The Fate of Walter Dubislav


(Walter Dubislav, 中村克己他、『ヴィーン學團 科學論理學』、日清書院、1944年より)


先日、うちに次の journal が届いた。

  • History and Philosophy of Logic, vol. 36, no. 2, 2015.

ここに以下のような論文が掲載されていた。

  • Nikolay Milkov  ''On Walter Dubislav.''*1

とても簡素な題名ですね。どのような内容の論文なのだろうと興味を感じ、ちょっと読んでみました。

ところで、たぶん私たちは、私自身も含め、Dubislav さんのことはほとんど知らないだろうと思います*2。私は定義論に少しだけ関心があるので、Dubislav さんと言えば「定義を主題とした本を書いておられたな」ということは知っておりましたが、その本はまだ見たことも読んだこともありません。このようなわけで、多くの方が Dubislav さんの人生や業績をおそらく知らないでいるのですが、彼は Vienna Circle と似た Berlin の group の重要人物であり、上記 Milkov 論文を拝読しますと、Dubislav さんは Reichenbach や Carnap に大きな影響を与えているのだそうです。したがって、Vienna Circle や the Berlin Group とその人々の考え方を理解する上では、Dubislav さんが誰であり、何を考えていたのかを知っておくことは大変重要であると言えそうです。上記論文で Milkov 先生は、未刊の資料や人がなかなか手にしない昔の東欧の新聞などを博捜することで、Dubislav さんが誰であり、Reichenbach と Carnap, それに Hempel にどのような影響を与えていたのかを、簡潔に叙述されています。私はこの論文を読んでみて、ちょっと驚いたことがありました。それは Dubislav さんの悲劇的な最期の記述でした。彼は悲劇的な死を迎えています。これは知りませんでした*3

そこで本日は、上記 Milkov 先生の論文の内容を簡単に紹介しようと思います。先生の論文を順を追って、かいつまんで内容を記します。以下で '(123)' などと書かれている数字は、Milkov 論文のページ数です。たくさん出てきてくどいですが、ご容赦ください。脚注はすべて私によるものです。英語やドイツ語をカタカナで表すこともあれば、原語のままで表すこともあり、どのような基準でカタカナにしたり原語のままだったりするのか、統一が取れていないところもあると思いますが、あまり時間のない中で文章をしたためていますので、どうかお許しください。また、かいつまむ際にも、私の選択によってかいつまんでいますので、balance よく選択できているという保証はございません。哲学的内容に踏み込むような選択は、記述が長くなりすぎますので、特に今回は排除しています。それに Milkov 論文を誤解してかいつまんでいる可能性もありますので、まったく間違っていないとは断言致しません。どうかお許しいただければと思います。

そして Milkov 論文中、Dubislav さんの悲劇的な最期が書かれている部分は、英語原文と私による試訳/私訳を記しておきます。もちろん私による訳には多数の誤訳や悪訳が見受けられると思いますので、絶対に真に受けないようにしてください。英語原文で読むことを優先していただき、和訳はまったくの参考程度にしてもらいたく存じます。また、和訳においては、司法に関する訳語が出てくるのですが、それらの訳語が適切に選択されているかどうか、私には自信がありません。和訳をよくよく推敲したわけでもありませんし、訳語の選択に万全を期するため訳語にまつわる様々なことがらを徹底的に調べ上げて訳出したというわけでもありません。そして和訳する際には時として原文にはない説明を挿入して訳しているところもあります。これらの点、どうかお許しいただければ幸いです。あらかじめ、私のなしてしまった誤訳、悪訳に対し、お詫び申し上げます。それでは論文の紹介を始めます。


Walter Dubislav (1895-1937) は論理学者であり、数学の哲学に関し、形式主義者でした(147)。また彼は Hans Reichenbach がリーダーであるベルリン・グループの中核的なメンバーであり、ベルリンの経験的/科学的哲学協会 (the Society for Empirical/Scientific Philosophy) を引っ張る人物でした(147)。
彼は1895年9月20日、Georg と Olga Dubislav の家族のもとに、ベルリンで生まれました(148)。お父さんは英語とフランス語の大学教授で、Gymnasium で校長を務めたこともありました(148)。このため、息子の Walter も英語とフランス語とイタリア語が読めました(148)。
1914年春、彼は Göttingen 大学に入学し、そこで David Hilbert のもと数学を、Leonard Nelson のもと、哲学を勉強しました(148)。第一次世界大戦中の1915年1月から1919年3月まで、彼はドイツ東部戦線に最下級の兵士として放り込まれました。大戦の終わりまでには中尉 (Lieutenant) となり、クリミア半島東端のキルチ要塞 (Kerch Fortress) で通信部隊を任され、そこで敗戦をむかえ捕虜となり、1919年4月から7月まで、ギリシャの Thessaloniki で収容されていました(148)。
1919年8月、Walter はベルリンの Friedrich Wilhelm 大学、今の Humbolt 大学で学業を再開し、21年には Hambrug の大学に、英訳名では ''On Axiomatic Method'' と題する博士論文を提出しましたが学位を得ることはできず、今度は22年7月に、関連している別の論文、英訳名では ''Contributions to the Theory of Definition and Proof from the Point of View of Mathematical Logic'' をベルリン大学に提出し、博士号を取得しています(149)。この頃は、Hilbert の公理論的方法の影響を強く受けていました(149)。
1919年から1922年の間、Dubislav は、博論執筆とは別に、友人の内科医の協力のもと、英訳名では Systematic Dictionary of Philosophy という辞典を作っています。これは Hilbert の公理論的方法を利用しながら哲学用語を論理的に循環なく関連付けたもので、この idea は友人の内科医のものではなく、Dubislav の発案であり、特に論理学、数学、科学の用語に力を入れて執筆されています(149)。理系の用語に力が入っているとはいえ、ドイツの過去の哲学的遺産からも多くを継承している辞典であり、Leibniz, Kant, Bolzano, Wundt, L. Nelson の言葉からの引用が多く見られます(149)。
1922年の終わり頃、Dubislav は Gertrud Troitzsch と結婚しました(150)。この時代はひどい不況で、1922年から1925年にかけて Dubislav は生活の糧を得るため、勉強とは別に仕事もせざるを得ず、商人 (merchant/Kaufmann) をしていましたが、勉強をあきらめず、ベルリン工科大学 (the Berlin Institute of Technology/Technische Hochschule in Berlin) で数学者の assistant を無給で勤め、数学の勉強をしていました(150)。ちなみにこのベルリン工科大学は Wittgenstein が卒業した学校でもあります(150, fn. 15) *4
1924年、Dubislav は Heinrich Scholz と知り合い、Scholz の助言で Jakob Friedrich Fries に関する dissertation を執筆し、これを habilitation としてその年の夏に、Scholz が Privatdozent をしていた Kiel 大学に提出しましたが、一部の教授の強い反対に会い、ほどなくして論文を引っ込めています(150)。このようにうまくはいかなかったものの、Dubislav は苦労して Fries の哲学を勉強して身に付け、ひっこめた論文を2年後に刊行することで、Fries 哲学の専門家として著名な人物となります(150)。
Fries の哲学以外で Dubislav がなしている過去の哲学に対する批判的検討には、例えば Kant の分析性の概念に対する批判があります(151)。そして Kant の分析性の概念に修正を加え、改善した試みに Bolzano と Frege の試みがあると Dubislav は言います(151)。しかし Bolzano と Frege による分析性の概念の改善でもまだ問題が残されており、その問題を取り除く試みが Dubislav 自身によって行われています(151)。
Dubislav によると、現代の論理学/数学/科学の哲学の問題を考える上で、その問題の背景と来歴を把握しておくために、過去の哲学をよく知っておくことは重要だと言います(151)。そしてその過去の哲学を知ることは、単に昔のお話の知識をたくさん貯め込むことではなく、Kant の哲学なら Kant の哲学の、最も重要でもっとも明晰な部分を剔出し、重要でなく、はっきりとしない部分は削除して、その哲学を整合的に再体系化するべきであると Dubislav は考えていました(151-152)。なお、Dubislav によると、Fries と Bolzano は厳密な論理学と哲学に対する創始者であるそうです(152)。
1926年、Dubislav は商人の仕事を辞め、研究に専念します(152)。そして同年に英訳名では The Definition という名の本を出版し、早速 1927年にはその第二版を出しています(152)。1927年9月、Dubislav は英訳名で ''On the Theory of the So-Called Creative Definitions'' という名の論文をベルリン工科大学に habilitation thesis として提出しています*5。そして1928年1月に教授資格を受けて(habilitated) 講義を行ないました。
1931年、Dubislav は The Definition の 3rd ed. を出版しています(152) *6。1st ed., 2nd ed. とは違い、3rd ed. では科学哲学の問題が多数盛り込まれているようです(153)。
1928年から1931年まで、Dubislav はベルリン工科大学で哲学の Privatdozent でした(153)。Dubislav と Rechenbach はベルリンの異なる地区に住んでいましたが(153)、1928年の1月からお互い文通を始めます(153)。そして Reichenbach は自身の確率論の建設に関し、Dubislav の考えに影響を受けました(153-154)。Dubislav の方は、相対性理論Kant幾何学の哲学を反証したという Reichenbach の考えに影響を受けました(154)。また、Dubislav は 論理学の重要性と、definition に関する考えを Reichenbach に教えています(154)。さらに、価値判断について、Vienna Circle はそれを emotion の表出と考えましたが、Dubislav は価値判断を implicit な command であると考え、規範に関する論理にかかわってくるのだとし、Reichenbach はこの Dubislav の見解に従っています(154)。
少し遡って 1925年、the Society of Empirical Philosophy が創設され、1927年2月27日、その一グループとして the Berlin Society for Empirical Philosophy が設立されます(154)。1929年8月以降にその一グループの名前を改め、Society for Scientific Philosophy として再出発し、ここで Reichenbach と Dubislav などが指導的役割を果たします(155)。ちなみにこのグループ内では Reichenbach よりも Dubislav の方が多く研究発表を行っています(155)。
Nazi が権力を握った後、1933年の夏、Reichenbach はドイツを逃れ、彼の代りに今度は Dubislav が同グループのリーダーとなります(155)。Dubislav はユダヤ人ではなかったので(155)、逃げる必要はなかったようです。その後、研究会の参加者が減りつつも活発な意見交換がなされますが、次第にこのグループの機能は停止してしまいました(155)。
ここまでの話からすると少し意外ですが、実は Dubislav の真価を最初に認めたのは、Reichenbach ではなく、Carnap でした(155)。Carnap は Dubislav の書いた先の哲学辞典に見られる哲学的概念の論理的関係についての考え方や、定義、分析性の考え方を熱心に検討してその重要性を認めています(155-156)。そして Carnap は1931年に Dubislav をベルリン工科大学の員外教授 (Extraordinary Professor) のポストに推薦し、認められています(156)。同年、Carnap はフランスの雑誌 Recherches philosophiques に、ドイツにおける数学の哲学の状況を報告する review essay 執筆者に Dubislav を推薦し、これも認められ、1931/1932年の号にその essay のフランス語訳を掲載してもらいました(156)。ちなみにフランス語に訳したのは、意外にもあの Emmanuel Lévinas です(156)。かなり意外な感じがします。
Dubislav は Carnap の Logical Syntax of Language を高く評価していましたが(156-157)、それとともに Reichenbach からの影響も強く、科学哲学に関して強い影響を受け、それが書籍 The Definition の 3rd ed. に現われています(157)。Dubislav は科学に関する哲学的な個々の技術的問題に専心するよりも、主に科学一般の論理的、方法論的問題に取り組み、科学的理論の概念形成 (concept formation) や理論形成 (theory formation) の問題を扱いました(157)。これらの傾向は、Dubislav の教え子である Carl Hempel に引き継がれました(157)。


次に、Dubislav さんの悲劇的な最期の場面を記します(157-159)。原文にある註の類いは一か所 (註42) だけを除いて、すべて省いて引用します。英語原文中、および和訳中のカッコ '[ ]', '( )' は、すべて原文にある通りです。引用者、和訳者によるものではございません。なお、Milkov 先生の home page から download できる本論文の原稿と、History and Philosophy of Logic に掲載されている published version では、以下に引用する section 11 に関し、読み比べるとほんのわずかな違いが見られますが、内容の点で違いはありません。

11. Escape to Prague and a tragic end

 Following Hitler's rise to power, which soon caused Reichenbach to flee Berlin, the situation for philosophers and free-thinking intellectuals at large steadily deteriorated. We have the following record of a family visit to the Dubislav home on Christmas of 1933: 'At my brother-in-law's [Walter Dubislav], where we spent the Christmas night, there was nothing Christmassy beside the meals and punch. We, i.e. the men, drank till 3 a.m., there was a Gramophone music (Dreigroschenoper). ... We were in markedly gallows-humor spirit'.

 In December 1934 Dubislav's wife, Gertrud, died. This blow precipitated a series of misfortunes that were to end in Dubislav's suicide. In the spring of 1935 Dubislav, increasingly emotionally volatile, assaulted a woman friend and severely injured one of her eyes. As a result he was taken into custody and lost his right to teach (his Lehrauftrag) at the Berlin Institute of Technology. Between August 1935 and May 1936 Dubislav was held at Moabit Prison, in Berlin, where for some months he was under psychiatric observation. In May of 1936, Dubislav was freed when the woman dropped her lawsuit and the public prosecutor closed the case.

 Dubislav's next move was to try for a teaching position at the University of Berlin, in which venture he enlisted the support, in particular, of Heinrich Scholz. With a cloud of scandal over his reputation, Dubislav went to the extreme of soliciting the additional support of Ludwig Bieberbach, one of the leaders of the Nazi supported 'German Mathematics' movement that fought the 'Jewish influence' in the discipline. Not surprisingly, this initiative failed.42


42 In order to understand the context in which Dubislav undertook this step, it is instructive to read Hempel's records about how it felt to be a philosopher in Berlin in that dark time:

'I recall having worked at writing reviews for the Deutsche Literaturzeitung, which was a review published by the Prussian Academy of Sciences. One day there was change in directors and the new young director called me into his office and suggested that it would be a good idea for me to join the party. He pointed to Unter den Linden [street] where his office was. There were as a matter of fact a group of Brown Shirts walking around outside; those of course were boors, but we must reform the party from the inside and therefore it would be good if I joined. Well, I resisted the suggestion. I sometimes ask myself if I could have been able to resist all such suggestions if I had stayed in Germany'.


 As if this were not enough, Dubislav's situation presently took an ominous turn when the public prosecutor suddenly reinstituted legal action against Dubislav, clearly with the intention of eventually interning him. Dubislav and his attorneys strongly suspected that the case against him was politically motivated. This potentially life-threatening development impelled Dubislav to leave the country, and by September 1936 he was in Prague. Dubislav's reasons for emigrating were summarized a year later by a Prague newspaper: 'Dubislav left Germany at the end of 1936, partly for political reasons, partly because of a case in which this passionate, indomitable man was mixed up.'

 Once settled in Prague, Dubislav sought a teaching post at the German University there, submitting to university officials, among others, a positive report from Professor Karl Bonhoeffer, who headed the psychiatric clinic at the Berlin University. Dubislav nurtured the hope that he might be offered the chair that Carnap had recently vacated upon receiving a call to the University of Chicago.

 Then the unexpected occurred: the Berlin Institute of Technology notified Dubislav in September 1937 that he had been granted permission to resume teaching there. Dubislav decided to return, but not without his new girlfriend, Gertrude Landsberger, a twenty-three-years-old student of graphic design from Breslau who already had something of a reputation as an independent artist. The young woman apparently refused to go back to Germany, and this ignited a fit of rage in her emotionally unstable partner. On September 17, three days before his forty-second birthday, Dubislav stabbed Gertrude Landsberger to death and then took his own life. In the brief note that he left behind, Dubislav pleads that he killed his girlfriend at her own request. He was buried in a mass grave the next day. Predictably enough, the sensational story made headlines in Prague's German-language newspapers.

 As fate would have it, a letter dated two days after the tragedy arrived at Dubislav's apartment. It was from Otto Neurath who invited Dubislav to contribute to the Encyclopedia of Unified Sciences on Problems of Empiricism, a contribution never to be written.



11. プラハへの脱出と悲劇的な最期

 Hitler が権力の座に上り詰めた後、これにより、間もなく Reichenbach はベルリンから逃れたのだが、哲学者たちと、自由にものを考える知識人たちの状況は、概して徐々に悪化していった。我々が手にしている以下の記録は、1933年のクリスマスに Dubislav 家を訪れたある家族のものである。「私のいとこ [Walter Dubislav] のうちで、我々はクリスマスの夜を過ごした。食べ物とお酒以外には何もクリスマスらしいものはなかった。我々は、つまり男どもは午前3時まで酒を飲んだ。蓄音機から『三文オペラ』の歌が流れていた*7。我々はひどくやけっぱちになっていた」。

 1934年12月、Dubislav の妻、Gertrud が亡くなった。この打撃によって、最終的に Dubislav の自殺へと至り着く不幸が次々と降りかかってきた。1935年春、Dubislav はますます感情的に怒りっぽくなり、ある一人の女友達に暴行を働き、彼女の片目に大けがを負わせた。結果として彼は拘留され、ベルリン工科大学から委託されていた教える権利を失った。1935年8月から1936年5月のあいだ、Dubislav はベルリンのモアビート刑務所に収容され、そこで数か月間、精神の経過観察のもとにあった。1936年5月、けがをした女性が訴訟を取り下げ、検察官が捜査を打ち切った時、Dubislav は釈放された。

 Dubislav が次に取った手は、ベルリン大学で教えるポジションを見つけることだった。この思い切った試みの際、彼はとりわけ Heinrich Scholz の助力を求めた。自分の噂が醜聞にまみれていた Dubislav は極端に走って、さらに Ludwig Bieberbach の助力をも懇請した。ナチに支持された「ドイツ数学」運動のリーダーの一人であり、数学における「ユダヤの影響」と戦っていた人物である。当然のことながら、この戦略は潰えた。42


42 Dubislav がこのような手段に訴えた背景を理解するためには、Hempel の残した記録を読んでみるのがためになる。あの暗黒の時代にベルリンで哲学者であるというのはどのような感じのするものなのか、このことについての記録である。

「『ドイツ文藝新聞』に評論を書く仕事をしていたことを思い出す。それはプロシア科学アカデミーによって刊行されていた評論誌だった。ある日、ディレクターの交代があり、新しい若いディレクターが私をオフィスに呼んで、入党すれば私のためになるのでは、と提案してきた。彼はオフィスが面していたウンター・デン・リンデン [通り] を指さした。実際、ちょうど外では褐色シャツの突撃隊の一団が行進していた。言うまでもなくやつらは野卑な連中だ、しかし我々が内側から党を改革せねばならぬ、だから私が加わるのがいいことだろう、と言うのである。もちろん私はその提案を断った。ドイツにとどまっていたのなら、このような提案をすべて断ることができていたかどうかと、今にして時に私は自問するのである」。


 これではまだ足りないかのように、明らかに Dubislav を最終的に収容する意図を持って、検察官が突然再び彼を起訴した時、Dubislav の状況は、ほどなく不吉な転回を遂げた。彼に対する訴訟は政治的な動機に基づいているのではないかと、Dubislav および彼の弁護士たちは強く疑った。潜在的に命を脅かすこの展開により、Dubislav は国を離れることを余儀なくされ、1936年9月までにプラハに移った。彼が移住した理由は、一年後のプラハの新聞に要約されていた。「Dubislav は1936年末にドイツから離れた。一部には政治的理由により、一部にはこの情熱的で不屈の男が巻き込まれた訴訟のためである。」

 プラハに落ち着くや、Dubislav は当地のドイツ系の大学に教育ポストを求め、大学当局に、なかでも Karl Bonhoeffer 教授の好意的な報告書を提出した。教授はベルリン大学にある精神科診療所を指揮していた。シカゴ大学の招聘を受けて、Carnap が最近空けたポストを提供してもらえるのではという希望を、Dubislav は抱いていた。

 その時、意外なことが起こった。ベルリン工科大学が、Dubislav に当大学での教育を再開する許可を与えると、彼に1937年9月に伝えてきたのである。Dubislav は戻ることを決意した。しかし新しい恋人、Gertrude Landsberger を置いて行くわけにはいかなかった。彼女はブレスラウ出身23歳のグラフィック・デザインを学ぶ学生で、一人前の芸術家として既にかなり名声を獲得していた。この若い女性は、ドイツに行くことをはっきりと拒絶した。このことにより、彼女の精神不安定なパートナーの怒りに発作的に火が点いた。9月17日、42歳の誕生日の3日前、Dubislav は Gertrude を刺殺し、それから自らも命を絶った。後に残した短いメモで Dubislav は訴えている、彼女に請われて殺してしまった、と。翌日、彼は集団墓地に埋葬された。予想に違わず、このセンセーショナルな話は、プラハのドイツ語新聞の見出しを飾った。

 運の悪いことに、悲劇の2日後の日付を持った一通の手紙が、Dubislav のアパートメントに届いた。それは Otto Neurath からのもので、『統一科学百科全書』シリーズの一巻として、本を『経験主義の諸問題』と題して執筆してほしいという依頼であった。が、それは決して書かれることはなかった。


Dubislav が Reichenbach, Carnap, Hempel それに Gödel たちと、人生行路の上で違っていたのは、20代前半の時期に戦場に赴いた結果、学問修行が足りず、十分な訓練を受けられないで、そのために精緻な研究成果を多数産出できなかった点があります(159)。また、戦場で生死の境をさまよい、死の危険をくぐり抜けてきたことで、激しいストレスにさらされ、帰還後もトラウマに囚われ続けたことがあります(159)。優れた論理学者兼教育者でありながら、帰還後にパラノイアの症状が現れてきました(159)。非常に猜疑心が強くなり、Reichenbach から Erkenntnis 誌の共同編集を Carnap としてみないかと誘われた時、Dubislav は拒否権 (veto rights) を与えてくれるよう求めましたが、これに対し、Reichenbach は断りを入れています(159)。もしも Erkenntnis 誌上に問題を起こしそうな論文が載ってしまったら、Dubislav は Nazi 当局に目を付けられるのではないかと恐れたようです(159) *8

さらに、Dubislav は精神的にかなり不安定になっていたようで、Hempel は Dubislav を神経質な人物として回想しています(159-160)。それによると、Dubislav は the Society for Scientific Philosophy の会合のいくつかで、とても無愛想であったようであり、あたりをあわてて走り回り、また階段教室のその階段に座っていた聴衆に対し、消防法に基づいて自主的にそこからどくよう急き立て、さもなければ警察を呼んでもらいたいのか、と言わんばかりのことがであったそうです*9


以上が Milkov 論文の概略です。ここで最後に個人的感想を少しだけ記します。
上述の通り、Dubislav さんは最終的に自殺という破局へと向かってしまうのですが、これというのも、Milkov 先生もご指摘の通り、戦争による激しい trauma にさいなまれた結果だと思われます。今で言うところの PTSD を抱え込んでしまったのだろうと想像されます。振り返ってみると、少し興味深いのは、Wittgenstein も第一次世界大戦の大体全般に渡ってその戦争に参加していたということです。Wittgenstein は第一次大戦が始まった1914年7月28日のほとんどすぐ後に兵士として志願し、翌月の8月20日前後にはもう東部戦線上に立っていたようですが*10、時折の休暇をはさみつつ、彼は大戦終結時まで戦い続け、戦争が終わった後も、イタリアの Monte Cassino で捕虜として収容され、1919年の8月に Wien に帰還しています*11。Dubislav さんは大戦開始後すぐさまというわけではなかったようですが、始まって半年ほどした1915年の1月に出征し、大戦終結まで戦い続け、ギリシャの Thessaloniki で捕虜として収容され、Wittgenstein と同じく1919年の8月にドイツに帰還しています。似ていますね。Wittgenstein がこの大戦でほとんど宗教的回心とでも言うべき体験をしていることは有名だと思います。そして Tractatus の原案ができたのもこの戦争のさなかでした。強烈な戦争体験を潜り抜けた二人のうち、Dubislav は PTSD にやられたのに対し、Wittgenstein は何とかして自分を stoic に control して、その経験を作品に昇華せしめたのでしょうか。もちろん、実際にはこれほど話は単純ではなかったでしょうが、第一次世界大戦が二人の若者に与えた影響は、いずれにせよ、計り知れないものがあったのだろうと推測致します。なにせ、「鋼鉄の嵐」に打たれるという経験は、人類史上初めてのことだったでしょうから、人格が変容してしまってもおかしくはなかったでしょうし。最後になりますが、興味深い事実をご教示くださいましたことに対し、Nikolay Milkov 先生に感謝申し上げます。


これで終わります。誤解や勘違いや無理解、誤字、脱字等があるかと思います。ちょっと急ぎ目で書きましたので、そのような slip がありましたら申し訳ございません。もう少し勉強致します。

*1:なお、この論文の原稿が、Milkov 先生の home page で誰でも PDF で見ることができるようになっています。History and Philosophy of Logic を閲覧できない方は、次の URL を通じて先生の論文を閲覧ください。<http://kw1.uni-paderborn.de/fileadmin/kw/institute-einrichtungen/humanwissenschaften/philosophie/personal/milkov/Dubislav.hpl.pdf>

*2:例えば、Vienna Circle とその周辺に関する百科事典的書物に Friedrich Stadler, The Vienna Circle: Studies in the Origins, Development, and Influence of Logical Empiricism, Springer, 2001 がありますが、ここでは Dubislav さんの名がほんのわずかしか出てこず、index をもとにすれば、四つのページにしか現れません。この本の後半部分は大項目主義的な人物事典になっているのですが、そこでも Dubislav さんは一つの項目として取り上げられていません。この後、何度も言及する Reichenbach や Carnap は、Carnap は Vienna Circle の一員ですから当然なのですが、Stadler 本で繰り返し取り上げられているのとは対照的です。ちなみに、この Stadler 本は、今年に第二版が出ているようです。私はまだ購入しておりません。

*3:先の註で言及した Stadler 本の47ページで、Dubislav さんの悲劇的な死のことが一言述べられていますが、一言だけであり、どのような経緯でそのようになったのかは何も書かれていません。

*4:この学校は「ベルリンのシャルロッテンブルクにある工科大学(Technische Hochschule Charlottenburg)」と呼ばれることがあるようです。山本信、黒崎宏編、『ウィトゲンシュタイン小事典』、大修館書店、1987年、8-9ページ。例のみすず書房の Wittgenstein の伝記や法政大学出版局の伝記でも、確か「シャルロッテンブルクの工科大学」みたいな言い方がされていたと思います。それが今話題にしている「ベルリン工科大学」のことです。

*5:この thesis の題名にある 'the So-Called Creative Definitions' とは何なのでしょうか。いわゆる定義の満たすべき二大条件、eliminability と non-creativity のうちの後者と何か関係があるのでしょうか。だとすると、非常に興味深いです。というのも、今述べた二大条件が最初に公表されたのは、おそらく Poland で、Ajdukiewicz か、または Lukasiewicz によってのことだと思われるのですが(Rafal Urbaniak and K. Severi Hämäri, ''Busting a Myth about Lesniewski and Definitions,'' in: History and Philosophy of Logic, vol. 33, no. 2, 2012, Rafal Urbaniak, Leśniewski's Systems of Logic and Foundations of Mathematics, Springer, Trends in Logic, vol. 37, 2013, Chapter 6.)、しかもそれが Poland で公表されたのは、ちょうどこの1928年頃のことだと推測されるからです(Urbaniak and Hämäri, Urbaniak, Leśniewski's Systems ..., Pierre Joray, ''What Is Wrong with Creative Definitions?,'' in: Logika, vol. 23, 2005.)。だとすると、もしかしてもしかすると、Dubislav の方が先に non-creativity について発言していたという可能性が出てきて、これは注目に値します。とはいえ、'the So-Called Creative Definitions' というのが non-creativity の話だとしたならば、という条件付きなので、Dubislav の ''On the Theory of the So-Called Creative Definitions'' をまだ私は拝見しておりませんから、何とも言えませんが…。なお、creative definition をめぐるあることがらについて、この日記でご紹介したいことがあるのですが、その用意ができていないので、いつご紹介できるのかはわかりませんが、そのうちそうできればと思っております。

*6:この本は今でも Felix Meiner から入手できるようです。

*7:おそらくこの歌は英語で言う 'Mack the Knife' のことだと思われます。Jazz を聴く人なら、instrumental version で Sonny RollinsSaxophone Colossus で聴いたことのあるあの曲 (Moritat) です。

*8:おそらくここで言う「拒否権」とは、Carnap などの他の編集者が論文を accept しても、Dubislav は自分の一存でその論文を reject できる権限を与えてほしいと Reichenbach に求めたのかもしれません。しかしそれでは Carnap たち共同編集者を差し置いて、Dubislav 一人が編集長の座に就くようなものだから、Reichenbach はそのような要求を拒否したのだろうと推測されます。

*9:念のために、このあたりの話について、英語原文を掲げます。'Carl Hempel recalled Dubislav as a high-strung person who at meetings of the Society for Scientific Philosophy 'could be quite brusque, scurrying about and urging the persons sitting on the steps between the ailes to leave voluntarily in conformance with fire-safety regulations: or would they rather have him call in the police?,'' 159-160.

*10:ウィトゲンシュタイン小事典』、14, 338ページ。

*11:ウィトゲンシュタイン小事典』、18, 340ページ。