Kripke's Argument against Descartes' Doctrine of the Creation of the Eternal Truths

0. はじめに
1. Descartes の永遠真理創造説とは何か?: 入門書からの引用
2. Descartes の永遠真理創造説とは何か?: 本人の文の (和訳からの) 引用
3. Kripke 先生、Descartes を駁す。
4. Kripke 先生による Descartes 駁論再構成に必要とされる制約について。


0. はじめに

次の文献を読んでいると、

  • Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' CUNY Academic Works, 2015, A Ph.D. Dissertation submitted to the City University of New York, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>,

興味深い論証がありましたので、今日はそれを記しておきたいと思います。

その論証とは、Saul Kripke 先生が René Descartes さんの永遠真理創造説 (le thèse de la création des vérités éternelles) を論駁したものです。Descartes さんの永遠真理創造説を Kripke 先生が批判されているということで、面白そうですね。しかもこの批判はとても短い論証から成っていますので、近づきやすいみたいです。

ただ、この論証は Kripke 先生の手によっては、まだ刊行されていないようです。しかし先生はかつてその論証を大学の lecture で話をしており、現在その記録が残っています。そこでこの記録をもとに、上記の論文で Padro 先生がその論証を公表されました。今回はそれを引用してみたいと思います。

本日の日記のこの後の流れですが、Kripke 先生による Descartes さんの永遠真理創造説駁論を記す前に、そもそも Descartes さんの永遠真理創造説とは何であるのかを提示しておきたいと思います。そこでまず、その説の解説文を入門書から引用します。次に Descartes さん本人の話を邦訳から引用します。なお、入門書からの引用と、Descartes さんからの引用に際しては、直接関係しているところだけを切り詰めて引用するのではなく、前後の文脈がつかめるように、比較的長めに引用します。どうかご了承ください。

そしてそのあと、Kripke 先生の駁論を引用し、私による和訳を付けてみます。

それからおまけとして、その駁論のやさしい言い換えを私の方で行い、これを記そうと思ったのですが、自分で作ったその言い換えを読み直してみると、どうも間違っているように思われるので、ここに記すのをやめにしました。それに Kripke 先生の駁論も読み直してみると、その駁論がどのような論証なのか、正確なところがわからなくなってきました。読み直せば読み直すほど、先生の論証を整合的に再構成できないような気がしてきて、迷路に入ってしまったみたいです。出口は目の前にあるのかもしれませんが、あったとしても、なぜだか私には見えません。能力不足かもしれません。

間違っているかもしれないものの、それでもそのような私の言い換えを記しておけば、それを一つの叩き台、踏み台にして Kripke 先生の駁論をよりよく解釈することが、皆さんにとって可能となるかもしれません。しかし、言い換えた私の案はいくつかあり、どれもひどい勘違いにとらわれているかもしれず、さすがにそれは恥ずかしすぎるので、今回は遠慮させてもらいます。

そのようなわけで、先生の駁論のやさしい言い換えの代りに、言い換える際に守るべき制約を箇条書きにしておきました。先生の論証を再構成する場合、それを順守しなければ先生の論証の再構成とはならなくなってしまうような、そのような条件のことです。もしもご自分で先生の論証を再構成してみようと考えている方は、参考になるかもしれません。(ならなかったらすみません。)

本文に入る前に一言。私の記述や私の考えが間違っていましたらごめんなさい。前もってお詫び申し上げます。



1. Descartes の永遠真理創造説とは何か: 入門書からの引用

さて、Descartes さんの永遠真理創造説とは何でしょうか。その説明を二つ、入門書から引いてみたいと思います。( ) は原文にあるものです。[ ] は引用者によるものです。


最初は、

からです。段落ごとに改行せず、すべて詰めて引用します。

そうしてデカルトは、すべての自然現象を説明しようと決心して、『世界論 (宇宙論)』の執筆にとりかかる。[...] そこで、この『世界論』の執筆が契機となって、もう一つの、デカルトの自然哲学の支柱となる重要な形而上学上のテーゼが設定されることになった。それは、メルセンヌ宛の書簡 (一六三〇年) で表明される、解釈者たちによって「永遠真理創造説」と呼ばれるものである。それは、神は、伝統的に永遠真理と呼ばれ、それ自身は創造の対象とは考えられてこなかった「数学的真理」をも他の被造物と同様に創造したのであり、一方でそれの観念を人間精神のうちに生得的に刻印し、他方で、それによって自然の法則を構成した、というものである。*1

この後の話に関係のある限りでこの引用文をかいつまむと、従来、永遠真理と呼ばれてきた数学的真理は、神が創造したものではないとされて来ましたが、Descartes さんによると、その真理は神が創造したのである、ということです。

[デカルトの永遠真理創造説という] このテーゼは、数学的真理をも神の創造の所産とすることによって、数学的真理は神の創造をも拘束する絶対的に必然な真理ではなくなるという事態をもたらっす。というのも、キリスト教の教義の一大原則は「神の無からの創造」ということにあり、神があるものを無から創造したということは、そうでないものをも創造しえたということを意味するからである。したがって、神が数学的真理をも創造したと解することは、神は現にわれわれが知る数学の体系以外の体系をも創造しえたと理解することになる。こうして、この「永遠真理創造説」のもとでは、数学的真理は神の知性をも規制する絶対的に必然な真理ではないということになるのである。そうすると、この「永遠真理創造説」を主張する者は、その裏面として、現にわれわれが唯一必然と思っている数学の真理も、じつはそうではないのではないか、という懐疑を引き受けなければならないことになる。ついでにいえば、デカルト以後の「大陸の合理主義者」といわれるスピノザライプニッツやマルブランシュは、いずれもこのデカルトの「数学的真理」への懐疑を真面目なものとうけとめなかった。それは彼らがみな、数学的真理は神の知性をも拘束する絶対的に必然なものと考えたからである。とりわけライプニッツは、「矛盾律」という論理法則は絶対的であって、これが神の概念 (最も完全な存在という概念) にも適用されねばならず、神の存在の証明には、それが矛盾を含まないということが前提されねばならないと考えた。*2

Descartes さんの主張に基づけば、数学的真理は神が作ったものであり、その真理は初めから神を拘束するものではないのだそうです。また、私達には必然的と思われる数学的真理は、今のものとは違うように神が創ることも可能だったので、その真理は必然的ではない、ということみたいです。


次は、

から、Descartes さんの永遠真理創造説の解説文を引いてみます。ここでも段落ごとに改行せず、すべて詰めて引用します。また、原文にある註の番号も省いて引用します。

デカルトは内外の感覚が確かな知識であることを否定し、ついで数学的真理もまた、全能の神があざむいているのかも知れぬという理由で、疑わしいと考えました。この「欺く神」または「悪い霊」の意味は何であろうか。それは第一に、神学を背景にもつ考えであって、論理的数学的真理もまた神の意志決定に依存している、という思想から出ています。もし反対に、数学的真理が神の自由意志から独立であって、その真理は神にとってもどうにもならぬ必然性をもつと考えるなら、神の自由意志は数学や論理学の法則によりしばられることになるが、これはギリシャの神々が運命の支配下にあったように、キリスト教の神もまた必然性の支配をうける、と考えることになり、不都合である、というのであります。そこで神には、二たす二は四でないようにすることもできた、とみとめねばならない、という。これは十四世紀のオッカムの神学、宗教改革者の神学につながり、デカルトの同時代ではジャンセニウス派に親しい考えであります。(もっとも神は矛盾律をも破りうるとまで考えるかどうかは、意見が分れる点であって、たとえばデカルトのすぐ後のパスカルは、数学的真理でなくて主に正義の法則についてであるが、これを神の意志決定に全く依存する、と主張して、同じ派でももう少し理性に寛容なアルノーと対立している。)*3

論理学や数学の真理が神の意志から独立した必然的真理であるならば、全能のはずの神が当人にはいかんともしがたい拘束をその真理から受けることになる。これは全能とされるはずの神にとっては不都合である。故に論理学や数学の真理も神によって自由に創られたのだ、神にとっては 2+2≠4 も可能であったのだ、ということが Descartes さんの主張みたいです。


2. Descartes の永遠真理創造説とは何か: 本人の文の (和訳からの) 引用

では、Descartes さん本人は永遠真理創造説を、どのように述べておられるのでしょうか。七つ、文章を邦訳から引いてみます。

まず、書簡から。引用文中の [ ], ( ) は邦訳にあるものです。{ } は引用者によるものです。註、振り仮名は、省いて引用します。なお、下線は引用者によるもので、永遠真理創造説を直接述べていると思われる部分に線を引いています。

私の自然学においては、いくつかの形而上学の諸問題に、とりわけ次のような問題には触れずにはおかないでしょう。永遠であると称される数学的真理は、他のすべての被造物と同様に、神によって確立されたものであり、神に全面的に依存している、ということです。実際、この真理が神から独立したものだと言うことは、神をユピテルやサトゥルヌスとして語ることになり、神をステュクス川と運命 [の女神たち] の支配下に置いてしまいます。あたかも王が自分の王国に法を確立するように、自然の中にこれらの法を確立したのは神であることを、どうかいたる所で断言し、公言なさるのを怖れませぬよう。

引用文中の固有名について、手を伸ばして取り出せるところに置いてある

  • 水谷智洋編  『改訂版 羅和辞典』、研究社、2009年、

により、調べてみると、

  • 「ユッピテル」 Juppiter, Jupiter: Saturnus の息子で Juno の夫; ローマ神話最高神; ギリシア神話の Zeus に当たる。
  • 「サートゥルヌス」 Saturnus: 農耕の神; Juppiter の父; Juppiter 以前の黄金時代の主神; ギリシア神話の Cronos に当たる。
  • ステュクス」 Styx: 三途の川、黄泉 (よみ) の国の川。

ということです。参考にしてみてください。


引用を書簡から続けます。

 永遠真理について繰り返しますが、「それらの真理が真あるいは可能となる理由は、ただ神がそれらを真あるいは可能であると認識するからであり、これに反して、それらがあたかも神から独立であるかのように、神によって真と認識されるからではありません」。そして、人が自分の言っていることの意味をよく理解しているのであれば、あることがらについての真理は、神がそれについて持っている認識に先立つと言うことは、神を冒涜*4することになりかねないでしょう。というのも、神において意志することと認識することは一つのことでしかないからです。その結果、「神があることがらを望むというそのこと自体から、神はそれによってそのことがらを認識し、それによってのみそのことがらが真となるのです」。それゆえ、「神が存在しなかったとしても、これらの真理はなお真であろう」と言ってはなりません。というのも神の存在は、およそありうるすべての真理のうちで第一のものであり、最も永遠なものであり、そこから他のすべての真理が生ずる唯一のものだからです。

 あなたは「どのような種類の原因によって、神が永遠真理を確立したのか?」と、お尋ねになっております。それは、あらゆる事物を神が創造したのと「同じ種類の原因によって」、すなわち「作用的で全体的な原因として」であるとお答えします。というのも、神が被造物の存在の作者であるように、本質の作者でもあることは確かだからです。ところでこの本質とは、永遠真理以外の何ものでもありません。私はそれが太陽の光のように神から流出するとは考えておりません。むしろ、神があらゆる事物の作者であり、この真理は何らかのものであり、その結果、神はこの真理の作者であるということを私は知っております。私はこのことを知っていると言い、理解するとも把握するとも言っておりません。というのも、有限であるわれわれの精神は神を把握したり、理解したりすることはできないにもかかわらず、神が無限で全能であるということ自体は知ることができるからです。それはちょうど、われわれは両手で山に触れることができるけれども、われわれの腕の大きさを越えない木や何であれ他のものを抱きかかえるのと同じ具合に、山を両手で抱きかかえることはできないのと同様です。というのも、把握するとは思考によって包み込むことでありますが、あることがらを知るには、思考によって触れるだけで十分だからです。
 あなたは、何によって神はこれらの真理を創造するよう余儀なくされたのか? ともお尋ねです。神は、中心から円周へと引かれたすべての直線が等しいということを真ではないようにすることができるほど自由であったのと同様、世界を創造しないことも自由であった、とお答えします。そして、これらの真理が、他の被造物よりもより必然的に神の本質に結びつけられているわけではないことは確かです。あなたは、神が永遠真理を生み出すために何をしたのか? とお尋ねです。私は「はるか永遠の昔から神がそれらの真理を望み、知性で認識したということ自体から真理を創造した」、あるいは (もしあなたが、「創造した」という言葉を事物の存在にのみ関係づけておられるのであれば) 「真理を確立し、作った」とお答えします。というのも、神においては、意志すること、理解すること、創造することは同一のことであり、理論の順序においてさえも、一方が他方のものに先行したりすることはないからです。

 三角形の内角の和が二直角に等しいとか、あるいは一般的に、相矛盾するものは同時に存立しえない、ということを真ではないようにすることが、いかにして神にとって自由でありまた非決定であったのかを理解することの困難さについて申し上げれば、それは以下のようにして容易に取り除くことができます。すなわち、[第一に] 神の力にはいかなる限界もあり得ないと考えることです。そして [第二に]、われわれの精神は有限であり、次のような本性をもつものとして創造されたと考えることです。つまり精神は、神が実際に可能ある {ママ} ことを欲したものを、可能なものとして理解することはできても、神が可能にすることもありえたであろうが不可能にすることを欲したものを、可能なものとして理解することはできない、ということです。実際、第一の考察は、神は、相矛盾するものは同時に存立しえないということを真とするように、決定していたということはありえない、したがって神はその反対をすることもできた、とわれわれに認識させます。次に第二の考察は、このことが真であるとしても、これを把握するよう努めるべきではない、とわれわれに確信させます。なぜなら、われわれの本性ではそれが不可能だからです。そして、たとえ神がいくつかの真理が必然的であることを欲したとしても、だからといって、神がそれらの真理を必然的に欲した、ということにはなりません。と申しますのも、それらの真理が必然的であることを欲することと、そうであることを必然的に欲すること、すなわち、そうであることを欲するのが必然であるということとは、まったく別のことだからです。確かに、あなたが提示された「神は被造物が神に少しも依存しないようにすることができたであろう」ということのように、それがまったく不可能であるとわれわれが判断することなしに、それをわれわれの精神に表示することができないほどに明白な矛盾が存在することを、私はもちろん認めます。しかしわれわれは、神の力の広大さを認識するために、そのような矛盾を思い描くべきではありませんし、また、神の知性と神の意志との間にいかなる優位ないし優先をも思い抱くべきではありません。と申しますのも、われわれが神についてもっている観念は、神のうちにはまったく単純でまったく純粋な、唯一の働きしか存在しないことを、われわれに教えています。聖アウグスティヌスの次の言葉は、このことを非常に見事に表現しています。「あなた [神] がそれらのものを見給うがゆえに、それらのものは存在する ... 」。なぜなら、神においては「見ること」と「欲すること」は同じ一つのことに他ならないからです。

確かに私には、何らかのことが神によってなしえないと言うべきであるとは決して思えません。実際、あらゆるものの真性や善性は神の全能に依っていますので、神には、谷のない山が存在したり、一に二を加えて三にならないようにすることができない、と言うつもりはまったくありません。ただ私は、谷のない山や、一に二を加えたものが三にならない、等々ということが概念できないような精神を、神が私に与えたのであり、そうした事柄は私の概念のうちに矛盾を混入することになる、と言っているのです。


次に著作から引用します。〔 〕 はフランス語原典にあるもの、[ ] は邦訳者によるもの、{ } は引用者によるものです。また、邦訳にある振り仮名は、引用者の方で丸括弧 ( ) に入れて記します。下線も引用者によるものです。

  • ルネ・デカルト  「第六反論に対する答弁」、『デカルト著作集 2』、所雄章他訳、白水社、1973年、初出1641年、493ページ。

意志決定の自由について言えば、われわれのうちにおけると神のうちにおけるとでは、そのあり方が格段に異なっています。というのは、神の意志が、作られたところのもしくはいつか作られるであろうところのすべての事物 (もの) に対して、永遠の昔から非決定でなかったということは矛盾であるからで、それというのも、善なるものにせよ、真なるものにせよ、あるいはまた信ぜられるべきもの、あるいはなされるべきもの、あるいはやめられるべきものにせよ、神の意志がそれら 〔の本性〕 がそうなるという事態をしつらえるべく自らを決定するに先んじて、それらの観念が神的知性のうちにあったというようなものはなんら仮想することはできない、からです。ここで私は、時間的な優先性について語っているのではありませんし、順序、あるいは本性、あるいは 〔学院で〕 そう呼ぶような推論の規則なるものからして 〔神の意志決定に〕 先んじていた、すなわち、そうした善の観念が神を駆りやって、他の [或る] ものよりはむしろ [或る] 一つのものを選ばしめた、と言っているのですらないのです。つまり、例をあげると、神が世界を時間のうちに創造することを欲したのは、それがそういうふうになっているほうが、永遠の昔から創造されていたとしたよりも、いっそう善いであろうと見てとったから、それだからなのではありませんし、また、三角形の三つの角 [の和] が二直角に相等しくあることを欲したのは、彼がそれとはちがったようになりえないと認識したから、なのではないのです。そうではなくて逆に、神が世界を時間のうちに創造することを欲したから、それゆえそれは、永遠の昔から創造されていたとした場合よりも、かくはより善いのであり、また、神が三角形の三つの角 [の和] の必ずや二直角に相等しくあることを欲したから、それゆえに今やそのことが真なのであって、それとちがったようにはなりえないのです。かくして、それ以外のものについても事情は同様です。

  • ルネ・デカルト  「第六反論に対する答弁」、『デカルト著作集 2』、所雄章他訳、白水社、1973年、初出1641年、496-498ページ。

神の広大無辺さに注意する者にとっては、神に依存しないようなものはおよそ何も、すなわち、存在しつづけているものは何も、というばかりではなくて、またいかなる命令も、いかなる法も、あるいは真と善とのいかなる根拠も {神に依存しないものは} ありえない、ということは明瞭です。というのは、そうでないとすると、少し前に言われていたように、神は、彼が作ったものを作るのに、全く非決定であったということにはならなくなってしまうことでしょうから。というのも、善の何らかの根拠が神の予定に先行したとするならば、その根拠が神を、最善であるところのものをなすように決定したということになってしまうでしょうから。しかし、[実際には] 逆に、神が自らを、現に 〔この世界に〕 あるところのものを作るように決定したから、それだから、『創世記』に述べられているように、「それらははなはだ善である、」{ママ} のですし、言いかえるならば、それらの善性の根拠は、神がそれらのものをこのように作ることを欲したという、そのことに依存しているのです。ですから、いったいいかなる類の原因によって、そうした善性や、〔すべての〕 他の、数学のであろうと形而上学のであろうと真理 [ども] が、神に依拠しているかを問うことは必要ではありません。{...} また、神が永遠の昔から、四の二倍が八であること、等等、は真でなかったようにすることができたのはどうしてなのか、を問うことも必要ではありません。というのは、私はそれがわれわれによっては知解されえないということを認めているからです。けれども、他方では正しく私は、いかなる類の存在 (もの) のうちにも、神に依存しないようなものは何もありえないということを、そして、神にとっては或る種のもの [ども] を、われわれ人間によってそれらが現にある状態とはちがった状態にもありうることが知解されるということのないように、そういうふうに設定することは容易であったということを知解しているのですから、われわれが、知解してもいなければ、われわれによって知解されねばならぬことに気づいてもいないところのもの [理由] のために、正しくわれわれの知解しているところのものについて疑うということは、理にもとることにもなるでしょう。したがって、「永遠の真理は、人間の知性にか、あるいは、他の存在する事物 (もの) にか依存する」、とではなくて、それらの真理を永遠の昔から、この上なき立法者として制定したところの、独り神 〔の意志〕 にのみそれらは依存する、と考えるべきなのです。


3. Kripke 先生、Descartes を駁す。

さて問題の、Kripke 先生による Descartes の永遠真理創造説駁論を、次から引用します。文献名を再度掲げます。

  • Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' CUNY Academic Works, 2015, A Ph.D. Dissertation submitted to the City University of New York, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>.

Descartes さんは、上に引いた本人の説明からわかるように、論理の成り立たないような世界を神は創ることができたし、そのような世界は、神が創造することで存在しうる、と考えています。この主張に Kripke 先生は反対します。神が命令によってそのような世界を創ることができるとすることに、Kripke 先生は問題を見ています。先生の反論は以下のとおりです。

なお、引用文中にある ( ) は、英語原文にあるものです。原文の後に、私による私訳/試訳を付けておきます。私による訳ですので誤訳しているかもしれませんから、必ず参考程度にしておいてください。あらかじめ存在するであろう誤訳、悪訳に対し、お詫び申し上げます。

 We do not need to consider whether the laws of logic are necessary by divine decree, or whether a coherent conception of their necessity could accord with this. It is enough to see whether a divine decree could make the laws of logic true (in the actual world). My claim is that God's decree that every universal statement implies each of its instances will be of no use.

 For example, would the decree necessitate that ''everything can be at most at one place at a given time'' implies that such and such a rock can be in at most at one place at a given time? No, because according to Descartes there is a possible world in which every universal statement implies each of its instances, but at the same time a particular universal statement about places does not imply each of its instances. Similarly for any other particular universal statement. Thus, the decree by God that universal instantiation does hold in the world he created would be in and of itself useless.

 To repeat: is it sufficient to explain why every universal statement implies its instances that God decreed that this be so? No, because it would be possible that God should have decreed that every universal statement implies its instances and also that a particular universal statement fails to imply all of its instances. Therefore, such a decree is ineffective by itself (and God of course could have made such a conflicting decree because, according to Descartes, he is not bound by the laws of logic or anything else).

 The laws of logic need to hold for these divine decrees to be at all effective, otherwise God could decree that the three angles of a triangle equal two right angles, but nevertheless at the same time decree that the three angles of a particular triangle do not equal two right angles. Hence, such divine decrees are ineffective as to explain why the laws of logic hold in the actual world, let alone other possible worlds. With other cases, as for example why are there frogs, a decree could work as an explanation, but not in the case of logic.*5


 神の命令によって、論理法則が必然的であるのかどうか、あるいは、論理法則の必然性についての整合的な考えが、神の命令に合うのかどうか、ということを、我々は考える必要はない。神の命令が論理法則を (現実の世界で) 真にすることができるのかどうかを見るだけで、十分である。私の主張は、こうだ。すべての普遍言明はその個別例のどれをも含意する、という神の命令は、どうしても役には立たない、というものだ。

 たとえば、神の今の命令は、次のことを必然的なものにするだろうか。すなわち、「すべてのものは、高々一時に一つの場所を占めることができるだけである」は、しかじかの一つの岩は、高々一時に一つの場所を占めるだけである、ということを含意するだろうか。いいや、含意しない。なぜなら、デカルトによると、すべての普遍言明がその個別例のどれをも含意していながら、しかし同時に、場所に関する特定の普遍言明がその個別例のどれをも含意するとは限らないという、そういう可能世界があるからである。同様のことは、その他のどんな特定の普遍言明にも当てはまる。こうして、普遍例化は神が創り出した世界で成り立つのだ、とする神の命令は、それ自体では無益だろう。

 繰り返そう。なぜすべての普遍言明がその個別例を含意するのかを説明するために、すべての普遍言明がそのとおりであるようにと神が命令したからであると言うだけで、十分だろうか。いいや、十分ではない。なぜなら神は、すべての普遍言明はその個別例を含意するのだ、と命令するとともに、ある特定の普遍言明はその個別例のすべてを含意しているとは限らないのだ、と命令することもあったはずであり、このことは可能だろうからである。それ故、そのような、すべての普遍言明はその個別例を含意する、という命令は、それだけでは効力を持たない。(そして、もちろん神は、デカルトによるならば、論理法則やその他のものに縛られはしないので、今述べたような相容れない命令を、神は下すこともできただろう。)

 論理法則は、ともかく効力を持つべきこれら神の命令に対し、成り立つ必要がある。さもないと、神は、三角形の三つの角は二直角に等しい、と命令する一方で、それにもかかわらず同時に、特定の三角形の三つの角は二直角に等しくない、と命令することもできてしまうだろう。故に、そのような神の命令は、なぜ論理法則が現実の世界で成り立つのかを説明することについて、効力を持たない。いわんや他の可能世界においてをや。別の場合、たとえば、なぜ蛙がいるのか、ということについては、命令は説明として機能し得るだろうが、論理の場合には機能し得ないだろう。


4. Kripke 先生による Descartes 駁論再構成に必要とされる制約について。

最初に述べたように、Kripke 先生による Descartes 駁論を再構成する際に、課されるべき制約がいくつかあります。少なくとも全部で9つです。その制約を列挙しておきます。


1. 矛盾律が鍵。

Kripke 先生の教え子である Padro 先生によると、Descartes に対する Kripke 先生の論証では、神は「p かつ p でない、ということはない」という矛盾律*6を犯すことができるということが、鍵になっているとの話です (Padro, p. 126.)。つまり、神は矛盾したことも命令でき、矛盾したことも成立せしめることができる、ということが鍵になっているということです。そこでこの矛盾律に対する神の侵犯を中心に論証を敷衍する必要があります。


2. Epistemological argument ではなく、modal argument.

やはり Padro 先生によると、Kripke 先生の問題の論証は、何かを知っているとか知らないということに関する epistemological な argument ではなくて、metaphysical なことに関する modal argument だそうです (Padro, p. 126.)。そこで modal argument というつもりで論証を敷衍する必要があります。


3. 神の命令によって論理法則が必然的であるかどうかは関係ない。

Kripke 先生は、自身の論証の冒頭で、自分の論証では、神の命令により論理法則が必然的であるかどうかは問題になっていない、と明言しています。そこで必然性の概念を前面に立てないようにして、論証を敷衍する必要があります。


4. 神の命令が論理法則を真にできるかどうかが問題である。

Kripke 先生は、自身の論証の冒頭で、むしろ自分の論証では、神の命令が論理法則を真にできるかどうかが問題である、と言っています。そこで、論理法則が真であるかどうか、真にできるかどうか、真であるならば、どういうことになるのか、ということに注目しながら論証を敷衍する必要があります。


5. 神の命令が論理法則をこの現実の世界で真にできるかどうかが問題である。

Kripke 先生は、論証の最初の段落と最後の段落で、神の命令が論理法則を、何よりもまずこの現実の世界で真にできるかどうかを問題にされています。この現実の世界以外の特殊な可能世界を持ち出して駁論を展開されているわけではありませんので、この現実の世界を念頭に置いて論証を敷衍する必要があります。


6. 神は論理法則を真にすることはできるのだが、そのことを利用したところで論理法則が真であることの説明としては役に立たない。

Padro 先生によると Kripke 先生の問題の論証は、Descartes の永遠真理創造説が不整合だとか理解しがたいということで論難を加えているのではないそうです (Padro, pp. 125-126.)。実際 Kripke 先生が行なっている論証は、Descartes の説が、論理法則の成立することの説明としては、役に立たないということの主張です。そこで Descartes の説では役に立たないことが明らかになるように、論証を敷衍する必要があります。


7. かえる君を無視しない。

神の命令を持ち出すことで、論理法則が真であることを説明しようとしても、それは役に立たないが、かえる君がなぜこの世にいるのかを説明する際には、神の命令による説明は役に立つと、最終段落で Kripke 先生は述べておられますので、論理法則の説明には役に立たないものの、かえる君の存在理由には役に立つというように、論証を敷衍する必要があります。


8. 神の概念の深い解釈は前提しない。

神は、無限であるとか完全であるとか慈悲深い、などなどと言われます。しかし Kripke 先生の論証に現われる神は、単に全能なだけの神であると思われます。全能であるが故に論理法則に縛られない神が先生の論証で使われていますので、神のそのような特徴だけを使って論証を敷衍する必要があります。


9. 命令の概念の詳しい解釈は前提しない。

平叙文を述べることと命令文を述べることは、一般に、異なるとされています。命令するということには、他にはない特徴があるということです。しかも神の命令となると、それは人間の下す命令とは、かなり違ったものだろうと想像されます (人間の命令には逆らおうと思えば逆らえるが、神の命令は逆らうことが不可能な強制力を持つ、など)。しかし Kripke 先生の論証では、神による特殊な命令の能力は前提されていないようです。そこで神の命令に特別な意味合いを持たせないようにして、論証を敷衍する必要があります。(上に挙げた Descartes さんの多数の引用文からわかることの一つは、彼の永遠真理創造説では命令の概念が持ち出されていない、ということです。Kripke 先生は盛んに「命令、命令」と言っておられますが、Descartes さんはまったくそういう言葉は言っておられないようです。これが、永遠真理創造説に対する両者の違いの一つになっています。)


以上が、再構成する際に課される特別な制約のすべてです。これ以外にも課されるべきことがあるかもしれませんが、これぐらいにしておきます。また、以上の制約を緩めるとか、減らすということも考えられますが、今回はそこまでは検討致しません。どうかご了承ください。(しかし、制約を緩めたり減らしたりすると、Kripke 先生の問題の論証はどう変わるのか、そのことを考えてみるのも面白いと思いますが。)


これで終わります。本日の記述が、少しでもどなたかのお役に立てればと思います。今日の話からは、たとえば次のような諸問題に対し、何かヒントが得られるかもしれません。論理法則/規則とは、どのような特徴を持ったものなのか、それは必然的か否か、必然的ならどのような点で必然的なのか、必然的でないならなぜ必然的でないのか、必然的でないとすると論理法則/規則はどうなってしまうのか、神は全能か、全能なら神は論理法則/規則をどうとでもできるのか、神が全能でないならこの世はどうなるのか、神に義はあるのか、などなど、などなど、です。

なお、今日記したことに誤解、勘違い、無理解、誤字、脱字などがありましたらすみません。どうかお許しください。

*1:小林、70ページ。

*2:小林、98-99ページ。

*3:野田、94-95ページ。

*4:引用者註。この「涜」の字は、邦訳では、さんずい偏に、士、四、貝を縦に並べた旁から成りますが、都合上、「涜」で代用しています。

*5:Padro, p. 125.

*6:「無矛盾律」とも呼ばれています。