Geach's Insolubilia, or a Curry-Like Paradox: Should We Ban the Rule of Contraction in the Basis of his Opinion?

先日、寝床で次の論文を少し読んで、ちょっと面白く感じました。

  • P. T. Geach  ''On Insolubilia,'' in: Analysis, vol. 15, no. 3, 1955, pp. 71-72, also in his Logic Matters, University of California Press, 1980, pp. 209-210.

眠気眼で読んだので、その時は細かいところがよくわかりませんでしたが、後で読み直して一通り理解しました。(あるいは理解したつもりでいます。) 今日はこの有名な短い論文を紹介し、ごく簡単な感想を記してみたいと思います。なお、私はこの方面の専門家ではありませんので、以下の私による説明には間違いが含まれているかもしれません。結構こまごまとしており、ややこしいので、その説明に誤りがある可能性がございます。また、この論文の感想のようなものを最後に一言述べますが、大した感想ではございません。誰でも思い付くような感想です。というわけで、以下の記述についてはあまり期待されないようよろしくお願い申し上げます。前もって私がなしている間違いに対し、お詫び致します。


さて、上記の Geach 先生の論文によりますと、意味論的 paradox の導出過程においては、否定記号が現れると言います*1。その導出過程の最後で次のような文言が、通常、出てきます。英語を交えて記しますと、


 故に、p if and only if not-p, これは不合理である。


です。しかし Geach 先生によりますと、この結果が不合理であるのは、この同値文から任意の文が引き出せてしまうから、ということです。というのも、任意のことが主張できるような理論は、game で言えば、それはどんな手でも許される game であり、そんな game では game にならない、game ができないから、ということです。


念のため、(#) p if and only if not-p から、任意の文を引き出してみましょう。今、排中律 p ∨ not-p が成り立つことを仮定しておきます。さて排中律の左選言肢 p が成り立つと仮定してみます。すると、trivial に p です。他方、排中律の右選言肢 not-p が成り立つと仮定してみます。すると、(#) により、p が出ます。したがって、p であるにしろ、not-p であるにしろ、どちらにせよ、p であると言えます。今度はもう一度、排中律の左選言肢 p が成り立つとしてみます。すると、(#) により、not-p が出ます。他方で排中律の右選言肢 not-p を仮定してみますと、trivial に not-p です。したがって、p であるにしろ、not-p であるにしろ、どちらにせよ、not-p であると言えます。こうしてここまでで、p と not-p の両方が出ました。よってこれら二つを連言で結べば p ∧ not-p となります。これは矛盾です。そしてこの矛盾した式からは、任意の式が出ます。p とも言えますし、not-p とも言えます。何を言ってもいいですし、何を否定してもいいです。これでは何でもありであり、裏返せば、何も言っていないに等しいことになります。


このようであるならば、paradox を防ぐ一つの手立てとしては、否定記号に対し、通常とは異なる特殊な解釈を施してやるか、もう一つの思い切った手立てとしては、そもそも当該の理論、論理においては、否定記号を削除してしまうということ、否定記号が出てこない、否定記号を持たない理論、論理を考えてやればよいだろうということです。


しかし、Geach 先生によるならば、否定記号を持たない論理においても、任意の式が引き出せる場合があるということです。その場合には、たとえ否定記号がなくとも、無力です。


それでは、たとえ否定記号がない論理においても、任意の式が引き出せることを証明してみましょう。Geach 先生の論証をそのまま引用し、それに試訳/私訳を付してみます。引用は Logic Matters から行ないます。Analysis 版と Logic Matters 版とでは、quotes と period の使い方が少し違うだけで、その他に差異はございません。読みやすいよう、こちらの判断で行間を開け、一部段落分けをして引用します。なお、言うまでもありませんが、私の訳には、誤訳が含まれている可能性が非常に大きいです。そのため、訳文だけを読むということは避けてください。英語原文で間に合う方は、そのようにしてください。わかりにくくてちょっと間に合わないという方のみ、和訳を参考にしてください。しかし参考にするだけで、絶対信頼しないようにしてください。和訳はほとんど直訳調ですが、一部で理解しやすいように砕いて訳しているところがございます。あらかじめ、含まれているはずの誤訳に対し、お詫びを申し上げます。そして、訳文の後に、部分的な解説を付します。

 Our construction begins with the formula:


 (1) The result of replacing W in w by quotation of w itself is true only if q.


 ''W'' here is a proper name of the variable ''w'', and is used instead of ' ''w'' ' to avoid complications about 'use and mention'. The interpretation of ''q'' is to be arbitrary, but constant. From (1) we now form:


 (2) The result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


 Now (2) is the result of replacing W (i.e. ''w'') in (1) by ''(1)'', which is short for actual quotation of (1); so (2) is short for the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself.
 On the naive view of truth, we are always entitled to assert what we get from ''If P is true, then p'' and ''If p, then P is true'' when we substitute a designation of a statement for ''P'' and an abbreviation of the same statement for ''p''. Hence, if we replace ''P'' by the designation ''the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself'', we may replace ''p'' by (2), an abbreviation of the statement thus designated. The naive view of truth thus commits us to the assertions:


 (3) If the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true, then the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


 (4) If the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q, then the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true.


In drawing inferences from the premises (3) and (4), I use just two forms of inference: modus ponens (schema: ''p, if p then r, ergo r'' or: ''p, p only if r, ergo r'') and absorption (schema: ''If p, then p only if r; ergo, p only if r'').
 We see first of all that if we apply the rule of absorption to (3), we are enabled to assert (2). But (2) is the antecedent of (4); and (2) and (4) yield by modus ponens:


 (5) The result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true.


 Finally, (5) and (2) yield by modus ponens:


 (6) q.


 We thus have a method of proving any arbitrary statement; which is absurd.


英語原文中にしばしば出てくる構文のパターン ''α only if β'' を直訳すれば、「β の場合に限り α」となりますが、以下の和訳では、理解のしやすさを考慮して、この構文パターンを「α ならば β」と訳しました。というのも、β の場合に限り α であるとは、β でなければ α ではない、ということであり、そうであれば今の文の対偶を取って α ならば β である、となるからです。具体例を一つ示しておくと、晴れの場合に限り日食観察会は開催されるのならば、晴れでなければ日食観察会は開催されない、ということであり、とすれば、日食観察会が開催されるならば、その時は晴れだ、ということになります。

 我々は論証の構成を次の式から始める。


 (1) w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


 ここでの ''W'' は、変項 ''w'' を指す固有名であり、「使用と言及」に関するややこしい事柄を避けるため、' ''w'' ' の代りに用いている。''q'' の解釈は任意であるが、固定されている。ここで (1) から我々は次を作る。


 (2) (1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


さて (2) は (1) の中の W (つまり ''w'') を ''(1)'' で置き換えた結果であり、この ''(1)'' は (1) の実際の引用に対する省略形である。だから (2) は (1) の中の W を (1) の引用で置き換えた結果に対する省略形である。
 素朴な真理観に基づけば、二つの文「もし P が真ならば、その時 p」と「もし p ならば、その時 P は真である」について、''P'' の代りに、ある言明を指しているものを用い、''p'' の代りに、同じその言明の短縮形を用いる時、我々は先の二つの文から手に入るものを主張してよいという資格が常にある。それゆえ ''P'' を「(1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果」が指しているもので置き換えるならば、''p'' を (2) で、つまり今述べたように指される言明の短縮形で置き換えてもよい。こうして素朴な真理観により、我々は次の主張にコミットすることになる。


 (3) (1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、その時、(1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


 (4) (1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、 q であるならば、その時、(1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果は真である。


前提 (3) と (4) から結論を引き出す際、私は推論の形式を二つだけ使う。すなわちモドゥス・ポネンス (図式: 「p, もし p ならば r, 故に r」あるいは「p, p であるのは r の場合に限る、故に r」) と吸収律 (図式: 「もし p ならば、その時 p ならば r, 故に p ならば r」) である。
 何より最初に気付くのは、吸収の規則を (3) に適用すると (2) を「主張」できるようになる、ということである。ところで (2) は (4) の前件である。すると (2) と (4) でモドゥス・ポネンスにより、次が出る。


 (5) (1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果は真である。


最後に、(5) と (2) でモドゥス・ポネンスにより、次が出る。


 (6) q.


こうして我々の手にする手段により、任意の言明が証明されるのだが、これは不合理である。

上記和訳中の文 (3), (4) 以下は、平易ですから説明を省き、(3), (4) が出てくるまでの文章を説明してみたいと思います。この部分が少しわかりにくいと思いますので…。なお、わかりやすい説明を心掛けたつもりですが、それでもかなりこまごまとした説明になっております。ある表現が、自分自身に言及していて、その表現が、ある表現の中に入っており、それが…, みたいな入り組んだ構造になっていますので、どうしても紛らわしく混乱を招きがちです。ゆっくりと、数回読み直してください。お手数おかけ致します。それでもわからなかったら、すみません。表現の使用と言及や引用に関しては、非常に微妙でわかりにくく、間違っておりましたら、すみません。時間がないなかで説明していますので、改めて書き直せば、もう少しうまく説明できたかな、とも思っておりますが…。


さて、具体例を通して上記の (1) の文について、その大よその雰囲気を理解してみようと思います。まず、


 (1) w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


でした。この文に関し、


 w = 「この文は日本語である」、

 W = 「この文」


としてみましょう。そして (1) の ''w'' に「「この文は日本語である」」を入れ、''W'' に「「この文」」を入れてみますと、


 (1.1) 「この文は日本語である」の中の「この文」を「この文は日本語である」自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


となります。(1) は具体的には (1.1) のような感じのことを述べている文だとわかります。さて (1.1) の前件


 (1.2) 「この文は日本語である」の中の「この文」を「この文は日本語である」自身の引用で置き換えた結果


について、ここでの結果を明らかにしてみるならば、その結果とは


 (1.3) 「「この文は日本語である」は日本語である」


です。したがって (1.1) は次のように書き換えることができます。


 (1.4) 「「この文は日本語である」は日本語である」が真であるならば、q.


このように (1.1) は結局 (1.4) のようなことを述べている文であることがわかります。そしてこの (1.4) の後件の q について、例えば


 q = 「この文は日本語である」は日本語である


とすれば、(1.4) に対し、


 (1.5) 「「この文は日本語である」は日本語である」が真であるならば、「この文は日本語である」は日本語である。


となります。これは真です。ただし、q として、前件と話題の上でまったく関係のない、かつ偽な文を取っても構いません。例えば、''2 + 2 = 5'' でも構いません。q に入る文に制限はありません。



さて、(1) の文がどのような感じの文であるのか、その雰囲気がわかったと思いますので、次は上記の (2) の文が何を言っているのかを確認してみましょう。まず、


 (2) (1) の中の W を (1) 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


でした。ところで、(1) については


 (1) w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


でした。そこで (2) の中の ''(1)'' を (1) である「w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q」で置き換えてみましょう。わかりやすいように ''[ ]'' というカッコで (1) の文をくくります。すると以下になります。


 (0) [w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q] の中の W を [w の中の W を w 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q] 自身の引用で置き換えた結果が真であるならば、q.


すごく長い文になりますね。ここでこの長い文の内容を厳密、正確に、暗号を解くように解読しようとしなくてもいいです。そのような解読をしなくても、さしあたり、以下の話はわかります。それに解読しようとすると、頭が混乱してきます。実は私自身、解読していませんし、解読しようとしてもわけがわからなくなるでしょうから、していません。しなくても一応大丈夫です。むしろここで押さえておかなければならないことは、次のことです。すなわち、(2) は 名前 ''(1)'' による (0) の省略形になっている、ということです。長い文 (0) の中のカッコ ''[ ]'' でくくられた文を ''(1)'' という短い名前で置き換えたものが (2) の文であって、だから (2) は (0) の短縮形だ、という点です。

ここまでが、上記和訳中、中ほどにある「素朴な真理観に基づけば」という語句の前の部分の説明です。



続いて、今の語句「素朴な真理観に基づけば」で始まる段落を説明してみます。その段落とは、英語原文では次の部分のことを私は言っています。目印を入れながら引きますと、以下の通りです。

 On the naive view of truth, we are always entitled to assert what we get from (I) ''If P is true, then p'' and (II) ''If p, then P is true'' when (III) we substitute a designation of a statement for ''P'' and (IV) an abbreviation of the same statement for ''p''. Hence, (V) if we replace ''P'' by the designation ''the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself'', (VI) we may replace ''p'' by (2), an abbreviation of the statement thus designated. The naive view of truth thus commits us to the assertions:

おそらくこの部分が一番わかりにくいと思います。この部分の終わり辺りで具体例が挙げられているので(文 (V), (VI) のこと)、一応、ここでは何が言いたいのかはわかりますが、この部分を構成している個々の文を正確に理解しようとすると、(私は) 若干困難を覚えます。とりわけ (III) の中の ''a designation of a statement'' や (IV) の中の ''an abbreviation of the same statement'', それに (VI) の中の ''an abbreviation of the statement thus designated'' が何のことであるのか、どのように訳せばよいのか、わかりにくいと思います。その点を以下では明らかにしてみます。


まずこの段落部分で最終的に何が言いたいのかを確認しておきますと、


 (I) If P is true, then p.


の ''P'' に、(V) によって ''the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself'' を代入し、(I) の ''p'' に (VI) によって (2), すなわち英語原文では、


 The result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


を代入したいのだから、そのようにすると、


 (I-1) If the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true, then the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


が得たい、ということです。そしてこのような代入が (I) に関してはすべて成り立つと言いたいわけです。ここから後は、この (I) と (I-1) の説明を行ないます。


ところで (I) の ''P'' に代入したのは ''the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself'' という、ある文を指す名前 (N) であり、この名前は


 the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself


ということにより、


 (1) The result of replacing W in w by quotation of w itself is true only if q.


の W, つまり ''w'' に (1) 自身を入れた結果となる文を指すのですから、そのようにしますと、


 (0-1) The result of replacing W in [The result of replacing W in w by quotation of w itself is true only if q] by quotation of [The result of replacing W in w by quotation of w itself is true only if q] itself is true only if q.


となります。(ちなみにこの文は上記の文 (0) を英語に戻した文になっています。) つまり名前 (N) が指すのは、この文 (0-1) だ、ということです。


そして今の名前 (N) が指している文が真であるならば、それは (0-1) が真であるということです。ところで (0-1) の中の ''[ ]'' にくくられた表現は文の (1) でしたから、そのくくられた表現を ''(1)'' で置き換えてやると


 The result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


となりますが、これは (2) (の英語版) です。つまり、


 (2) The result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q.


です。これにより、(0-1) の文を短縮して表現したものが (2) の文であるとわかります。したがって、名前 (N) が指している文が真であるならば、それは (0-1) が真であるということであり、(0-1) が真であるならば、(2) が成り立つということ、つまり端的に言えば、その時 (2) だ、ということです。実はこのこと、すなわち名前 (N) が指しているものが真であるならば、(2) である、ということを述べているのが、上記の (I-1) になります。ご確認ください。以上が、(I) とその具体例 (I-1) の説明になります。


こうして今度は、


 (II) If p, then P is true


と、この具体例、


 (II-1) If the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true only if q, then the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself is true.


の説明となるわけですが、これらはそれぞれ (I) と (I-1) の逆になっていますから、(II) と (II-1) の説明も、(I), (I-1) を逆に説明すればよいので、ここではその説明を省きます。



以上の説明からわかることは、


 (III) we substitute a designation of a statement for ''P''


における ''a designation of a statement'' とは、「言明 (statement) が指しているもの (designation)」または「言明によって指されているもの」と訳すのではなく、「言明を指しているもの」と訳すべきであろうということです。すなわち英語の (III) に対して、


 (III) 私たちは ''P'' の代りに言明指しているものを用いる


と訳すのではなく、


 (III) 私たちは ''P'' の代りに言明指しているものを用いる


と訳すべきだろうということです。''P'' の代りに用いられるのが、上記の通り、名前 (N) ''the result of replacing W in (1) by quotation of (1) itself'' であって言明または文ではなく、かつこの名前が指しているのが言明または文の (0-1) なのですから、(III) の ''a designation of a statement'' は「言明が指しているもの」と訳すのではなく、「言明を指しているもの」と訳す必要があると思います。結局 ''a designation of a statement'' の ''of'' はいわゆる主格の of ではなく、目的格の of だ、ということです。


また、


 (IV) an abbreviation of the same statement for ''p''


については、ここでの ''the same statement'' とは、(0-1) に相当し、それの abbreviation であるのは (2) に相当する、ということです。そして


 (VI) we may replace ''p'' by (2), an abbreviation of the statement thus designated.


についても同様で、ここでの ''the statement thus designated'' とは、(0-1) のことであり、それの abbreviation であるのは (2) だ、ということです。

これで語句「素朴な真理観に基づけば」で始まる段落を説明を終わりにします。間違っていなければいいのですが…。


以上で、否定記号のない論理においても任意の式 q が出てきてしまう証明の説明も終わりにしますが、Geach 先生はこの証明から、いかなる教訓を導き出そうとしているのでしょうか。まず、引用符の使い方に問題の原因を見るということはできないと言います。というのも引用符を使わずに言語表現に言及することは可能だからです (Gödel 数を使う方法)。先生の言う素朴な真理観を維持したいのならば、先生によると、

[W]e must modify the elementary rules of inference relating to ''if''.

だそうです。先生以前には Fitch 先生がこの問題に対する対応策を考えていて、Fitch 先生の取った対策は、modus ponens がいつでもどこでも成り立つということをやめてしまう、modus ponens の普遍妥当性を放棄してしまうという手だそうです。これはいかにも極端な感じがします。Geach 先生も

This seems far too high a price to pay for a naive view of classes or of truth.

と述べておられます。いかにも同感です*2。では Geach 先生はどのような対策をお考えかと言うと、次の通りです。原註を省いて引きます。

It might, however, be worth consideration whether the rule of absorption should be modified; after all, the form ''If p, then p only if r'' never occurs in ordinary discourse, and we might have a wrong idea of its logical force.

う〜む、どうなんでしょう? Absorption, すなわち Contraction の規則を禁止してしまおうというのは、近頃流行の手ですから、この手をずいぶん昔に考えておられたことには脱帽してしまいますものの、「普段使わないから禁止してしまおう、なかったことにしよう」というのは、ちょっとどうかと思うのですが…。二次方程式の解の公式なんて、普段買い物で使わないから、なしにしようなんてことを、昔どこかの政治家がぶち上げたようですが、まさか同じような調子で Contraction 禁止!とは言えないでしょうし…。とはいえ、Geach 先生も「普段使わないから」という理由だけで Contraction をやめにしようと提案されているわけではなく、単に「ここが怪しいぞ」と、改善の方向性を指さして示しておられるだけでしょうから、私としましても、この点を先生に対し、強く追及したいというつもりでもございません。いずれにしましても、先生が指差しておられる方向で、現在盛んに問題の解決法が探られているようです。先生には先見の明が確かにあったわけだ。それに比べて、私による先生の証明の説明に wrong idea がございましたら、謝ります。すみません。大筋でも、間違っていなければいいのですが…。


以上で終わります。ちゃんと読み直していないので、誤解や無理解や勘違い、誤字に脱字などがありましたら、大変申し訳ございません。ちょっと時間切れなので、このあたりで失礼致します。

*1:Geach 先生の論文は 2, 3 page しかないので、先生の論文に言及する際も、逐一 page 数を述べることはやめておきます。

*2:とはいえ、modus ponens の普遍妥当性を放棄すべきだとする、真剣で興味深い試みもあるようです。それは sorites paradox を解く一つの手立てとしてです。次をご覧ください。R. M. セインズブリー、『パラドックスの哲学』、一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1993年、第2章、第3節「推論を拒否する・真理度」、78-89ページ。または、吉満昭宏、「ソリテス・パラドクス」、飯田隆編、『知の教科書 論理の哲学』、講談社選書メチエ 341, 講談社、2005年、セクション「パラドクスの解決法 A1 代替的な度合理論 (ファジー論理)」、68-69ページ。以下、2015年6月22日追記: Curry's paradox や Contraction-Free Logics に関して、Modus ponens に疑念を呈している古典的で有名な論文としては、次を挙げておくべきだったかもしれません。Robert K. Meyer, Richard Routley and J. Michael Dunn, ''Curry's Paradox,'' in: Analysis, vol. 39, no. 3, 1979. このよく知られた論文では、modus ponens を諦めねばならないかもしれないことが述べられており、諦念の中にも微かにおかしみを湛えた文章で結論が締めくくられています。追記終わり。以下、2015年6月23日追記: Modus ponens の普遍的妥当性を疑っている論考としては、そのものズバリの title を持った次があります。Vann McGee, ''A Counterexample to Modus Ponens,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 82, no. 9, 1985. 私はまだこの論文をちらっと見ただけですから断言はできませんが、たぶんこの論文は Curry's paradox や Contraction-Free Logics には、直接は関係していないと思われます。追記終わり。