目次
お知らせ
前回述べたように、今回ブログを更新できるかどうか不安でしたが、何とか更新できました。
しかし、今後は更新が不定期になるかもしれません。あるいはそもそも更新できないかもしれません。
この6月から今までと生活がまったく変わり、従来とはひどく違ったパターンで暮らしています。
そのため、もしかしたら何かのきっかけで長期的に更新が止まるかもしれません。
できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。
とにかく状況が落ち着いていないことをお伝えしておきます。よろしくお願い申し上げます。
お知らせ終わり
はじめに
前回は分析哲学において言語論的転回が生じた瞬間を、Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus に見たのでした。
言語論的転回は、次の二つの条件のうち、その一つ、またはその両方が満たされた時、生じるとされています *1 。
(1) 哲学の問題は、言語を誤解した結果、生み出される擬似問題にすぎないと認めること、
(2) 哲学の問題を解決するためには、言語の働きを理解する必要があるということ。
Wittgenstein の Tractatus においては、これら (1), (2) の条件が満たされていたと考えられます。
また、この他に言語論的転回が生じたとされる文献には、Gottlob Frege の Die Grundlagen der Arithmetik と Bertrand Russell の ''On Denoting'' があるのでした *2 。
そこで今回は、Frege の Grundlagen で言語論的転回が生じた瞬間を、ドイツ語原文で味わってみたいと思います *3 。
Frege において言語論的転回が生じた瞬間とは、次の本の
・ Gottlob Frege Die Grundlagen der Arithmetik, hg., Ch. Thiel, Felix Meiner, Philosophische Bibliothek, 366, 1884/1988,
§62 だとされています *4 。
そこでそのセクションを以下にすべて引用して読んでみますが、その前に、そのセクションへと至る話の流れをごく簡単にまとめてみます。そのあとでドイツ語の原文と、私と同じくドイツ語を修業しておられるかたのために文法事項を記し、そして私訳である直訳、逐語訳、既刊の邦訳、英訳を並べ、次に仏訳と、やはりフランス語を私と同様修行中のかたのために文法事項を添え、それから私訳の直訳と逐語訳を載せることにします。その後、そのセクションの内容を軽く振り返り、付録をつけて終わりにします。
つまり、話は次の順序を取ります。(1) §62 までの流れを解説、(2) §62 ドイツ語原文、(3) ドイツ語文法事項説明、(4) 直訳、(5) 逐語訳、(6) 既刊邦訳、(7) 英訳、(8) 仏訳、(9) フランス語文法事項説明、(10) 直訳、(11) 逐語訳、(12) §62 再検、(13) 付録。
ちなみに私訳を意訳にせず、直訳や逐語訳にしているのは、意訳がいけないからではなく、ドイツ語原文を子細に味わってみたいがためです。「直訳こそが意訳に優る正真正銘の訳だ」と主張したいがためではありません。また、きちんとした既刊の邦訳がもうあるので、それとの違いを付けるためでもあります。
なお、私はドイツ語もフランス語も得意ではないので、誤訳している可能性があります。訳出の際、まずは自力でドイツ語、フランス語から和訳したあと、既刊邦訳と突き合わせ、誤訳がないかチェックしました。チェック後、諸先生方の訳と私訳には大きな齟齬はないように見えましたので、自力で訳した私訳は何ら修正を加えず、以下ではそのまま掲載しています。とはいえそれでも私の訳に誤訳や悪訳が残っているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。
最後に一言。Frege は Grundlagen を書いていた段階では有名な Sinn と Bedeutung の区別をまだしていませんでしたから、以下の私訳中にたとえ「意義」や「意味」や「指示」、「意味する」や「指示する」、「表現する」、「表わす」などの訳語が出てきたとしても、それらを厳密に区別して訳しているわけではありません。どうかご理解ください。
§62の背景
このあと引用する §62 の文の前に、Frege は何を言っているのか、その点をごくごく簡単に私見を若干交えつつ述べておきます。
Frege は Grundlagen の始めから、0, 1, 2, ..., などの自然数はどのようなものなのかを問うています。
たとえば「花子には、太郎という彼氏がいる」という文があります。少し奇妙な話なのですが、この文のなかの表現「太郎という」は「彼氏」を形容しているので、太郎はここで言及されている彼氏の特徴、性質を表わしている、と主張する人が、もしかしてもしかするといるかもしれません。つまりここでの太郎は、「大きい」とか「赤色をしている」などと同様に、性質の一種なのだ、主張する人がひょっとしてひょっとするといるかもしれません。
しかしこのような奇妙な主張に対しては、私たちは一つの対抗策として次のように反論することができるでしょう。つまり「花子には、太郎という彼氏がいる」という文は「花子の彼氏は太郎だ」と言い換えることができ、この言い換えられた文では、「太郎」は「彼氏」を形容しておらず、単独の名詞として振る舞っているので、「太郎」は性質を表わしているのではなく、こう言ってよければ何らかのもの、対象を表わしているのだ、と。
ところで「花子には、太郎という彼氏がいる」という文と似た文に「木星は四つの衛星を持っている」という文があります。この木星に関する文に出ている「四つの」は「衛星」を形容しているので、四つという自然数は衛星の特徴、性質を表わしている、と主張する人がいるかもしれません。しかしこの主張に対しては、先ほどと同じような反論が考えられます。つまり「木星は四つの衛星を持っている」という文は「木星の衛星の数は四つである」と言い換えることができ、この言い換えられた文では、「四つ」は「衛星」を形容しておらず、単独の名詞として振る舞っているので、「四つ」は性質を表わしているのではなく、何らかのもの、対象を表わしているのだ、と。
実際 Frege はこのような主張を展開し、4 などの自然数は何かの性質なのではなく、一つのもの、他のものとは区別され、他のものにいわば寄生することもなければ依存もせず、それ単独で存在している対象なのだ、と考えています。このような対象を彼は「自存的対象」と呼び、個々の自然数は、この意味での対象なのだ、としています。
そうやって今度はこのような対象がどのようにあるのかを Frege は問うています。たとえば、それらの自然数は私たちの外側に、特定の時間や空間を占めながら存在している物体のようなものなのだろうかと問うています。そしてこの問いに対しては、そうではないと答えています。
またそれら自然数は私たち個々人の心のなかにある、何かイメージのようなのものなのかと Frege は問うています。そしてこの問いに対しても、そうではないと答えています。
では、私たちの外にもなかにも自然数がないとするならば、自然数はそもそも存在しないのだろうか、との問いに対し、Frege は「物理的、生理的に、私たちの外にもなかにもないとしても、客観的なものとしてそれはあるのだ」という趣旨の発言をしています *5 。
しかし、個々の自然数は、私たちの外にもなかにもないにもかかわらず、それでも客観的にあるなどと、どうして言えるのだろうか、どうやってそれを知ることができるのだろうか、どんなふうにして数字の「四」は客観的な対象としての四を指していると保証できるのか、という問いが思い浮かびます。
この種の問いに対し、Frege は以下の §62 で返答を与えています。それではそのセクション原文を読んでみましょう。ちなみに引用文中に出てくる 'Vorstellung oder Anschauung' は、私たちが今述べてきた心のなかのイメージを、おおよそのところ、表わしている言葉です。
ドイツ語原文
文法事項
Wie soll: この sollen はいわゆる「自問の sollen」で、「一体全体~なのか?」。
Es wird: werden は未来を表わすこともありますが、しばしば推測 (~だろう) を表わします。というよりも、そもそも werden は推測を表わし、それがしばしば未来を表わすことに転用されると言った方がよいかもしれません。関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、2000年、339-340ページ。ここで関口先生は「未来の werden は推測の werden が転用されたものだ」とは断言されておられませんが、未来の werden が元々未来を表わしていたとすることは疑わしいと考えておられます。いずれにせよ、ここでは werden は推測を表わしています。
Es wird also darauf ankommen: 熟語 es kommt auf etwas4 an (etwas が重要である、etwas 次第である) の派生形。es は形式主語。darauf の da- は後続の zu 不定詞 den Sinn ... zu erklären を指しています。
in dem: dem は関係代名詞で、先行詞は前方の Satzes.
zunächst noch: さしあたりまだ。
viel: これは形容詞の viel が名詞化したものです。
unter den Zahlwörtern selbständige Gegenstände zu verstehen sind: unter 3格 + 4格 verstehen で、「3格を4格と理解する」。ただし、ここでは selbständige Gegenstände は4格ではなく1格で、sind の主語になっています。
zu verstehen sind: zu 不定詞 sein で、受動的可能 (されうる) または受動的必然 (されるべきである) であり、ここでは後者。
der Sätze: この複数2格は、文法上、前方の遠くにある eine Gattung にかかっているとも、あるいは前方の近くにある einen Sinn にかかっているとも考えられますが、einen Sinn にかかっているとすると、そこで述べられている意味内容はごたごたしたものとなるのに対して、eine Gattung にかかっているとすると、ごたごたせずすっきりとしたものとなるので、der Sätze は eine Gattung にかかっていると考えられます。このあと引用する仏訳では、der Sätze がどちらにかかっていると解釈しているのか、はっきりしません。文法上、どちらにも解釈できる形で仏訳されています。しかし J. L. Austin の英訳では、der Sätze が eine Gattung にかかっていると判断して英訳されています *6 。
Wenn uns das Zeichen a einen Gegenstand bezeichnen soll: この soll ですが、これが正確には何を意味するのか、正直に言って私には確信が持てません。これが sollte なら、それはいわゆる「万一の sollen」(万一~するようなことがあれば) に当たると考えられますが、ここでは接続法第2式の sollte ではなく、直説法の soll になっていますので、「万一の sollen」ではないように思われます。そこで基本に戻って考え直してみると、そもそも sollen は、この助動詞を持った主語に対する主語以外からの要求、命令を根本的に表わします *7 。そのため、ここでの副文は武骨に訳すと「我々としては、記号 a が対象を指示するよう求めるならば」となります。もう少しこなれた訳にすると「記号 a が対象を指示するよう我々が求めるならば」となります。これが正しい訳だとすると、この副文の soll は主語以外のものからの、特に我々からの、主語に対する要求を表わしていることになります。ただし、この soll は要求というよりも、仮定や取り決めを表わしているとも考えられるかもしれません。つまり「記号 a が対象を指示するよう我々が仮定するならば/取り決めるならば」です。または、この soll はいわゆる「用向きの sollen」(~するためのものである) なのかもしれません。その場合には「我々にとり、記号 a は対象を指示するためのものであるならば」となります。結局、要求なのか、取り決めなのか、用向きなのか、私は確信が持てないのですが、たぶん普通に要求を表わしているのではないかと推測しています。ちなみにこのあとに引用する仏訳では、この soll を無視して訳しています (Si le signe a désigne un objet)。それに対し、英訳では 'If we are to use the symbol a to signify an object' となっています *8 。一般に「S is to 不定詞」は基本的に予定 (~することになっている) を、とりわけ条件節中「if S is to 不定詞」では意図を含む予定 (~するつもりである) を意味しますが *9 、そうするとこの英訳では予定「もしも我々は対象を指示するよう記号 a を使うことになっているならば」、または意図「もしも我々が対象を指示するために記号 a を使うつもりであるならば」となって、soll は要求、取り決め、用向きのいずれにも取れる意味で訳されていると考えられます。
b dasselbe sei wie a: sei は間接文のために接続法第1式になっています。直説法の主文で表わすと、b ist dasselbe wie a で、「b は a と同じである」。dasselbe は derselbe が中性名詞化して、抽象的なものを指すために中性の das- となっているか、または名詞化しておらず、dasselbe のあとに Ding が省略されているために中性となっていると考えられます。
wenn es auch: wenn ... auch で認容文「たとえ~だとしても」。es は後続の zu 不定詞 dies Kennzeichen anzuwenden を指します。
in unserer Macht steht: 「(主語) は我々の力のおよぶ範囲内にある、(主語) をすることが我々にはできる」。
die Zahl, ..., ist dieselbe: dieselbe は derselbe の女性1格で、die Zahl を指す指示代名詞か、または dieselbe のあとに Zahl が省略されている指示冠詞と解されます。
d. h. : das heißt の略。「つまり」。
... zu fassen und ... wiederzuerkennen: これらの zu 不定詞は、前方の ein Mittel に形容詞的にかかっています。
als dieselbe: dieselbe は derselbe が名詞化して前の Zahl を指しているか、または名詞化しておらず、そのうしろで Zahl が省略されているものと考えられます。
zum Eigennamen: この zu は「~として (als)」の zu です。「~として」の意味の zu が出てくるよく知られた熟語には 「zum Beispiel (たとえば)」があります。この熟語は文字どおりに逐語訳すると「例として」となります。「~として」の zu については、たとえば相良守峯監修、『独和中辞典』、研究社、1996年、項目 zu をごらんください。そこの前置詞の用法の 7, (b), <<指定>> 「... として」の欄を参照願います。
既刊邦訳
・ G. Frege 『算術の基礎』、三平正明、土屋俊、野本和幸訳、勁草書房、2001年、121-122ページ。
冒頭の「[我々は ... 必要とする。]」は引用者によるものではなく、邦訳原文にあるものです。
英訳
・ G. Frege The Foundations of Arithmetic, Second Revised ed., tr. by J. L. Austin, Basil Blackwell, 1953, p. 73.
仏訳
・ G. Frege Les fondements de l'arithmétique, tr. par Claude Imbert, Seuil, 1969, p. 188.
文法事項
n'avons aucune représentation ni intuition: ne ... aucun (ni) A ni B で、「A も B も何ら ... でない」。
comment peut-il jamais: jamais は肯定的な文脈では、基本的に「(過去のある時について) かつて」、「(未来のある時について) いつか」を意味します。しかしそうだとすると、「かつて」にしろ「いつか」にしろ、ここの文「それ (数) はいかにして我々に与えられうるのか」の意味にはそぐわないと考えられます。なぜなら「かつてどのようにそれは与えられたのか」とか「今後どのようにそれは与えられるのか」という話をしているわけではないからです。それに対し、ここで jamais の意味として一番ぴったりくるのは、ドイツ語の sollen の意味をくんだ「一体いかにして~なのか」というものです。したがってこの jamais は、過去や未来のことではなく、疑問の強調を表わしているはずなのですが、肯定的文脈の jamais の意味としては、『ロベール仏和大辞典』 (小学館) も『仏和大辞典』 (白水社) も、基本的に「かつて」と「いつか」の二つの意味しか辞書に記載していません。そこには「一体~なのか」の意味は載っていません。そこで少しこじつけっぽいのですが、肯定的な文脈の jamais は英語では ever を意味し、疑問文で ever を使えば「一体~なのか」を意味しますので、ever の意味の jamais は肯定的文脈の疑問文では「一体~なのか」をも意味すると、ここでは説明しておきます。
n'ont de signification: ここの de は不定冠詞が de に代わったもの。否定文中の直接目的語に付いた不定冠詞、部分冠詞は、通常 de に代わるという原則があるため。なお、否定文中の直接目的語に付いた不定冠詞、部分冠詞は、いつでも必ず de になるというわけではありません。ならないケースが少なくとも四つあります。[1] 数詞 un (一つの) を否定している場合。Il n'y a pas un chat. (猫一匹いない、人っ子一人いない)。[2] おうむ返しで否定する場合。― Tu fais un drame de rien. (君はささいなことを大げさなものにしている) ― Je ne fais pas un drame. (私は大げさになんかしていない)。[3] 目的語の存在が期待されている場合。Il n'y a pas un médcin ici? (こちらに医者はいませんか?)。[4] 目的語以外が否定されている場合。La police n'exclut pas un attentat. (警察はテロの可能性を排除していない。← exclure の否定)。以上 [1] ~ [4] については、小田涼、『中級フランス語 冠詞の謎を解く』、白水社、2019年、100-107ページをご覧ください。
n'ont de signification qu'au: ne ... que ~ で、「~ しか ... でない」。
au sein d'une proposition: au sein de ~ で、「~ の内部で」。
il s'agira donc de définir: il s'agit de 不定詞で、「~することが重要である」。原文はこの言い回しの単純未来形。ただし、ここでは未来の話をしているわけではないので、この単純未来形は未来を表わしているのではなく、語気緩和として使われていると考えられます。
où figure un terme numérique: この関係副詞節中では、un terme numérique が主語で figure が動詞であり、倒置しています。しばしば関係節中では、関係代名詞が節中の主語でなく、また節中の主語が on, ce, 人称代名詞ではない場合、倒置が生じます。ただし、倒置しなくても構いません。
laisse encore s'exercer notre libre choix: laisser が従えている目的語と不定詞について、その不定詞が自動詞か代名動詞の場合、目的語と不定詞の語順は任意です。原文では目的語 notre libre choix が代名動詞の不定詞 s'exercer に対し、倒置しています。この目的語は目的語とは言うものの、不定詞に対する意味上の主語になっています。なお、「laisser + 不定詞 + 目的語」と類似の構文を取る「faire + 不定詞 + 目的語」の場合は、疑問文や否定文、命令文の場合を除き、「faire + 目的語 + 不定詞」のように、faire と不定詞のあいだに語句をはさむことは通常できません。
il convient d'entendre: il convient de 不定詞で、「~するのが適当である、~すべきである」。il は非人称の主語。
nous disposons d'un genre : disposer de 名詞で、「(名詞) を自由に扱う、(名詞を自由にできるものとして) 持っている」。
celui des propositions: この celui は、文法上、前方の男性単数名詞 un genre を指しているとも、un sens を指しているとも、どちらとも取れますが、意味の上からは、un genre を指していると解するのがよいと思います。
un critère qui permette de décider: この関係節内の permette は permettre の接続法ですが、なぜ接続法になっているのでしょうか。おそらく次の二つの理由のうちのどちらかによるものだと思われます。一つ目。まずここでは「~することを決定できる基準」が必要とされており、望まれています。そして何か望まれているものを先行詞とする関係節内では接続法が使われる、とされています。故にここの関係節内では接続法が使われているのだと思われます。二つ目。「~することを決定できる基準」が必要とされ、望まれているのですが、原文内のこのあとの記述からわかるのは、この基準がいつでも適用可能だとは限らないということです。本来いつでも適用されるべき基準がいつでも適用可能なわけではないということで、この基準は理想的なものであり、常に現実的なものだということではなく、その存在はあやうく、仮定的で疑わしく、否定的な色合いを帯びています。そして否定的で疑惑を持たれ、仮定的なものを先行詞とする関係節内では接続法が使われますので、ここでは接続法が使われているのだと考えられます。次の文献からこれら一つ目と二つ目に該当する例文を引用しておきます。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「subjonctif (mode) 接続法」、II. 用法、B. 従属節、第2番 形容詞節 (関係節)、まる1 目的・希望を表わす、まる3 否定・疑惑・疑問・条件を表わす節、508ページ。まず一つ目。「Il cherche un camarade qui parte avec lui. ([彼は] いっしょにでかけられる友だちを探している)」。二つ目。「Il y a peu d'hommes qui sachent véritablement aimer. (真に愛することを知る者は少ない)」。
décider si: ~かどうかを決める。
b est le même que a: A est le même que B で、「A は B と同じである」。
même si: 譲歩節を表わし、「たとえ~でも」。
n'avons pas toujours le pouvoir d'utiliser: avoir le povoir de 不定詞で、「~する力がある」。
le nombre ... est le même que celui: A est le même que B で、「A は B と同じものである」。celui は le nombre の代わりです。
c'est-à-dire que: c'est-à-dire que + 直説法で、「つまり~である」。
Par là même: それによってこそ、まさにそれにより。
juger de : juger de + 名詞で、間接他動詞として、「(名詞) を判断する」。
§62 再検
さて、語学に関する話が非常に長くなりましたが、最後に §62 を振り返り、そこで言語論的転回が生じていたといういわれを確認してみましょう。
「はじめに」でも述べましたように、言語論的転回が生じるのは、次の二つの条件の、おそらく少なくとも一つが満たされた時なのでした。
(1) 哲学の問題は、言語を誤解した結果、生み出される擬似問題にすぎないと認めること、
(2) 哲学の問題を解決するためには、言語の働きを理解する必要があるということ。
Frege の Grundlagen, §62 では、これら (1), (2) について、どのようなことが言えるでしょうか。
まず明らかに、(1) についてはそのセクションで何もはっきりしたことは述べられていませんし、(1) を思わせるようなことを何ら暗示されてもいないということがわかります。したがって (1) を理由として §62 で言語論的転回が生じたのではないと言えます。
一方、そのセクションでは、(2) が述べるごとく、言語の働きを理解することを通して哲学上の問題を解決しようとしているらしいことは見て取れます。
なぜならば、自然数が時空間中に位置を占める物でもなく、個人の心のなかにあるものでもなく、それでいて客観的に存在しているものだと言うならば、どうしてそのような自然数があると言えるのか、どうしてそれが知れると言えるのか、この種の哲学的問題に Frege は、言葉の意味がいかなる働きを取っているのかを明らかにすることで答えようとしていると思われるからです。
特に、同一性を表わしている 4 = 2 + 2 のような数詞を含んだ式または文は、左辺を右辺として、あるいは右辺を左辺として再認している文ですが、このような再認文の意味がどのように働いているのかを理解し、説明するなかで、今の式が成り立っている場合 (真である場合)、各辺が名前として振る舞っていると解されるならば、それら数詞である各辺は何かを指していると言えるのであり、この時、指されているその何かとは他ならぬ自然数であると Frege は考えているものと思われます。
言い換えますと §62 では、まず最初に各々の自然数があるとして、それからそれら自然数に私たちがいかに関わるのか、という話の流れになっているのではなく、逆に、まず最初は言葉の意味の働きを説明し、その説明からするならば、問題となっている文が真である場合、各々の自然数が確かに客観的にあると言ってよいと結論できるのだと、Frege は主張しているものと思われます。つまり「初めに自然数ありき。しかるのち、言葉が生まれた」のではなく、「はじめに言葉ありき。しかるがゆえに、自然数ありき」というわけです。
念のために強調しておきますが、言葉があるだけでは自然数があるとは言えず、言葉があり、かつその言葉を含んだ文が真であるならば、その場合、その言葉が何らかの名前の機能を持っていると解されるとすると、その言葉の指している自然数もあるはずだ、ということです。このことをもう少しちゃんと説明している金子洋之先生の文がありますので、このあと付録として、その文を掲げておきましょう。
さて、こうして Frege は、各自然数が客観的に存在し、私たちに関わることができる理由を、言葉の意味の働きを調べることで答えようとしています。自然数の存在と認識に関する哲学的問題に対し、彼は言葉の働きに着目すれば答えられると考えていたようです。この点で、Frege の Grundlagen, §62 において言語論的転回の端緒が切り開かれたのだと言えるかもしれません。
しかしながら、§62 における Frege の話が本当に正しいのかどうかはまた別問題です。そこでは Nur im Zusammenhange eines Satzes bedeuten die Wörter etwas (文という脈絡においてのみ、語は何か意味する) という、いわゆる文脈原理が掲げられていますが、実際いつでもこの原理の言うとおりなのかどうか、私としては確信が持てません。Frege としても、この文脈原理に対し十分な正当化を与えずに、それを無条件で正しいものと仮定しているように見えます。そこで、この原理に半畳を入れることも可能だと思われます。とはいえ、私にはそのような力は今のところありませんので、この辺りで私の無駄話を終えることとしましょう。
付録
Grundlagen, §62 に関し、私が今しがた述べたことについて、金子洋之先生がもっとちゃんとした説明をされているので、先生の文を参考までに引用しておきます。
次の文献の該当ページで、
・ 金子洋之 「フレーゲ」、飯田隆編、『哲学の歴史 11 論理・数学・言語』、中央公論新社、2007年、158-159ページ、
§62 に関し、金子先生は以下のように説明されています。
参考になりましたでしょうか。
今日はこれで終わります。いつものとおり、私は本日の話のどこかで、誤解や無理解、勘違いやひどい思い違いにおよんでいるかもしれません。誤訳や悪訳もあちこちに見られるかもしれません。今、私はとても厳しい状況に置かれており、こころもからだも衰弱が甚だしいので、気が付かないうちに間違いを犯している可能性が非常に高いです。注意して書いたつもりですが、心身ともにぼろぼろなため、本当に間違いがありましたらすみません。改めて気を付けるように致します。どうかお許しください。
*1:飯田隆、「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、『分析哲学 これからとこれまで』、勁草書房、2020年、160ページ。
*2:飯田、「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、161ページ。
*3:Russell の 'On Denoting' において言語論的転回が生じた場面を原文で見ることは、それが多くの人が親しんでいる英語で書かれていることから、今後ともやめておきます。
*4:M. ダメット、『分析哲学の起源』、野本和幸他訳、勁草書房、1998年、6ページ。
*5:ここまでの私による説明は、Frege, Grundlagen, §§57-61 を参考にしています。
*6:G. Frege, The Foundations of Arithmetic, 2nd revised ed., tr. by J. L. Austin, Basil Blackwell, 1953, p. 73.
*7:sollen の根本的な意味が要求、命令であることは、次を参照ください。関口、『接続法の詳細』、157ページ。
*8:Frege, The Foundations, p. 73.
*9:綿貫陽、マーク・ピーターセン、『表現のための実践ロイヤル英文法』、旺文社、2011年、140, 145ページ。
*10:eine bestimmte Zahl をここではこのように「ある特定の数」と私は訳しました。数学書ではしばしばまったく不特定である数を表わすのに x, y, ..., などを使い、一方任意ではあるが、そのうちのこれ、またはあれを指すのに a, b, ..., などを使うことがありますが、この a, b, ..., などとして、私は eine bestimmte Zahl の eine を普通の不定冠詞と理解し、「ある特定の数」と訳しました。これに対し、のちに掲げる既刊邦訳では、この名詞句を「一つの特定の数」と訳しておられます。私は eine を普通の不定冠詞と解したのに対し、既刊邦訳の訳者の先生方はそれを数詞と解されているのかもしれません。文法的にはどちらとも解することができます。先生方と同様にこの eine を数詞「一つの」と訳してもよいと思いますが、私訳は修正せず、一応私の解したまま訳し、記しておきます。