推測されます。そこで Quine は ∈ の右辺に個体が来た場合の真理条件を変更します。

今までは x ∈ y の y に個体が来た時は、いわば自動的にこの式は偽となるとされていました。これに対し Quine は x ∈ y の y に個体が来た時は、その式の x が y である時、式 x ∈ y は真で、x が y でなければ式 x ∈ y は偽であると約束するのです。例を使って言い換えると、式 x ∈ y の y に個体 a が来るとします。つまり、x ∈ a とします。この時、x = a ならば、x ∈ a は真で、x ≠ a ならば、x ∈ a は偽であるとするのです。これは要するに、成員関係 ∈ の右辺に個体が来た時は、成員関係を同一性 = に読み換えよ、と約束するということです。

さて、Quine の言う不都合とは、y と z が異なる個体であっても、AE によれば、それらが等しいことが帰結してしまう、ということでした。今述べたような ∈ に関する読み換えを AE に施すならば、AE の y と z に個体が来た時、y と z が同一の個体ならば、y = z であることが言え、y と z が異なる個体ならば、y = z が言えない、ということが、確認できるでしょうか。これが確認できれば Quine の言う不都合が克服されたことになります。


まず y と z が同じ個体の場合、y = z が確かに帰結することを見てみます。例えば、

    • AE: (x)( x ∈ y .≡. x ∈ z ) ⊃. y = z


の y を個体の Petrus Hispanus とし、z を個体の Pope John XXI としてみましょう。ちなみに、Petrus Hispanus と Pope John XXI は、同一人物です*4。そうすると、

    • (x)( x ∈ Petrus Hispanus .≡. x ∈ Pope John XXI ) ⊃. Petrus Hispanus = Pope John XXI


となります。この式では ∈ の右辺に個体が来ているので、∈ に関する読み換えを施してやれば、

    • (x)( x = Petrus Hispanus .≡. x = Pope John XXI ) ⊃. Petrus Hispanus = Pope John XXI


となります。この式で言われていることは、次のようなことです。すなわち、Petrus Hispanus に等しい人物は誰であれ Pope John XXI に等しく、かつ Pope John XXI に等しい人物は誰であれ Petrus Hispanus に等しいのならば、Petrus Hispanus と Pope John XXI は同一人物である、ということです。そして、この式の前件は、実際に真です。故に、この式の後件

    • Petrus Hispanus = Pope John XXI


が帰結します。そして確かにこの帰結した式も真です。こうして AE における二つの ∈ の、その右辺それぞれに、同一個体が来た場合も AE が成立することがわかります。


ここまでは、AE の y と z が同じ個体である場合を見てみました。今度は、AE の y と z が異なる個体である場合を見てみます。

    • AE: (x)( x ∈ y .≡. x ∈ z ) ⊃. y = z


の y を Petrus Hispanus とし、z を個体の Petrus Lombardus としてみます。なお、Petrus Hispanus と Petrus Lombardus は別人です*5。そうすると、

    • (x)( x ∈ Petrus Hispanus .≡. x ∈ Petrus Lombardus ) ⊃. Petrus Hispanus = Petrus Lombardus


となります。ここで ∈ に関する読み換えを施すと、

    • (x)( x = Petrus Hispanus .≡. x = Petrus Lombardus ) ⊃. Petrus Hispanus = Petrus Lombardus


になります。この式が言わんとしているのは、Petrus Hispanus に等しい人物は誰であれ Petrus Lombardus に等しく、かつ Petrus Lombardus に等しい人物は誰であれ Petrus Hispanus に等しいのならば、Petrus Hispanus と Petrus Lombardus は同一人物である、ということです。そこで、ここの x を Petrus Hispanus に等しい Pope John XXI で普遍例化してやると、

    • ( Pope John XXI = Petrus Hispanus .≡. Pope John XXI = Petrus Lombardus ) ⊃. Petrus Hispanus = Petrus Lombardus


になります。すると直前の式の前件同値式の、その左辺は真であるにもかかわらず右辺は偽になっています。これは二つ前の式における前件の普遍量化文に対し、反例が示されているということです。よって直前の式の前件全体は偽になり、その後件である

    • Petrus Hispanus = Petrus Lombardus


は帰結しません。ただし、それでも一応、二つ上にある条件文は、前件が偽である故、全体として真になり、AE としては成り立っています。いずれにせよ、ここでは Quine の言う不都合、異なる個体同士が同一の個体である、という結論は回避できていることがわかりました。


こうして Quine の言う不都合である Parmenides の The Great Fact は避けられたように思われますが、しかし、この地点でいったん立ち止まって反省してみますと、疑問がわいてきます。そもそも個体とは一体何であったでしょうか。思い出してみるに、個体とは、実質、null class ではなかったでしょうか。とすると、個体の名とされているものは、実際にはどれも null class を指しており、先ほどからの AE における y と z に個体の名を置けば、Quine による ∈ の = への読み換えにもかかわらず、結局元に戻って null class はただ一つで、それ故最終的に個体もただ一つということに帰着してしまうのではないでしょうか。例えば、四つ上にあった式、

    • (x)( x ∈ Petrus Hispanus .≡. x ∈ Petrus Lombardus ) ⊃. Petrus Hispanus = Petrus Lombardus


の、Petrus Hispanus 等、個体の名とされているものを、その実質である null class の名に置き換えてみましょう。Null class の名を ø とすれば、今の式は

    • (x)( x ∈ ø .≡. x ∈ ø ) ⊃. ø = ø


となります。この式の前件の同値式の両辺はどちらも偽ですから、この式の前件は全体として真であり、よって後件 ø = ø が出て、この後件は成り立ち、真です。そしてこの後件の言っていることは、null class がどれも等しくただ一つしかない、ということです。Petrus Hispanus と Petrus Lombardus は異なる個体であるにもかかわらず、Petrus Hispanus = Petrus Lombardus となってしまいました。これでは振り出しに戻ってしまっていることになります。


そうすると、Quine のやったように、∈ を = と読み換えることによって The Great Fact の襲来を防ぐには、今述べた読み換えだけでは不十分であり、個体を実質的にも null class としないことが求められると考えられます。では、この場合、個体を null class でなくて何とすればよいでしょうか。


この問題に対する Quine の答えは次の通りです。彼によると、個体は unit class の一種と見なされて差し支えないと言います。AE の y, z に個体が来た場合も、AE が例外なく成り立つものとして、個体も class の一種、つまり unit class と見なして構わない、個体とは、その個体のみを member に持つ unit class に他ならない、と言うのです。これは初めの方に上げました前提の

    • (1) 個体は member を持たない、個体には member は属さない、


ということの否定です。この前提を否定し、犠牲に供することで、The Great Fact の襲来から身を守ろうというわけです。

翻ってそもそも AE における ∈ の右辺に来る y, z は、何らかの class であることが意図されていましたし、y, z が class である場合にこそ、AE は私たちの興味を引くものです。この点を考慮して、具体的には次のように Quine は考えます。すなわち、

    • AE: (x)( x ∈ y .≡. x ∈ z ) ⊃. y = z


の y を個体 a とし、 z をその a だけから成る unit class {a} であるとすると、AE は以下のようになります。

    • AEI: (x)( x ∈ a .≡. x ∈ {a} ) ⊃. a = {a}.


ここで AEI の前件を証明してみます。まず ⊃.
さて、x が何であれ、x ∈ a を成り立たせる場合には、x ∈ {a} も成り立たせることになるでしょうか。x ∈ a が成り立っている場合とは、a が個体なので、この式は読み換えられて、x = a の場合となります。この場合、x ∈ {a} も成り立たせることになるのかと言うと、成り立たせることになります。と言うのも、この最後の式の x に a を代入すれば a ∈ {a} となって、実際この式は成り立っていることが確認できます。


次に AEI 前件の ⊂.
今度は逆に、x が何であれ、x ∈ {a} を成り立たせる場合には、x ∈ a も成り立たせることになるでしょうか。x ∈ {a} を成り立たせる場合とは、{a} が a だけから成る unit class なので、x が a に他ならない場合であり、それはつまり x = a の場合、ということになります。そうすると、x = a の時、x ∈ a も成り立たせることになるのかと言うと、成り立たせることになります。というのも、x = a ならば、x ∈ a は a ∈ a であり、a は個体でしたから、この式は読み換えられて a = a となって、この最後の式は、もちろん成り立ちます。

よって、x ∈ a .⊃. x ∈ {a} かつ x ∈ {a} .⊃. x ∈ a となり、したがって x ∈ a .≡. x ∈ {a} であって、どの x についても、最後の同値式は成り立つので、(x)( x ∈ a .≡. x ∈ {a} ) となります。これは上記 AEI の左辺です。よってその右辺 a = {a} が出ます。これはつまり、個体はそれから成る unit class に等しい、ということです。


以上のようにすると、個体は null class でないのはもちろん、個体同士も互いに異なって、個体は一つしかない、ということもなくなります。例えば、Petrus Hispanus と Petrus Lombardus が異なる個体なら、unit classes { Petrus Hispanus } と { Petrus Lombardus } も、もちろん異なり、この逆も成り立ちます。こうして Quine によると、個体とは unit class に他ならず、かつ unit class は個体に他ならない、ということになります。もしも class を基本と考えるならば、個体とは、畢竟、class の一種に他ならないのだから、この世に存在するものは、それらがすべて個体であるならば、どんな個体も実は全部 class に他ならず、在るものはどんなものでもすべて class なのだ、class しかこの世には存在しないのだ、ということになります。


このことは先ほども申しました通り、前提

    • (1) 個体は member を持たない、個体には member は属さない、


の否定の結果、出てくるものです。しかし、私たちは個体を何か充溢、充満したもので、内部構造を欠いたような何かと捉えていると思われますし、だとすると、(1) の否定である個体は member を持つもので、それは unit class に他ならない、とすることは、不自然ではないでしょうか。そのようにも感じられますが、これは必ずしも不自然だとは言い切れない事例があります。その事例を見れば、私たちは一見不自然だと感じている「個体 = unit class」という等式を、普段から遵守、実践していることがわかります。今の等式を何ら意識することなく当たり前のように前提にして私たちは生きているのです。その事例とは、写像/関数に関する基本的な事柄です。ここで写像/関数に関する初歩的な事実を確認してみましょう。以下の引用は

  • 松坂和夫  『集合・位相入門』、岩波書店、1968年

に依ります。


まず、対応の概念を確認します。

 A, B を2つの集合とし、ある規則 Γ によって、A の各元 a に対してそれぞれ1つずつ B の部分集合 Γ(a) が定められるとする。(Γ(a) のうちには同じものがあってもよい。すなわち a ≠ a' に対して、Γ(a) = Γ(a') となることがあってもよい。また Γ(a) = ø となるような a があってもよい [ø は空集合]。) そのとき、その規則 Γ のことを A から B への対応といい、A の元 a に対して定まる B の部分集合 Γ(a) を、Γ による a のという。また、A, B をそれぞれ対応 Γ の始集合終集合という。*6


次にグラフの概念。

 Γ を A から B への対応とするとき、直積 A × B の部分集合


     { (a, b) | a ∈ A, b ∈ Γ(a) }


を、Γ のグラフといい、G(Γ) と書く。*7


続いて、定義域、値域の概念。

 対応 Γ: A → B のグラフを G とするとき、(a, b) ∈ G となる b ∈ B が (少なくとも1つ) 存在するような A の元 a 全体のつくる A の部分集合を、Γ の定義域という。また、(a, b) ∈ G となる a ∈ A が (少なくとも1つ) 存在するような B の元 b 全体のつくる B の部分集合を、Γ の値域という。以下では、Γ の定義域、値域を、それぞれ D(Γ), V(Γ) で表わす。*8


最後に写像/関数の概念。この概念についての引用文が、この際重要です。

 A から B への対応 Γ は、次の性質 (*) をもつとき、特に A から B への写像 [あるいは関数] とよばれる。


     (*) A の任意の元 a に対して、Γ(a) は B のただ1つの元から成る集合である。


 条件 (*) が成り立つときは、当然 D(Γ) = A となっていること、すなわち、A から B への写像の定義域は A であることに、注意しなければならない。

[…]

 f を A から B への写像とすれば、A のどの元 a に対しても、その f による像 f(a) は B の1つの元 b から成る集合 {b} となっているわけであるが、この場合は、通常、({b} のかわりに) b を f による a のといい、また、f(a) = {b} と書くかわりに、単に、f(a) = b と書く。*9


直前の引用文の末尾をご覧ください。私たちが普段、しばしば書き下している

    • f(a) = b


という関数の式は、正確には、

    • f(a) = {b}


の略記なのだ、ということです。ここでは実質的に、

    • b = {b}


とされている、ということです。私たちがいつでも行っている関数的な操作、手続きでは、実質的に unit class をその member と同一視している、ということです。ありふれた関数の操作においてさえ、まったく自然に unit class をその member と同一視している、ということです。ですから、個体をそれだけから成る unit class と見なすことは、必ずしも不自然で特異な例外ではなく、当たり前のように行っていることの一つなのです。よって、Quine が考えるように、個体はそれから成る unit class に等しい、とすることは、正当性を欠くものではないと言えるでしょう。これが Quine により、個体をそれから成る unit class とする、補足を大幅に加えた上での、理由です。


以上で今回の話を終えようと思いますが、しかし、以上の通りだとしても、「はい、そうですね、わかりました。Quine 先生のおっしゃる通りです」と言って、話を済ますことができるかどうかは、わかりません。以上の話は、言ってみれば論理学上、あるいは集合論上の形式的な話のように見えます。私たちが哲学をしている場面で、「個体」と言っている時の個体が、実質的にも Quine 先生のおっしゃる通りのものと解していいかどうかは、何も検討する前に即断していい事柄ではありません。実際に、個体に関する過去の話題を調べ、かつ普段の私たちの個体に関する理解を子細に考えてみる必要があります。例えば、過去の哲学的文脈において the principle of individuation が問題になっている時に、実際問題になっているのは、Quine 先生の言う unit class なのでしょうか。そのように考えて、問題は生じないのでしょうか。あるいはそのように考えることによって、何か生産的な知見が得られるでしょうか。それに Quine 先生によると、この世に存在するあらゆるものは全部 class に他ならないということになりますが、これを認めるならば、私たちの世界に対する見方は大きく変わるでしょうか。何か齟齬は生じないのでしょうか。今の私にはわかりません。真の問題は、ここから始まると言っていいでしょう。私は今のところ能力も時間も欠いているので、これらの新たなる問題に挑むことができません。またそのうちそのようなことが可能な機会が生じたならば、取り組んでみたいと思います。ただし、そんな機会が来るのかどうか、はなはだ疑問ではありますが…。


それにしても、Leśniewski も Quine も、ともに unit class をその member と同一視することでは同じですが、Quine さんの考えの方が、何だか洗練されていますね。もちろん Leśniewski さんの方が悪いと言っているのではございません。洗練されているものの方が、しばしば fragile で、あか抜けていないものの方が、tough だったりすることは世の中でよくあることですので、Leśniewski さんが必ずしも悪いというわけではございません。


最後に。以上の話には、ひどい間違いが含まれている可能性が非常に高いです。絶対に素直に受け取ってはいけません。必ず Quine 先生の諸文献をひも解いていただいて、そこに書いてあることを理解していただき、その上で、以上の話が正しいかどうか、慎重にご自分でご判断ください。きっと間違いがあるはずです。誤解や無理解や勘違い、それに誤字や脱字などが含まれていましたらお詫び申し上げます。大変すみません。また勉強致します。


PS

今回の話題と関係のありそうな次のような興味深い文献があるようですが、

  • D. S. Scott  ''Quine's Individuals,'' in Ernest Nagel, Patrick Suppes, Alfred Tarski eds., Logic, Methodology and Philosophy of Science: Proceedings of the 1960 International Congress, Stanford University Press, 1962,

私にとって、たぶんこの論文は、未所蔵かつ未見です。推測ですが、この論文で明らかにされていることは、クワイン、『集合論とその論理』、大出晁、藤村龍雄訳、岩波書店、1968年、30ページ、脚注2で述べられていることなのかもしれません。


追記 2014年11月22日

現代において singleton に対し、哲学的に検討した諸文献の名前に関しては、前回2014年10月5日の日記項目 'For Leśniewski, Why Is a Singleton Identical with Its Only Element?' の末尾の追記において、触れています。追記終り。

*1:'object' のことを「もの」と訳していますが、もちろん「対象」と訳していただいても構いません。個人的な好みから「もの」としているだけです。深いいみはございません。

*2:W. V. Quine, ''[Review of] Kazimierz Ajdukiewicz, On the Notion of Existence. Some Remarks Connected with the Problem of Idealism. Studia Philosophica (Poznań), vol. 4 (for 1949-1950, pub. 1951), pp. 7–22.,'' in: The Journal of Symbolic Logic, vol. 17, no. 2, 1952, p. 142.

*3:ただし、存在するものが段階的に秩序付けられているとは思わないまでも、在り方が根本的に異なっているようなものが存在すると考えることは、あるかもしれません。心と身体のことを思い出してください。心は精神的なものであるのに対し、身体は物質的であって、心身は根本的に異なった在り方をしている、という信念は、現在も多くの人々に受け入れられている考えでしょう。また、存在するものに段階があるとする考えも、近年の analytical/analytic metaphysics では、しばしば語られている話ですが、存在するものの段階についても、その在りようの違いについても、今は置いておくことに致します。

*4:Petrus Hispanus と Pope John XXI とが、同じ人物であることは、よく知られていると思いますが、念のため、Petrus Hispanus と Pope John XXI が同一人物であることは、例えば次をご覧ください。山内志朗、『普遍論争 近代の源流としての』、平凡社ライブラリー 630, 平凡社、2008年、初版哲学書房刊1992年、巻末付録「中世哲学人名小事典」、d-101-d-102ページ、項目「ペトルス・ヒスパヌス」。なお、哲学書房版では、その巻末の人名事典、(57)-(58) ページです。

*5:両人が別人であることも言うまでもないでしょうが、詳しくは先の山内先生のご高著、巻末人名事典で項目「ペトルス・ロンバルドゥス」を引いてみてください。

*6:松坂、23-24ページ。

*7:松坂、24ページ。

*8:松坂、25-26ページ。

*9:松坂、27ページ。