The Validity Paradox of Albert of Saxony or Curry's Paradox

今日は Pseudo-Scotus あるいは Albert of Saxony の validity をめぐる paradox と Curry's Paradox について、私がちょっと驚いたことを記してみます。ただし、その驚いたこととは、だいぶ前の入門書に記されていることですから、目新しいことではありません。なお、私は勉強中の身の故、以下では間違ったことを書いてしまっているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。この後を読まれる方は、飛ばし読みされないほうがよいと思います。あらかじめ含まれているはずの誤りに対し、ここでお詫び申し上げます。


さて、しばらく前に、私は次の論文を拝読致しました。

  • JC Beall and Julien Murzi  ''Two Flavors of Curry's Paradox,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 110, no. 3, 2013.

この論文では論証の妥当性 (validity) の概念について、検討がなされています。特に、妥当性の概念をめぐって、Curry's Paradox に類似した paradox が出てくることが論じられています。この paradox に対しては、よく似たものが過去にもあったようです。従来から指摘されていた、Curry's Paradox に似た妥当性の概念をめぐる paradox の類例が、上記論文中の Section IV, Varying the Recipe: v-Curry 内にある Parenthetical note において記されています(pp. 153-156)。

例えば、Curry's Paradox に似た、妥当性の概念に関する従来からあった paradox として、次の論証 (σ) が上げられています(p. 155)。


(σ)

   This argument, σ, is valid.

   Therefore, 1 + 1 = 3.


これは

  • Michael Clark  Paradoxes from A to Z, 2nd ed., Routledge, 2007,

に出てくるものだそうです*1。Pseudo-Scotus による paradox とされています。


また、次の論証 (τ) も、そのよく似た paradox として上げられており(ibid.)、Pseudo-Scotus のものとされています。T は必然的真理、論理的真理、恒真式のことです。


(τ)

   T

   [Therefore,] This argument, τ, is invalid.


Beall and Murzi, ''Two Flavors of Curry's Paradox'' にも Clark, Paradoxes from A to Z (の 1st ed.) にも記されていないのですが、上記二つの論証 (σ), (τ) の内、後者の論証 (τ) が述べられている原典の英訳が、以下の文献に出ていることを私はこの前、たまたま知りました。

  • Norman Kretzmann and Eleonore Stump eds.  The Cambridge Translations of Medieval Philosophical Texts, Volume 1: Logic and the Philosophy of Language, Cambridge University Press, 1988.

私はこの本 The Cambridge Translations ... を持っていて、一部拾い読みをしたことがあるのですが、(τ) がこの本に載っていることを知った時、「なんだ、あの Kretzmann 先生の本に載っているんだ、ちょっと確認してみなくっちゃ」と思い、(τ) に当たる論証を実際にこの本で見てみました。その論証を見てみますと、かなり短いものでした。この本で (τ) は Albert of Saxony に帰せられています。短い論証ですから、以下で引用してみようと思います。'[ ]' は原文にあるものです。Italics も原文にあるままです。'〔 〕' は引用者によるものです。なお、以下の引用文中で (τ) の前提 T に当たるのが、'God Exists' です。当時はこの命題は必然的真理と考えられていたからです。今ならさしずめ '1 = 1' とでもしたらよいかもしれません。

[4n. Insoluble XIV]


GOD EXISTS; THEREFORE, THIS CONSEQUENCE IS NOT VALID.


Let this consequence be A, its antecedent B, and its consequent C; and 'this' indicates the consequence put forward. Then I put forward consequence A, and I ask whether consequnece A is valid or not.
 If one says that it is valid, then, since its antecedent is true, it follows that its consequent is true. And if its consequent is true, then things are as its consequent signifies them to be. But its consequent signifies that consequence A is not valid. Therefore, consequnece A is not valid.
 But if one says that consequence A is not valid - on the contrary: If consequence A is not valid, it is possible that B be true while C is false. But that is false, which I prove as follows. For if A is not valid, things are as C signifies them to be, because C signifies that A is not valid; and, consequently, C is true. Therefore, B cannot be true unless C is true. Therefore, A is valid. Therefore, if A is not valid, A is valid. The first consequence is evident, for in order that A be not valid it is enough that B can be without C, if they were formulated. The last consequnece holds good from the first to the last.
 The reply: Consequence A is not valid.
 And when it was said at the end that therefore C is true, the consequence is denied. And if someone said 'If A is not valid, then things are as C signifies them to be,' I grant that. But it is not the case that things are however C signifies they are. And, therefore, this does not follow: 'Things are as C [signifies] them to be; therefore, C is true,' etc.
〔…〕*2

この英訳を和訳してここに掲げようかと思いましたが、私にはよくわからないところが多々ありますので、それはやめにしておきます。なお、引用文中の 'consequnece' はラテン語の 'consequentia' の訳だと思われます。日本語では「(論理的)結論、帰結」とされるようです*3。しかし中世の当時は、哲学的文脈ではいわゆる条件文のことか、または論証のことを指していたようです*4。実際、それは条件文を指すこともあれば、論証を指すこともあったようで、どちらを指すのかについては、混同が見られたみたいです*5。ただし、上記引用文中では条件文ではなく、論証のことを指していると考えられますので、引用文の 'consequnece' は論証と理解して読まれるとよいと思います。


ところで、上記の (σ) と (τ) から、なぜ paradox が出てくるのかを確認しておきたいと思います。再び論証 (σ) を掲げてみましょう。


(σ)

   This argument, σ, is valid.

   Therefore, 1 + 1 = 3.


ここから矛盾が出てくることを示してみます。方針としましては、単純構成的両刀論法 (simple constructive dilemma) で行きます。つまり、自然演繹における選言除去則を使った証明を informal に行なうことにします。それは次のようになります。まず以下の [1] の選言文 (排中律の一事例) を立てます。そしてその選言文の左選言肢 [2] を仮定し、そこから矛盾した文 [3] を引き出します。続いて [1] の右選言肢 [4] を仮定し、ここからも同じ矛盾した文 [3] が引き出されることを見ます。そして仮定であるこれらの右選言肢からも左選言肢からも同じ矛盾した文が出てくるので、それら各選言肢 [2], [4] の仮定を落として、端的に [1] の選言文から矛盾した文 [5](=[3]) が引き出されることを明らかにします。


さて、

    • [1] この論証 (σ) は妥当であるか、妥当でないかのどちらかでしょう。
    • [2] そこでこの論証は妥当だと仮定してみましょう。

するとこの論証の前提は真です。そしてこの論証は妥当だと仮定したのでしたから、妥当な論証の前提が真な場合、結論も真なはずです。しかし、この論証の結論は真ではありません。いかなる場合も偽です。そうであるならば、前提は真なのに結論が真でない場合は、その論証は妥当ではありませんので、上の (σ) も妥当ではありません。つまり、この (σ) を妥当だと仮定するならば、妥当ではないという結果が帰結します。そこで (σ) は妥当であるという仮定と、今先ほど出てきた (σ) は妥当ではないという結果とを連言で合わせれば、

    • [3] (σ) は妥当であり、かつ妥当ではない、

と言うことができます。


ここまでは (σ) を妥当であると仮定していましたが、今度は

    • [4] (σ) を妥当ではないと仮定してみましょう。

するとこの (σ) の前提は真ではなく偽です。ところで妥当な論証とは、その前提が真であるならば、その時はいつでも結論も真になる論証です。これを言い換えると、妥当な論証とは、その前提が偽であるか、または結論が真である論証です。さて、今しがた、(σ) の前提は偽であることがわかりました。ということは、前提が偽である論証は、結論が真であろうが偽であろうが、前提が偽だというだけで妥当ですので、今の場合、(σ) は妥当です。したがって (σ) を妥当でないと仮定するならば、妥当であるという結果が帰結します。そこで (σ) は妥当でないという仮定と、今出てきたばかりの (σ) は妥当であるという結果を連言で結べば、

    • [3] (σ) は妥当でなく、かつ妥当である、

と言うことができます。

こうして (σ) は妥当であるか、妥当でないかのどちらかだろう、という事柄 [1] を与件とした上で、(σ) を妥当であると仮定しても [2]、妥当でないと仮定しても [4]、どちらの仮定からも、(σ) は妥当であり、かつ妥当ではない、という結果が出てきましたので [3]、(σ) は妥当であるという仮定と、妥当でないという仮定を立てずに (つまりそれらの仮定 [2], [4] を落として)、端的に (σ) は妥当であるか、妥当でないかのどちらかだろう、という与件 [1] (だけ) から、

    • [5] (σ) は妥当であり、かつ妥当ではない、

と結論することができます。そして言うまでもなく、(σ) は妥当であり、かつ妥当ではない、というこの結論は、矛盾です。矛盾したことを述べています。

以上により、(σ) からは矛盾が出てきてしまいます。


念のため、別の仕方で (σ) から矛盾を引き出してみましょう*6背理法を使います。

(σ) を妥当だと仮定してみましょう。するとその論証の前提は真です。ところで妥当な論証は、前提が真ならばその時いつでも結論も真です。(σ) は妥当な論証で前提が真です。したがってその論証は結論も真なはずです。しかしその結論はいかにしても偽です。前提は真なのに、その時結論が偽になるようならば、その論証は妥当ではありません。よって (σ) は妥当ではありません。今、(σ) は妥当だと仮定して、それは妥当ではないという結果が出てきました。したがって、(σ) は妥当であるとした最初の仮定は間違っていて、正しくはその仮定を否定し、(σ) は妥当ではない、としなければいけません。
さてこのようにして、(σ) は妥当な論証ではありません。ならば、その論証の前提は真で、結論は偽なはずです。よって、その論証の前提は真なはずですから、ものごとはその論証の前提の述べる通りになっているということです。しかるに (σ) の前提が述べているものごととは、(σ) が妥当だということです。つまりここで (σ) が妥当だという結論が得られました。
以上により、(σ) は妥当ではなく、かつ妥当である、ということになります。これは矛盾です。


次に (τ) からも矛盾が出てくることを見てみます。(σ) の時と同様、両刀論法で行きます。


(τ)

   T

   [Therefore,] This argument, τ, is invalid.


この (τ) も妥当であるか、妥当でないかのどちらかでしょう。そこでまず妥当であると仮定してみましょう。すると、この論証の結論は偽です。一方、この論証の前提は真でしかあり得ません。この場合、この論証は前提に真を持ち、結論に偽を持っているのですから、妥当ではないと言えます。つまり (τ) は妥当だとするならば、妥当ではないということが帰結します。

今度は (τ) を妥当ではないと仮定してみましょう。その時、結論は真です。そして前提も真です。ということは、この論証は妥当だということです。よって (τ) が妥当ではないとするならば、それは妥当であるということが帰結します。

したがって、(τ) は妥当であるならば妥当ではなく、妥当ではないならば妥当である、ということになります。すなわち (τ) が妥当であることと妥当でないこととは同値である、ということです。

そこで、(τ) が妥当であると仮定してみましょう。すると、(τ) が妥当であることと妥当でないこととは同値ですから、(τ) は妥当ではありません。今、(τ) は妥当であると仮定していましたから、結局、(τ) は妥当でありかつ妥当ではありません。

今度は、(τ) を妥当ではないと仮定してみましょう。すると、(τ) が妥当であることと妥当でないこととは同値ですから、(τ) は妥当です。今、(τ) は妥当ではないと仮定していましたから、結局、(τ) は妥当でなくかつ妥当です。

いずれにせよ、(τ) が妥当であると仮定しても、妥当でないと仮定しても、結局、(τ) は妥当でありかつ妥当ではない、ということになります。これは矛盾です。


念のため、(τ) から矛盾を引き出すもう一つの仕方をさらに記してみます*7背理法を使います。

(τ) は妥当であると仮定してみます。すると前提は真で結論は偽になりますので、(τ) は妥当ではないという結果が出てきます。したがって背理法により、(τ) が妥当であるとした仮定は間違っていて、この仮定を否定し、結局 (τ) は妥当ではないことが証明されます。
こうして (τ) が妥当でないことが証明されましたから、(τ) が妥当でないことは必然的な真理です。つまり、上記の論証 (τ) の結論部分は、必然的な真理を表しています。ところで結論が必然的真理であるような論証は、その前提にいかなる文を持とうとも、妥当です。よって (τ) は妥当です。
以上により、(τ) は妥当でないとともに妥当です。これは矛盾です。


ここまでは、それほど驚くことはないと思われます。ただ、最近、以下の入門書を拾い読みしていて、軽く驚きました。

  • Stephen Read  Thinking About Logic: An Introduction to the Philosophy of Logic, Oxford University Press, OPUS Series, 1995.

この本は20年も前に出た入門書です。ずいぶん前に購入したのですが、入門書というのは時に退屈なこともあるので、この本はまるで読まずに来ました。しかし、このあいだ、たまたまこの本を拾い読みしていると、とても興味深い指摘がありました。既にご存じの方も多い話かと思いますが、p. 161 に次のように書かれています。

Incidentally, note the similarity between this last paradox [Curry's Paradox] and the earlier paradox about the argument [our (τ)], '1 = 1, so this argument is invalid': an argument is valid if and only if the matching conditional is necessarily true. The argument '1 = 1, so this argument is invalid' becomes the proposition 'If 1 = 1 then this (conditional) proposition is false', which contraposes - roughly - into 'If this proposition is true then 1 ≠ 1', or, just as bad, 'If this proposition is true then snow is black'.

これには軽くのけぞりました。考えてみれば、誰にでも思い付けそうなことですね。しかし私はまったく思い付きませんでした。Pseudo-Scotus / Albert of Saxony の Validity Paradox と Curry's Paradox の間には、こんな関係があるんだ。


念のために、直前の引用文の内容を簡単に書き出すと、必然的真理 1 = 1 について、

    • (1)  1 = 1, so this argument is invalid,

であるならば、一般に論証が妥当であるとは、その論証の前提を前件に持ち、結論を後件に持つ条件文が常に真であるということですから*8、1 = 1 に関する今の論証の妥当性は、この論証を、微調整しつつ条件文に直した文

    • (2)  If 1 = 1 then this proposition is false,

が常に真であるということになります。そしてこの条件文の対偶を取れば、

    • (3)  If this proposition is true then 1 ≠ 1,

となります。

ところで、Curry's Paradox は

    • (4)  If this proposition is true then p,

という文から生じますが*9、この p には任意の文が来てよいので、偽な文が来てもよく、だから '1 ≠ 1' や 'snow is black' が来てもよいわけです。そこでこの文の p に '1 ≠ 1' を取れば、先ほどの

    • (3)  If this proposition is true then 1 ≠ 1,

になります。ちょっと驚きだ。論証 (τ) を条件文に直して、その対偶を取るという単純な操作を施すだけだから、誰でもすぐに思い付きそうなものですが、私は全然思い付きませんでした。なので、こんなふうな関係があることを指摘されて、軽くのけぞったわけです。20年も前に出た入門書での指摘ですので何だか意外な感じがします。しかし、以上の論証 (τ), すなわち the Validity Paradox of Albert of Saxony と Curry's Paradox の関係とは一体何なんでしょうね。考えてみなければいけませんね。


実は、上記の引用文が載っている p. 161 よりも後の page には(pp. 162-163)、個人的にもっとのけぞることが書いてあるのですが、それは可能であれば、また後日、この日記で記してみたいと思います。私個人としてはとても興味深い話であり、よく考えてみたいことが指摘されています。20年も前に書かれた popular な入門書に出てくる話ですので、珍しくも何ともないかもしれませんが、私は初耳でしたので、「これは考えてみなければならないな」と感じました。この話を今後記すことが本当にできるのか、忙しいし、しんどいのでお約束はできないのですが、可能ならば記してみます。駄目だったらすみません。今これを書いている最中も、あまり集中力が維持できていませんし、そもそも期待するほどの話ではないかもしれません。Curry's Paradox に詳しい方や、そのような Paradox にまったく興味のない方には、目新しいとも思わないし、面白いとも全然思わない話かもしれません。こんなことを言って、Read 先生、すみません。少なくとも私には啓発的でしたので、先生、お許しください。


ところで、つい先ほど、二つ前の段落末尾で「以上の論証 (τ), すなわち the Validity Paradox of Albert of Saxony と Curry's Paradox の関係とは一体何なんでしょうね。考えてみなければいけませんね」と言いましたが、その二つ前の段落で、(τ) を条件文に変形すれば Curry's Paradox になることを見ました。では、(σ) を条件文に変形すればどうなるでしょう? Read 先生は何も述べておられないようですが、

(σ)

   This argument, σ, is valid.

   Therefore, 1 + 1 = 3.


これを英語で条件文に変形すると、

    • (5)  If this proposition is true then 1 + 1 = 3.

これはまさに Curry's Paradox ですね。

すると、これまでの (σ), (τ), Curry's Paradox はすべて同じ仲間だとえ言えるかもしれません。そして同じ仲間ならば、その解決には、同じ一つの手法で事足りるかもしれません。では、その手法とは何でしょうか? 今の私には、はっきりしたことはわかりません。とても興味深いことです。かなり重要なことのように思われます。これは一体どうしたらいいのだろう?


今日は以上で終ります。誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字などなどがありましたら、大変すみません。もっと勉強致します。

*1:私はこの本の 1st ed., 2002 を持っているので、確かに出てきていることを確認しました。

*2:Kretzmann and Stump, pp. 360-361.

*3:水谷智洋編、『羅和辞典 改訂版』、研究社、2009年参照。

*4:William Kneale and Martha Kneale, The Development of Logic, Oxford University Press, 1962, pp. 277-278.

*5:Ibid.

*6:Michael Clark, Paradoxes from A to Z, 1st ed., Routledge, 2002, pp. 209-210.

*7:Stephen Read, ''Self-Reference and Validity,'' in: Synthese, vol. 42, no. 2, 1979, p. 266.

*8:清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年、24-27, 55-56ページ。

*9:Curry's Paradox については、当日記の次の二つの記事をご覧ください。2015年7月5日 ''Curry's Paradox: An Informal Exposition,'' 2015年7月20日 ''Curry's Paradox: A Rather Formal Exposition.''