目次
- はじめに
- 1. 数字・数詞は形容詞のように振る舞うので、数は性質であろう
- 2. Frege の反論「数は性質ではない」
- 3. Frege の反論「数は性質ではない」に対する反例・反証
- 4. Frege はまだ生きている (かもしれない)
- 終わりに
- 補注
はじめに
前回は、ドイツ語の文を和訳することで、Dedekind と Cantor の集合観を報告させてもらいました。
今回も似たような感じでドイツ語を私の方で和訳し、そこに見られる論証を楽しんでみたいと思います。
ただし、和訳するとはいえ、既に翻訳が世に出ているもので、珍しいものではありません。今日取り上げるのは、Frege の Grundlagen です。出典情報を記します。
・ Gottlob Frege Die Grundlagen der Arithmetik, hg. von C. Thiel, Felix Meiner, Philosophische Bibliothek, Bd. 366, 1988.
Frege はちょくちょく小気味のよい論証を提示してくれますので、今上げた本の§22の一部から、そんな論証を引用して楽しんでみましょう。
なお、私はここで Frege の論証を借りて、何か original な主張を展開しようというのではありません。(それは今の私にはできません。) 簡単なことを気楽に書きますので、気楽にお読みいただければうれしく思います。
1. 数字・数詞は形容詞のように振る舞うので、数は性質であろう
さて、私たちは
白い石
だとか
2つの石
などと言うことがあります。「白い石」と言っている時、「白い」という言葉は形容詞として働いていると思われるので、白いということは石の性質と考えられます。
同様に「2つの石」という表現の「2つの」という言葉も「石」を形容していると思われるので、2つということも性質と考えられます。もしそうだとするならば、2 や3などの自然数は物の性質だ、と言うこともできそうです。
しかし Frege は、これに反対する論証を提示しています。以下、その論証を上記の本から原文で引用し、文字どおり試しにこちらで訳を付けてみます。つまり試訳/私訳を付けてみます。既に刊行されている邦訳がよくないというのではありません。
試訳/私訳については、私の誤読、誤訳を防ぐためにあまり意訳はせず、直訳、逐語訳に近い形で訳します。それでも誤訳しておりましたら大変すみません。あとで念のために刊行されている和訳、英訳を参照させてもらいました *1 。訳者の先生方に感謝申し上げます。ありがとうございます。
2. Frege の反論「数は性質ではない」
さて、数が性質であるという主張に反論するため、物に備わっている性質ついて、Frege は言います。
ここで注目したいのは、1000枚の葉が付いた木があるとして、その全体が緑色ならば、その個々の葉も緑色であるが、しかし全体に葉が1000枚あるとしても、個々の葉までそれぞれ1000枚とは言えない、という点です。
木の葉全体が緑色をしていて、その葉全体が緑色という性質を備えているならば、個々の葉も緑色という性質を備えているのは確かです。(なかには黄色く変色しているものもあるかもしれませんが。)
もしも色と数とが性質ならば、木の葉全体が1000枚で、その葉全体が1000枚という性質を備えている時 (下記補注参照)、個々の葉も1000枚という性質を備えていると思われます。しかし実際にはそんなことはありません。
色という性質は、全体がある色をしているならば、普通、その部分も同じ色をしています。しかし数については、全体がある数を持っていても、その部分まで同じ数を持っているとは言えません。
このような意味で、数は物の性質ではないと思われます。あるいは少なくとも、数が物の性質である可能性は高くないと思われます。
上の Frege の文からは、以上のような、数が物の性質ではないことを立証する論証が一応取り出せると思います。あるいはそこからは、数が物の性質である蓋然性が高くないことを示す論証が一応取り出せます。
これはなかなか小気味いい論証ですね。Frege の論証で時々面白いと感じられるところは、ムズカシイ話でも、緑色や葉っぱ、2や3などのすごく身近な例を使って「ほら、2や3が性質なら、性質の典型である物の色と全然違うところがあるじゃないか。ね、やっぱり数は性質ではないでしょ」と、わかりやすく、あからさまで、あざやかな反例を出して、相手を困らせてみせるところです。あからさますぎて身もふたもない反例を Frege は出してくることがあります *4 。それにしても大変わかりやすい話ですし、「う~む、なるほど、とすると、どうなるのかな、これは?」という具合に、引き込まれて検討に参加したい気分にさせられます。
難解で深遠で秘教的な哲学なら、取り付くところが見つからなくて、ただちに沈没してしまいますが、上のような論証なら、ひょっとすると中学生でも思いつきそうですし、参加を促されるでしょうね。
3. Frege の反論「数は性質ではない」に対する反例・反証
それでちょっと私の方でもこの論証の検討に参加させてもらいますと、Frege に対し、すぐに次のような反論が思い浮かびます。
つまり、いかなる性質ついても、全体がその性質を持つならば、部分も必ずその性質を持つものなのでしょうか? 全体がその性質を持っていながら、部分がその性質を持っていない時、そのような性質は、性質のように見えて実は性質ではない、ということになるのでしょうか?
性質であると確かに見なされるもので、全体がその性質を持ちながら、しかし部分はそのような性質を持っていない、という事例は、容易に見つかります。
たとえば、
(1) 硬い、破れにくいという性質:
分厚い紙の束は硬くて破れにくい。けれども、この束の個々の紙は硬くて破れにくいかというとそういうことはなく、柔らかくて破れやすい。
(2) 丸いという性質:
地球は丸い。しかし、だからといって、あなたの足下も丸いかというとそんなことはなく、平べったい。
(3) 緑色であるという性質:
木の葉っぱは緑色をしている。ならば、葉っぱの細胞も緑色をしているかというと必ずしもそうではなく、細胞内の葉緑体は緑色だが、細胞自体は別に緑色というわけではない。(たぶん、そうだったと思う ... 。)
(4) 夫婦であるという性質:
田中太郎さんと田中花子さんは夫婦である。つまり2人は田中さん夫婦である。この時、田中太郎さん1人も田中さん夫婦かというとそういうことはない。
まだまだ思いつくことができると思いますが、これぐらいにしておきましょう *5 。
さてここまで、全体に対しては当てはまりながら、その部分については当てはまらない性質を考えてみました。全体が1000なのに部分は1000ではないから、数は性質ではない、という主張は、以上の反例・反証を見る限り、その限りでは、説得力を欠くと思われます。
このような反例・反証に力を得たためというわけではないようですが、数は性質ではないどころか、実はそれは性質なのだ、とする議論もあります。そのような議論のなかには Frege に正面から挑んでいる考察もあり、興味をそそられます *6 。この考察を正しいものとするには、今回の引用文が現れている Grundlagen, §22その他における Frege の主張を、論破してやる必要があるでしょう。
また、全体には当てはまるが個々の部分には当てはまらないという、そういう性質を表わした述語、たとえば先の反例・反証の最後に上げた (4) の「夫婦である」のような述語は、ごくありふれた表現なので、この種の述語を論理学上の正式な、他に書き換えられることのない表現として採用したい気にかられます。実際にこのことは可能かどうかということにも興味がわいてきますね *7 。可能であるならば、Frege の主張に対する強力な反論となりそうです。
4. Frege はまだ生きている (かもしれない)
これらの探究は、それはそれとして興味深いですが、その前に、先の反例・反証によって、数は性質ではないという Frege の主張が論破されたのかというと、まだそうではないと思われます。
全体が1000なのに部分は1000ではないから、数は性質ではない、という主張は、Frege にとって数が物の性質ではない傍証にすぎません。この傍証がたとえ論破されたとしても、本筋が論破されたとまでは言えませんので、まだ Frege にとっては the End を迎えたわけではないでしょう。
上に掲げた引用文で数が性質ではないという傍証を得たあと、Frege は数が性質のように物自身にいわば直接に関わっているのではなく、私たちの側の、物の把握の仕方、たとえばトランプという物をカードだとか、セットだとか、得点というような観点から把握するところに数は関わっているのだと考えて、話を進めて行きます。この把握の仕方というものは、やがて「概念」と呼ばれるものにつながり (Grundlagen, §46)、そして数を概念の外延と見なす考えに結実します (Grundlagen, §68)。
こうなると話が長くなり込み入ってきますし、だんだん取りとめがなくなってきそうですので、このあたりでやめましょう。
終わりに
何にしましても、短くて鋭い論証は説得力があり、誰もが頭の中で転がしていじくり回し、ぶつぶつ考えてみることができるので面白いです。難解、深遠、秘教的な哲学の文章は、そもそも何を述べているのか、気分はわかっても、その内容に関して確信を持つことが難しく、そのため、こちらの方で確信を重ねつつ論を進めることもできないので、説得されもしなければ、その文章に基づいて人を説得することもできず、なかなかつらいです。難解、深遠、秘教的な哲学の文章に説得されないのは、私の勉強不足が大きいとも言えますが ... 。
これで終わります。今回 Frege を読み直して、私なりに気付いたことがありました。この私の文を読まれた方にも何か気付きがあれば幸いです。誤訳や悪訳、誤解、無理解、勘違い、誤字、脱字がありましたら (あるでしょうね) 謝ります。すみません。
補注
「その葉全体が1000枚という性質を備えている時」と書きましたが、Frege 自身は引用文中で、その葉全体に1000枚という性質が備わっているとは考えていません。
Frege は、ある木に1000枚の葉が付いている時、その葉全体を「群葉 (Laub)」と呼ぶことができるが、この群葉は1000 (枚) ではない、と言っています。これがなぜなのか、私には正直に言ってよくわかりません。
葉が一まとめにされているので、それは1であって1000ではない、ということなのか、一まとめにされた群葉といえども、現にそこにあるのは個々の葉でしかなく、厳密には群葉なるものはないので、1000が付されるようなものはない、と言っているのか、どういう理由から群葉が1000枚でないと Frege は言っているのか、私にははっきりわかりません。私が何か見落としているのかもしれません。
でも、たぶんですが、次の理由からかもしれません。群葉の原語 Laub はいわゆる集合名詞です。つまり不可算名詞です。水、water のように、それ自体では一つ、二つとは数えられないものです。一杯、二杯などの単位を与えてやらないと数えられません。したがって Laub はそもそも数えられないものなので、とにかく1000ではない、と Frege は言っているのかもしれません。
なぜ全体が1000でないのか、正確な理由はわかりませんが、数と色などとの対比をわかりやすく表わしたいので、以下では常識的に、木の葉全体が1000枚であるとして話を進めます。
*1:次の和訳と英訳を参照しました。G. フレーゲ、『算術の基礎』、フレーゲ著作集 2, 三平正明、土屋俊、野本和幸訳、勁草書房、2001年。Gottlob Frege, The Foundations of Arithmetic, Second Revised ed., tr. by J. L. Austin, Basil Blackwell, 1953.
*2:Frege, Grundlagen, §22, SS. 34-35.
*3:参考のため、刊行済みの和訳を引用しておきます。「実際、私は単なる見方によって物の色とかその硬さを些かも変えられないのに対して、私はイーリアスを一編の詩としても、24巻としても、あるいは多数の行としても見なすことができる。木の1,000枚の葉について語るのは、緑の葉について語るのとは全く意味合いが異なるのではないか? 我々は各々の葉に緑色を付与するが、数1,000は付与しない。木のすべての葉は、群葉という名の下にまとめることができる。これもまた緑であるが、しかし1,000枚ではない。では、性質1,000は一体何に帰属するのか? 個別の葉にも葉全体にもほとんど帰属しないように思われる。もしかするとこの性質は、本当は外界の物には決して帰属しないのではないか?」、『算術の基礎』、73ページ。
*4:Frege が反論を加えて Wittgenstein を困らせてみせた話については、当ブログ、2011年6月19日、項目名「Frege's Blunt Refutation of the View That the Meaning of a Sentence Is its Corresponding Fact」を参照ください。追記2019年12月31日: Frege にやり込められたという証言を Wittgenstein が残していることについては、今上げた2011年6月19日の当ブログでも言及している伝記、B. マクギネス、『ウィトゲンシュタイン評伝 若き日のルートヴィヒ 1889-1921』、藤本隆志他訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局、1994年、140ページを参照ください。なおこの140ページでは、邦訳としては、次の文献から引用がなされているのですが、G. E. M. アンスコム、P. T. ギーチ、『哲学の三人 アリストテレス・トマス・フレーゲ』、野本和幸、藤澤郁夫訳、勁草書房、1992年、241-242ページ、マクギネス本ではそこで「私 [Wittgenstein] はフレーゲの書斎に通された。[...] 彼 [Frege] は話しながら部屋の中をはねるように歩きまわった。私は彼に散々やりこめられてしまい、すっかり意気消沈した」とあるところが、アンスコム・ギーチ本では、「私はフレーゲの書斎に通された。[...] 彼は話しながら部屋中あちこち歩き回った。まるで一緒に床をすっかり拭き掃除してしまったかのようで、私はひどく意気阻喪してしまった」となっています。マクギネス本では「私は彼に散々やりこめられてしまい」とあり、アンスコム・ギーチ本では同じ個所が「まるで一緒に床をすっかり拭き掃除してしまったかのようで」となっていて、ずいぶん違っています。どうしてこうなっているのか、私はこれら二つの本の英語原本を持っておらず、確認するのもちょっと面倒なので、今のところ相異の理由がよくわかりません。マクギネス本を信じるなら、Wittgenstein は Frege にかなりやり込められたことがあるようです。追記終わり
*5:似たような例が次にも載っていました。Harold W. Noonan, Frege: A Critical Introduction, Polity, 2001, p. 93. そこで上げられている例は以下のものです。小石がピラミッドのように積まれていたとしても個々の小石自身がピラミッドの形をしているとは限らない、このピラミッドの山が1kgだったとしても個々の小石が1kgということはない、このピラミッドの山の体積が50cm3だったとしても個々の小石までも50cm3ということはない。なお、ここでは、重さや体積の単位をイギリスで慣用されているものから日本でなじみのあるものに変え、数値も適宜変更しています。
*6:Byeong-uk Yi, ''What Numbers Should Be,'' in his Understanding the Many, Routledge, 2002, pp. 77-91. Yi 先生がこの論文で言っておられることを非常にざっくりと述べれば、次のような感じになるでしょうか。Frege は (1) Two plus one is three (i.e., 2+1=3) のような文を基本とし、この文の 'Two' などは単称名 (singular term) のように振る舞っているので、数は性質ではなく、何か対象のようなものであると考えるが、(2) Bill and Hillary are two Americans を基本に採れば、数は形容詞のように振る舞っているので、対象ではなく性質である。(1) を基本に採る考え方だと (2) を正しく分析できないが、(2) を基本に採る考え方であれば (1) を正しく分析でき、しかも (1) と (2) との密接な関係も説明できる。こうして結局数を対象ではなく性質と見る方が自然なのである。
*7:「夫婦である」というような述語は、複数のものに当てはまっても、その複数を構成している個々のものには当てはまらない述語でした。このような述語は「複数述語」と呼ばれますが、複数述語は、現在の標準的な論理学では扱っていません。しかしこのような複数述語を論理学の基本的な語彙として採用すべきである、という意見もあります。日本語の文献としては、次を参照ください。飯田隆、「複数論理と日本語意味論」、西日本哲学会編、『哲学の挑戦』、春風社、2012年。また、飯田先生は、最近上梓された著作『日本語と論理 哲学者、その謎に挑む』、NHK出版新書、NHK出版、2019年、70-74ページで、「2つの石」に見られる「2つの」という表現は、「白い石」の「白い」と同様に、「石」を形容していると想定されています。ここから、先生は2や3などの自然数を何らかの性質と見なそうとされているものと推測できます。ただし、先生はここで自然数を性質であるとは、まったく断言されていないので、これはあくまで私の推測です。