目次
前回、Frege が展開している論証をドイツ語原文とその和訳で楽しんでみました。その論証は、どこかあからさまで、身もふたもないところのあるものでした。
今回も同種のことを楽しんでみましょう。今日も、Frege のよく知られた文をドイツ語原文で引用し、それに対し、私による直訳・逐語訳と、刊行されている和訳を並べてみます。
そのあと、そこに見られる論証を軽く眺めてみましょう。
Der Gedanke
まずドイツ語原文を引きます。出典情報は次のとおりです。
・ Gottlob Frege ''Der Gedanke,'' in hg. von I. Angelelli, Kleine Schriften, 2. Auflage, Georg Olms, 1990, SS. 343-344.
直訳・逐語訳
次に、私による直訳・逐語訳を掲げます。この直訳・逐語訳によって、意訳では味わいにくい原文のゴツゴツした感じや、著者の息づかい、そしてその気分に触れてもらえればと思います *1 。
なお、私は「直訳・逐語訳こそ理想的な訳であって、意訳はよくない」と考えているのではありません。どちらの訳も場合によりけりだと思っています。
ここでは研究を行おうとしているのではなく、遊びのようなことをしているだけですので、「直訳・逐語訳とは随分また酔狂なことをしているなぁ〜。ちょっと暇だし読んでみようか」という感じで、肩ひじ張らずに楽しんでいただければうれしいです。
また、私はドイツ語に堪能ではありません。そのため、以下の訳に「誤訳・悪訳は一切ありません」とは断言致しません。気をつけたつもりですが、あったらすみません。ごめんなさい。
あまりにひどい誤訳・悪訳があるといけませんので、次の英訳、仏訳、和訳を参考にさせてもらいました (仏訳は疑問のある部分だけを見ました)。
・ G. Frege ''Thoughts,'' in Logical Investigations, ed. by P. T. Geach, tr. by P. T. Geach and R. H. Stoothoff, Yale University Press, 1977, pp. 2-4,
・ G. Frege ''Thoughts,'' tr. by P. T. Geach and R. H. Stoothoff, in Collected Papers on Mathematics, Logic, and Philosophy, edited by B. McGuinness, Basil Blackwell, 1984, pp. 352-353,
・ Ulrich Pardey Frege on Absolute and Relative Truth, Palgrave Macmillan, 2012, pp. 223-230,
・ G. Frege ''La pensée,'' in Écrits logiques et philosophiques, tr. par C. Imbert, Éditions du Seuil, 1971, pp. 171-173,
・ G. フレーゲ 「思想」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、黒田亘、野本和幸編、勁草書房、1999年、205-206ページ、
・ G. フレーゲ 「思想」、藤村龍雄訳、『フレーゲ哲学論集』、岩波書店、1988年、101-102ページ。
Pardey 先生のご高著 Frege on ... をここに上げているのは、上記該当ページで Frege の ''Der Gedanke'' 論文ドイツ語原文 (の一部) と、その部分の Geach and Stoothoff 訳と、Lotter さんという先生の助力を仰いて作成された自らの英訳を並べておられるからです。
以下では Yale UP の英訳 *2 を GS 版、Pardey 先生の訳を PL 版、そして勁草書房の和訳を勁草版と称することにします。
では、直訳・逐語訳を記します。註はすべて訳者によるものです。話法の助動詞を中心に、語学上、気になった点を、二、三、訳註として記しています。間違ったことを書いていましたらすみません。
勁草版和訳
続いて、刊行されている勁草版の和訳を記します *7 。訳注は省いて引用します。引用文中のカッコ [ ], ( ) は訳者の野本先生によるものです。
注目の論証
さて、この上の引用文中で私たちが注目してみたい論証は二つあります。一つは、いわゆる真理の対応説は間違っているとする論証 I、もう一つは、真理は定義不可能だとする論証 II です。まず一つ目を見てみましょう。
I 真理の対応説の反証
この反証で私がおもしろいと思うのは、石や木の葉、それにケルン大聖堂の絵とケルン大聖堂というようなわかりやすい具体例を使いながら、Frege は真理の対応説を字義通りにとって、「真理は対応や一致にあると言うけれど、ケルン大聖堂の絵とケルン大聖堂をどう一致させればいいと言うのだ? 無理やりねじ込むように絵と大聖堂を重ね合わせればいいと言うのか? そんなことしたって一致するわけないじゃないか。真理が一致にあると言うなら、一致させてみせてもらいたいもんだな」と言わんばかりの言い分になっている点です。私など、このような言い分を読むと「Frege 先生、ちょっとやりすぎな気がしますよ。そんな文字通りにとらなくても ... 。身もふたもないですよ」と思ってしまいます。Wittgenstein なら、きっとこのような Frege による批判を 'silly' だと思ったことでしょう *8 。
それはそうと、ここでの Frege による反証の肝 (きも) はどこにあるのでしょうか? 上記 Pardey 先生のご高著 Frege on Absolute and Relative Truth において、Dummett 先生の文章が引用されている個所があり *9 、そこで Dummett 先生は反証の肝を解説しておられますので *10 、この解説を当方で敷衍して以下に示してみましょう。(Dummett 先生の文章を誤読していましたらすみません。)
真理を次のように定義しよう。何らかの A, B, C について、
(1) A は真である iff A は ( B の点で) C に一致する。 ( iff は if and only if の略)
この定義中の「( B の点で)」という文言は、あってもなくても構いません。どちらでも同じであることが、あとでわかります。
さて、(1) の左辺が言えるためには (1) の右辺のようになっている必要があります。(1) の右辺のとおりであるためには何が必要でしょうか? それは (1) の右辺が成り立っていること、要するに (1) の右辺が真であることです。
つまりこれは、右辺を D と略記すれば、D が真であることが必要だ、ということです。すると D が真であるとは、(1) によると、何らかの E, F について、
(2) D は真である iff D は ( E の点で) F に一致する。
ということです。では、今度はこの (2) の左辺が言えるためには何が必要でしょうか? そう言えるためには (2) の右辺のとおりである必要があります。ならば、(2) の右辺が真でなければなりません。
今 (2) の右辺を G と略記すれば、G が真でなければならず、この時、何らかの H, I について、
(3) G は真である iff G は ( H の点で) I に一致する。
ということになります。
こうなると I の次は J, K, L, ... と続いてしまうことがわかります。ここで (1), (2), (3), ... をふりかえると、これらはいずれも、何らかの X, Y, Z について、
(*) X は真である iff X は ( Y の点で) Z に一致する。
というのと同じパターンを繰り返していることがわかります。Dummett 先生によると、これが Frege の言う真理の対応説の循環論証です。これを見れば、(1), (2), ... の「( B の点で)」などなどという限定があろうがなかろうが変わりがないことがわかるでしょう。
II 真理定義不可能性論証
上で引用した Frege の文章で注目したいもう一つの論証は、真理の定義を不可能だとする論証です。これは引用文の最後に現れていました。この論証がどのようなものであるかについても Dummett 先生に聞いて *11 、私の方で敷衍してみましょう。(これも私が Dummett 先生を誤解していましたらすみません。)
さて、真理の定義は不可能だとする論証は、先ほど述べた真理の対応説の循環論証とよく似ています。
何か A が真であることは、それがある特徴・性質 B を持っていることだとして、以下のように真理を定義してみましょう。
[1] A は真である iff A は B である。
この式の左辺が言えるためには、この式の右辺のとおりでなければなりません。これはすなわち、
[2] A は真である iff 「A は B である」は真である。
ということです。するとこの [2] の左辺が言えるためには、その右辺のとおりでなければならず、これは [2] の右辺が真であるということですから、
[3] A は真である iff 「「A は B である」は真である」は真である。
でなければなりません。すると、この [3] の左辺が言えるためには、その右辺のとおりでなければならず、・・・ と、このあと同様のことがどんどん続いて行きます。同じパターンの繰り返し・循環です。これではいつまで経っても真理は定義できません。
故に真理 A が持つ特徴・性質 B が何であれ、真理の定義は不可能です。
論証の成否は?
さて、Frege による真理の対応説の循環論証 I と真理の定義不可能性論証 II は正しいでしょうか? Dummett 先生によると、二つの論証がともに同じパターンをしているなら、どちらも正しくない、ということになるようです *12 。
問題があると考えられる論証のステップは、前者の論証 I においては、上記 (1) の式の左辺が言えるためには、その右辺がまずもって真でなければならず、よって前もって 上記 (2) の式が言えねばならない、というところです。はたして (1) の左辺が言えるためには、まずもってその右辺が真でなければならないのだろうか、という疑念があります。
後者の論証 II における問題のステップも同種のステップにあると考えられ、それは上記 [1] の式の左辺が言えるためには、その右辺がまずもって真でなければならず、よって前もって [2] の式が言えねばならない、という部分です。
これに対し、Dummett 先生は、前もって (1) や [1] の右辺が真でなければならないとは言えない、とお考えです。私もたぶんそうだろうと思います。
私が考えた例で、適切ではないかもしれませんが、次のようなたとえを見てみましょう。
<1> A は日本語である iff A は国語辞典に載っている語彙によって構成されている。
何かが日本語であることを、仮にこのように定義してみましょう。この時、前もって以下のように言えなければならないものでしょうか?
<2> A は日本語である iff 「A は国語辞典に載っている語彙によって構成されている」は国語辞典に載っている語彙によって構成されている。
この <2> の右辺のように言えようが言えまいが、<1> の左辺のように言うためには <1> の右辺が言えるだけで十分ではないでしょうか? *13 だとすると、(1) や [1] の左辺が言えるためにはその右辺だけで十分で、その右辺が真であると前もって保証を取りつける必要はないと思われます。
私によるこのたとえは、まだ思いつきの段階なので、適切かどうかはわかりませんが、このたとえによれば、「(1) や [1] の左辺が言えるためにはまずもってその右辺が真でなければならない」という論証のステップには、どこか怪しいところがあると感じさせてくれます。
しかしいずれにせよ、ここでの話を私はまだ詰めて考えてはいないので、「感じがする」と述べるだけで最終的な判断は保留しておきたいと思います。気になった方は、私のこの話をたたき台にして、考えを進めていただければと思います。
なお、上で言及した Pardey 先生は、Dummett 先生による Frege の循環論証 I, 真理定義不可能性論証 II の解釈は間違っており、Dummett 先生がなしたこれら両論証に対する評価 (「同じパターンの論証なら、どちらも正しくない」) も間違っていると反論し、Frege の論証を擁護されているようです *14 。私は力量不足と時間不足により、Pardey 先生のこの反論をまだほとんど読んでいません。
ちなみに、今回言及している Pardey 先生のご高著 Frege on Absolute and Relative Truth では、Frege の '' Der Gedanke'' における、本日私たちが論じてきた段落とその次の段落だけを取り上げ、このたった二つの段落のみを一冊の本ほとんど全部を使って詳細に分析しています。今日の話を突っ込んで考えてみたい方は、Pardey 先生の主張に賛成であれ反対であれ、どちらにしてもこのご高著を読んでおく必要があろうと思います。私はごく一部しか読んでいませんが ... 。
終わりに
ひどく詰めが甘いですが、ここで話を終えましょう。
Frege の論証は、時としてシニカルに響きます。相手の主張を文字通りにとって「こんな変なことになるけど、いいのかね?」というように、突き放した反論を展開することがあります。相手が権威ある哲学者なら痛快な批判になって、読んでいるほうはおもしろく感じますが、批判された相手にとっては「そんなふうに話をとる奴はいないよ、冗談じゃない」と憤慨するかもしれません。実際、Frege は批判をやりすぎて、完全に非難・冒瀆になったことがあったので (Thomae 批判)、痛快・愉快という程度におさめて、不快な侮辱に至らないようにしてもらいたいですね。
しかし、神のごとく超然とした Wittgenstein は Frege にやり込められて憤慨したことはなかったのだろうか? 多少はイラついたことはあったんでしょうね。(「『論考』を Frege にいくら説明しても理解してくれないのでヘトヘトだ」みたいなことなら、どこかの手紙に Wittgenstein は書いていませんでしたっけ?)
これで終わります。いくらかは楽しめましたでしょうか? 細々としていて、くたびれる結果になったかもしれません。ごめんなさい。私自身、ここ1週間、心身ともにひどくくたびれています。何かと大変ですね。
以上、誤解、無理解、勘違いがありましたら申し訳ありません。特にドイツ語の私による和訳には誤訳、悪訳がいくつも見られるかもしれません。そこまでいかない場合でも、改良が必要な訳は多々あると思います。すべて私の今の実力です。訳者の先生方の訳に対しても、生意気なことを申していましたら謝ります。すみません。今後改善に努めますのでお許しください。
*1:原文に出てくる単語は、できるだけすべて訳に反映させるようにしました。また、主語となっている語は主語で、目的語となっている語は目的語で、できるだけ訳すようにしました。それに、能動態の文は能動態で、受動態の文は受動態で、できるだけ訳すように努めました。もちろん、この条件を完全に守ったわけではありません。それだと、ただでさえ読めない直訳・逐語訳の文が、まったく読めないものになるからです。そのため、ところどころ「緩めて」訳しています。
*2:このあとドイツ語原文から一段落だけ訳出しますが、この段落に対応する個所の Yale UP 版英訳と Collected Papers 版英訳は、一ヶ所だけ単語の語順が入れ替わっている以外は同じです。このように、二つの英訳はほとんど同じなので、英訳に言及する際は Yale UP 版英訳のみに GS 版として言及します。
*3:ここのドイツ語原文は、Das Bild soll etwas darstellen です。これを GS 版と PL 版では共に A picture is meant to represent something と訳しておられます。この英訳はドイツ語原文の soll を「〜することになっている」、「~だとされている」と解しているのだろうと思われます。おそらくこの英文は総称文であって、「絵というものは、何かを表わしているものなのである」とでも訳されると思います。そうだとすると英訳者の先生方は、ここでドイツ語の Bild をいつでも何らかの意図が込められている絵であると理解されているのだと考えられます。しかしこの問題のドイツ語文の直前の文を見ると、Frege が Bild をいつでも意図が込められている絵とは必ずしも見なしてはおらず、単なる模様のようなものも念頭に置いて Bild と呼んでいることがわかります。そのような Bild には、たとえばお猿さんが砂地に描いた富士山のような模様があります。このように、ここでの Frege は Bild を常に意図のこもった絵とは必ずしも見なしているわけではないので、問題のドイツ語文を総称文と解したり、「絵は何かを表わすと言われる」というようには訳さないほうがよいと思います。むしろ原文の sollen は命令や要求か、または以下に掲げる勁草版にあるように、義務「〜でなければならない」と解したほうがいいのではないかと思います。(ちなみに藤村先生は「絵は何かを描写するはずである」と訳されていて、上の英訳者の先生方と似た感じになっているようです。) 以上の理由に基づいて、私は直訳・逐語訳に見られるように訳してみました。
*4:ここでは補足疑問文に müßten が使われています。この müßten は明らかに反語・反問、またはいぶかりを表わす müßten だと思います。「一体全体何をしなければならないって言うんだ? 何もできはしないだろうが」という気分を表わしていると思います。ここで Frege は、本気で問いを問うているのではないと思います。そのために単なる直説法の müssen ではなく、その接続法第二式を使っているのだと考えられます。この種のいぶかりについては、関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、POD版、2000年、333-334ページ、特に334ページの例文5を参照ください。反語・反問については同書の96-104ページをご覧ください。(ここで接続法第二式の müßten ではなく、単なる直説法の müssen を使っているならば、それは推測の müssen 「~だろうか?」と考えられます。これについては、たとえば小柳篤二、『新しい独文解釈法』、大学書林、1960年、108ページや辞書の相良守峯監修、『独和中辞典』、研究社、1996年の項目 müssen, ( (I) ) の6 を参照ください。) このように、ここでの müßten は反語・反問、またはいぶかりを表わしていると思うのですが、GS 版では、そのことがまったく反映されていないように見えます。これに対し PL 版では文中に would 「いったい何を~なのか?」を挿入して、その気分を出そうとされています。勁草版と藤村先生の訳では文脈からそれとなくわかるような訳になっていますが、当方の直訳・逐語訳では、さらにあからさまにいぶかりとわかるように訳してみました。
*5:この文でも müßten が使われていますが、これも前文の müßten を受けていぶかりや疑念の気持ちを表わしているのだろうと思い、そのように訳してみました。
*6:この文では、原文中に aber があります。これを PL 版では But と、勁草版では「しかし」としています。英語の but や「しかし」は通常、逆接を表わします。つまりこの語を含んだ文は、通常は、前の文の逆や反対や否定を表わします。しかしそのような意味で aber の前後を解すると辻つまが合わないように思われます。ところで aber には逆接だけでなく順接の意味もあります。「そして」とか「それから」という意味です。順接ならば筋が通ります。あるいは話題転換の aber 「ところで」と解することもできるかもしれません。しかしやはり順接が一番素直だと思いますので、直訳・逐語訳では「しかも」と訳しました。なお GS 版では And としてあります。藤村先生の訳では「それゆえ」となっています。
*7:藤村先生の訳ではなく、野本先生の訳を以下に引くのは、野本先生の勁草書房の訳が現在入手しやすいからです。訳の良し悪しとは関係ありませんので、どうかご了承ください。
*8:P. T. Geach, ''Preface,'' in Logical Investigations, p. viii.
*9:Pardey, p. 126.
*10:引用されているのは以下です。Michael Dummett, Frege: Philosophy of Language, 2nd ed., Harvard University Press, 1981, pp. 442-443. これは Dummett 先生のこのご高著 Frege の Chapter 13: Can Truth be Defined? の冒頭部分に当たります。Duckworth 版も同じページにあります。
*11:Pardey, p. 127 における Dummett, Frege, p. 443 からの引用に依ります。
*12:Pardey, p. 127 の Dummett, Frege, p. 443 からの引用に依ります。
*13:<2> の右辺の一部を鉤カッコ「 」でくくっていますが、正確には quasi-quotation, Quine's corners でくくる必要があるでしょう。
*14:Pardey, p. 128.