Frege is Not the First who Took the Linguistic Turn in Philosophy, an Influential Scholar Says.

目次

 

お知らせ

今まで毎月一回、だいたい月末の日曜日に更新を行なってきましたが、今後更新は不定期になるかもしれません。

今回は更新できたものの、次回以降も更新できるか不明です。

6月から今までと生活がまったく変わり、従来とはまったく違ったパターンで暮らしています。

そのため、もしかしたら何かのきっかけで長期的に更新が止まるかもしれません。

できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が落ち着いていないことをお伝えしておきます。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

はじめに 分析哲学または言語論的転回の起源

分析哲学は誰を起源として始まったのでしょうか。あるいは哲学において、最初に言語論的転回を引き起こしたのは誰でしょうか。それは Gottlob Frege (1848-1925) であるとされており、なかでも彼の著作 Die Grundlagen der Arithmetik (1884) においてであると言われています *1

しかし、Frege から分析哲学は始まったのだ、または Frege において最初に言語論的転回が生じたのだとする見解に対しては反対意見もあります。けれども、日本語の入門書の類いではそのことにほとんど触れられていないようです。そこで、その反対意見を一つここに記しておくことにします。そして最後に私の個人的な感想を少し書き付けて終わりにします。

 

反対意見を述べた文献

Wittgenstein の研究で有名な P. M. S. Hacker 先生の三つの文献から、先生の反対意見を見てみましょう *2 。文献名を出版年の昇順に並べてみます。

 文献 (1) P. M. S. ハッカー  「20世紀分析哲学の生成」、ハンス-ヨハン・グロック編、『分析哲学の生成』、吉田謙二他訳、晃洋書房、2003年 (原書1997年刊)、103-104, 127-128ページ、

 文献 (2) P. M. S. Hacker  ''Analytic Philosophy: What, Whence, and Whither?'' in his Wittgenstein: Comparisons and Context, Oxford University Press, 2013, pp. 219-220, (The original publication date of this paper is 1998),

 文献 (3) P. M. S. Hacker  ''The Linguistic Turn in Analytic Philosophy,'' in M. Beaney ed., The Oxford Handbook of the History of Analytic Philosophy, Oxford University Press, 2013, pp. 930-931.

それぞれの文献で Hacker 先生はどのような反対意見を述べておられるのか、私のほうで少し言い直したり補足を入れたりしながら、その要点を記してみましょう。

 

文献 (1) の反対意見

「20世紀分析哲学の生成」で Hacker 先生は、言語論的転回が初めて生じたのは Frege の著作においてではないと論証しています。その際、先生は背理法ではないものの、背理法に類似した論法を使っておられます *3 。私のほうで補足を入れながら、先生の論証を述べ直してみましょう。先生は主張されます。

分析哲学が生まれたのは言語論的転回が生じた時だと仮定しよう (背理法の仮定に相当)。

1884年刊行の Grundlagen において Frege は、個々の自然数が何であるかを理解するためには個々の数詞が現れる文を分析してみる必要があると考えた。このように、ものごとを理解するのにそのものごとを表わしている言葉に注目し、問題となる言葉を文の中に置いて分析するという、いわゆる文脈原理の方法が言語論的転回を引き起こしたと考えられる。

ところで実は、ものごとを表わす語を文の中に置いて分析するというこの方法は、既に Jeremy Bentham (1748-1832) によって行われている。そうすると言語論的転回は Bentham において生じていたことになる。言語論的転回の始源が分析哲学の始源であるとすると、分析哲学が生まれたのは Bentham においてであると言うことができる。つまり分析哲学の始祖は Bentham なのだ。しかしこれはいくらなんでも言い過ぎだろう (背理法から出てくる偽である主張)。

よって、当初の仮定は否定されねばならない。すなわち分析哲学が生まれたのは言語論的転回が生じた時なのではない (背理法の結論)。故にこの方法を使った Frege の Grundlagen において分析哲学が生まれたのでもない。また、Frege の Grundlagen において、たとえ言語論的転回が行なわれていたとしても、それは歴史上初のことだ、というわけでもないのである。

 

以上が Hacker 先生の論証に見られる基本的な話の流れです。手短にまとめると、「分析哲学の開始 = 言語論的転回の開始」と仮定し、いわゆる文脈原理が言語論的転回を引き起こしたのだとすれば、その転回は既に Bentham によって引き起こされていたのであり、すると Bentham が言語論的転回の始祖、すなわち分析哲学の始祖となるが、これは行き過ぎである。よって「分析哲学の開始 ≠ 言語論的転回の開始」であり、Frege の Grundlagen における文脈原理の使用が言語論的転回の起源、つまり分析哲学の起源なのでもない、ということです。

なお、Frege は、「自然数とは何であるか」ということを理解しようとして、個々の自然数を表わす数詞を含んだ文を分析しましたが、Hacker 先生によると、Bentham は、「権利や義務とは何であるか」ということを理解しようとして、これらの概念を表わす法律用語を含んだ文を分析していたようです。ある文に主語として含まれた「権利」や「義務」という言葉が私たちの身の回りの具体的なものを表わしていないように見える場合、これらの言葉を使うことは、どこか胡散臭く怪しい感じを抱かせますが、そのような時には、これらの言葉を含んだ元の文を、これらの言葉を含んでおらず、主語が具体的なものを指している、同じ意味を持った別の文に言い換えればよい、と Bentham は考えたようです *4

ちなみに、Bentham分析哲学の始祖でもなければ、言語論的転回の始祖でもないとしても、彼が文脈原理に相当する方法を使ったことは、哲学の歴史に置いて、それはそれで重要な一歩を踏み出したことになるのだ、と評価する向きもあります *5

 

文献 (2) の反対意見

この ''Analytic Philosophy: What, Whence, and Whither?'' での Hacker 先生の主張は、(1) で註に回して語られていた話が (2) の本文中に組み込まれて述べられているという表現形式の違いを除けば、 内容的には (1) と同じだと言えます。

つまりその内容とは、繰り返しになりますが、以下のとおりです。

すなわち、「分析哲学の開始 = 言語論的転回の開始」と仮定し、文脈原理の使用が言語論的転回の開始を告げているとするならば、Frege 以前に1816年の Bentham がその原理を既に使用していたので、Bentham こそが分析哲学の真の始祖となるが、これはいくらなんでも常識に外れているので、文脈原理の使用が言語論的転回の開始 = 分析哲学の開始を告げているのではなく、その結果、Frege は言語論的転回を初めて行った者でもなければ分析哲学を開始した者でもない、ということです。

 

文献 (3) の反対意見

''The Linguistic Turn in Analytic Philosophy'' の該当ページでは、Frege は言語論的転回を引き起こしたのではない、ということが主張されています。言語論的転回を引き起こしたのは Frege ではないという、Hacker 先生の述べるその理由を、やはり私のほうで補足を入れ敷衍しつつ、二つ上げてみます。

 

(理由1) Frege は、算術が論理学であることを立証するために、新たな論理学を考え出した。これは哲学に対する一種の理想的な言語、理想言語と見なされる。一方、日常の言語、自然言語は哲学するのに理想的ではないとされる。Frege は自らが生み出した論理学を論理的に完全な言語と見なし、これでもって哲学することが望ましいと考えた。

Frege のように、理想言語としての論理学を使って哲学に取り組むと、それは言語論的転回を引き起こすことになるのだろうか。理想的な論理学を使って哲学することが言語論的転回を行なうことになるとするならば、Frege は史上初めて言語論的転回を行なった者だ、とは言えなくなる。なぜなら彼以前に同種のことを行った者がいるからである *6

 

先生のこの意見を少し言い換えると次のようになるかもしれません。

つまり、確かに Frege は、日常の雑駁な自然言語で哲学をするのではなく、より整った論理学の言語で哲学すべきであると考え、算術を論理学にいわば還元するために考え出した彼の論理学を、哲学するために流用するとよいとしましたが、しかし論理学の言語で哲学をするというだけでは言語論的転回の誘因になるとは言えません。なぜなら、論理学の言葉で哲学をするという試みは、Frege 以前にもあったのであり、そうだとすると、彼以前にもう言語論的転回は生じていたことになってしまうからです。それにそもそも言語論的転回とは、単に論理学の言葉を多めに使って哲学をするというだけのことではないはずです。

 

(理由2) 重要な哲学の問題の多くは、私たちが言語の働きをよく理解していなかったり誤解していることに起因している、という見解がある。言語論的転回は、一つには、この見解を抱くことによって引き起こされる。しかし Frege はこのような見解を抱いてはいない。そもそも Frege は、重大な哲学的問題がどうして生じるのか、そのような哲学的問題の本質とはどのようなものであり、どのような方法によればそれらの問題は解けるのか、これらの疑問に対する包括的な回答を持ってはいない。重大な哲学的問題の本質はかくかくしかじかであり、故に哲学の問題は言語に対する無理解・誤解に由来しており、したがって言語の働きをよく理解し、理想言語としての論理学を使うならば、哲学の問題は解決・解消される、とは Frege は見なしていなかったのだから、彼が言語論的転回を引き起こしたとは言えないのである。

 

先生のこの意見を若干言い換えると以下のようになると思われます。

哲学的問題の源や、その問題の本性、その問題を解くための方法について、Frege は包括的な見解を持ってはいませんでした。大抵の哲学的問題は言語にまつわる問題なのだとも彼は考えてはいませんでしたし、大方の哲学的問題は、自然言語の使われ方を検討するか、または論理学の言語を考え出すことによって解かれるのだとも彼は考えてはいませんでした。このようなわけで、Frege において初めて言語論的転回が生じたとするのは間違っていると Hacker 先生はお考えのようです。

 

感想

ここまで見て来た Hacker 先生の主張に対し、私の個人的な印象を述べてみます。ただの印象や感想を述べるだけなので、大した話でもなく、深い話でもありません。どうかこの点、ご了承ください。それでは二つ、感想を述べてみましょう。

 

感想 1

上記の (1), (2) は Frege 以前に Bentham が文脈原理を使っていたから、Frege は分析哲学または言語論的転回の始祖ではない、という話です。その際、Hacker 先生は Frege と Bentham の文脈原理が同じものであるという前提に立っています。しかし、二人の文脈原理は同じものなのでしょうか。二人の文脈原理は異なる意味合いや役割を持っているのではないでしょうか。もしも彼らの文脈原理はそれぞれ違うものであり、Frege の文脈原理は彼独特のものであって、その独自性こそがその後の分析哲学の発展に大きく寄与したとするのならば、(1), (2) における Hacker 先生の反論の根拠は崩れ去るものと思われます。

実際に Bentham の文脈原理がどのようなものであったのか、ここで見てみることにしましょう。そのことがわかる Bentham の発言を、Hacker 先生の文献 (2) ''Analytic Philosophy: What, Whence, and Whither?'' から孫引きしてみます。

以下の引用文中の前半は Bentham の文、後半の 'This states ... ' で始まる文は Hacker 先生の文です。これら英文の後に私訳/試訳を付けておきます *7 。一読して理解できるよう、一部を意訳しています。誤訳しておりましたらごめんなさい。

By anything less than an entire proposition, i.e. the import of an entire proposition, no communication can have place. In language, therefore, the integer to be looked for is an entire proposition ― that which Logicians mean by the term logical proposition. Of this integer, no one part of speech, not even that which is most significant, is anything more than a fragment; and in this respect, in the many worded appellative, part of speech, the word part is instructive. By it, an intimation to look out for the integer, of which it is a part, may be considered as conveyed.

This states clearly what is commonly taken to have first been stated by Frege's dictum that 'A word has a meaning only in the context of a sentence'. *8

 

命題全体以外によっては、つまり、命題全体が含意しているもの以外によっては、意思の疎通はあり得ない。それゆえ言葉を使う際、求められるべき「総体」は命題全体、すなわち論理的命題という用語によって論理学者たちが意味しているものである。この総体のうち、一個の品詞は、非常に重要なものでさえ、断片にすぎない。この点で、複数の語によって表わされた名称 part of speech (品詞) のなかの「part (部分)」という語は示唆的である。この「部分」という語によって示唆されているのは、断片を部分として含む総体が求められているということであり、このことが語「部分」によって暗に言われているものと見なし得るのである。

これが述べているのは明らかに、Frege のスローガン「語は、文脈においてのみ、意味を持つ」によって初めて述べられたと一般に解されていることである。

 

Hacker 先生は「Bentham が述べているのは、明らかに Frege の文脈原理のことである」とおっしゃっておられますが、私にははたして先生のおっしゃるとおりなのか、ちょっと自信がありません。「明らかだ」と言われても、私個人は「明らかだ」という感じがしないのですが ... 。

上の引用文で Bentham の言っていることは、だいたい次のようなことだろうと思います。つまり、人々が互いに意思の疎通を図るには、ただ単語を単発的に発するのではなく、(それが一語文である場合もあろうがいずれにしても) 文を発する必要があるのであり、文を構成している単語はどれも何らかの品詞に属しているが、その品詞を表わす英語の語句は part of speech と言われ、この語句の part という語がコミュニケーションの際に文全体を前提していることを示唆している、と。

もしも Bentham の文脈原理がこのことに尽きるのならば、これは Frege の文脈原理と同じことを述べているのだ、と言われても、私にはにわかには首肯しかねます *9

確かに Bentham の言っていることと Frege の文脈原理とは、何か似たところがあると思いますし、互いに通じ合うところがあるようにも思われますが、同じことを言っているのかどうかは詳細な検討を必要としますし、特に二人のそれぞれの原理が同じ目的を持っているのか、二人にとって同じ役割を果たす原理なのか、ということを考えると、それぞれの原理は異なる目的と異なる役割を有しているのではなかろうか、と私は感じています。

もしも二人の原理が異なる意味合いと異なる目的、役割を持っているのならば、上記 (1), (2) における Hacker 先生の主張は潰える可能性があると思います。

とはいえ、Bentham と Frege の文脈原理を詳しく比較してみないと何とも言えませんので、本当に (1), (2) における Hacker 先生の主張が潰えるのかどうかは今のところ判断を保留させていただきます。

 

感想 2

上記 (3) で先生が述べておられる (理由 2) に私は魅力を感じます。Frege は Grundlagen で数回文脈原理に言及していますが、その際、この原理が一般的に有効であるという正当化を行わず、有効であることを初めから仮定してこの原理を使用しています。

言葉の意味がどのように働いているのか、そのことを理解する上で、この原理が必要不可欠であるならば、Frege はその必要不可欠な根拠を詳細に提示していればよかったと思います。

この原理に正当化を与えないまま、散発的に数回、言及し、使用して済ますのではなく、言葉の意味が働いている場面でこの原理が一般的、普遍的に成り立っていることを Frege が論証していたならば、彼が分析哲学または言語論的転回の始祖であるという主張にも説得力が出たと思われます。

簡単に言い換えれば、文脈原理を本格的に論じないまま、この原理を利用しつつ、自然数の本性について、Frege は話を進めており、この原理がいかにして重要な哲学的問題一般の解決につながるのか、そのことについて正面切って取り上げていないために、私たちはヒントをほのめかされただけで、この原理が哲学の問題に決定的な転機をもたらしているというはっきりとした印象を受け取れずにいるのだと思われます。

たとえば、私たちが現在使っているコンピュータを最初に発明したのは17/18世紀の Leibniz であるという意見もあるかもしれませんが、普通は20世紀前半の理論家、工業家によって考え出されたとするのが一般的でしょう。 Frege が分析哲学の実際の始祖、言語論的転回の最初の担い手だとする意見も、この Leibniz に比することができるかもしれません。

つまり、特殊な意味でなら、Leibniz が最初にコンピュータを発明したのだと言えるのかもしれませんが、一般的にはそこまでさかのぼらないのが普通だと思います。Leibniz にコンピュータの発明のきざしが見えると言うことは構わないかもしれませんが、Leibniz においてコンピュータの発明は完了した、とまではおそらく言えないでしょう。同様に、特殊な意味でなら、Frege に分析哲学/言語論的転回の兆しが見えると言うことは構わないかもしれませんが、Frege において分析哲学が完全な形で発現しただとか、彼において言語論的転回が既に成熟した形で行われたと言うのは、ちょっと言い過ぎかもしれません。

まぁ、このあたりのことは私個人の感覚であって、きちんと検討した結果をここで述べているわけではないので、あまり真面目に受け取らないようにしてください。本当はちゃんとした研究を行った後で述べなければならないことですので。

 

今日はこれでおしまいにします。言語論的転回の起源、分析哲学の起源について、本日のブログを読まれた方に、ほんのわずかでも何か気付きを提供できたのなら、きっとそれはよかったことなのだと思います。

そうは言っても、いつものように今日の話もあまり深い内容のものではなかったと思います。また、例のごとく、誤字、脱字、誤解、無理解、勘違い、誤訳、悪訳が今日の話にあるかもしれません。私はここ半年以上、ひどい抑鬱的状態に置かれています。精神的にも肉体的にも疲労困憊した状況のなか、まれに正気を保っている瞬間を捉えて、ここのところ、ブログを書いています。ですから、十分な推敲を経ておらず、誤りが散見されるかもしれません。その場合はどうか大目に見てやってください。何卒よろしくお願い申し上げます。

 

*1:このことについて邦語の書籍では、たとえば次を参照ください。竹尾治一郎、『分析哲学の発展』、法政大学出版局、1997年、1-3ページ、青山拓央、『分析哲学講義』、ちくま新書筑摩書房、2012年、23-25ページ、飯田隆、「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、『分析哲学 これからとこれまで』、勁草書房、2020年、161ページ。これらの文献での主張が依拠しているのは、おそらく以下の書籍の該当箇所でしょう。M. ダメット、『分析哲学の起源』、野本和幸他訳、勁草書房、1998年、6ページ。

*2:今問題にしている反対意見を Hacker 先生が述べておられるのは、以下の三つの文献においてだけだ、と言いたいわけではありません。この三つの文献以外でも、Hacker 先生は反対意見を述べておられるかもしれません。先生の文献のうち、私がたまたま気が付いたものをここでは取り上げているだけです。先生の著作を網羅的に調べたわけではありません。私にはそのような力はありませんので。

*3:背理法とは、細かいことを言いますと、証明したい肯定文に対し、その否定文を仮定し、この否定文から偽である文、あるいは矛盾した文が出て来たならば、仮定されていた否定文を再度否定し、元の証明したい肯定文を結論する、という論証法です。Hacker 先生はここで、証明したい否定文に対し、その肯定文を仮定し、この肯定文から偽である文を引き出して、仮定されていた肯定文を否定し、元の証明したい否定文を結論されています。この先生の論証方法は、いわゆる自然演繹の否定導入則による論法です。

*4:この段落の Bentham に関する話は「20世紀分析哲学の生成」掲載の『分析哲学の生成』、187-188ページの Hacker 先生による註 (24) を参照ください。

*5:W. V. Quine, ''Five Milestones of Empiricism,'' in his Theories and Things, The Belknap Press, 1981, pp. 68-70. また、Quine 先生の最も有名な論文でもこのことが若干触れられています。See Quine, ''Two Dogmas of Empiricism, '' in his From a Logical Point of View, 2nd ed. revised, Harvard University Press, 1980, pp. 39, 42, 邦訳、W. V. O. クワイン、「経験主義のふたつのドグマ」、『論理的観点から』、飯田隆訳、勁草書房、1992年、58, 62ページ。

*6:Hacker 先生はそのような者の具体的な名前は上げておられませんが、たとえば Leibniz が考えられます。

*7:以下に引用する Bentham の文の邦訳が文献 (1) ハッカー、「20世紀分析哲学の生成」、187-188ページに載っています。参考にさせていただきました。誠にありがとうございます。ただ、ここでは私なりに訳してみたことをお断りしておきます。出過ぎた真似をしておりましたらすみません。

*8:Hacker, ''Analytic Philosophy: What, Whence, and Whither?'' p. 219. Hacker 先生によると Bentham の文は、J. Bentham, Chrestomathia, Clarendon Press, Oxford, 1983, p. 400 に見られるものとのことで、元々は1816年に発表された文のようです。See ibid., fn. 14. ちなみに Bentham の「Chrestomathia (クレストマチア/クレストマティア)」とは「二つのギリシア語から作られた彼の造語で「役に立つ学問」と言う意味を持ち、宗教教育を否定し「実学」の学習を中心とした教育課程論」のことみたいです。以下を参照ください。田村剛一、「大英帝国の光と闇 -Pygmalionにおける階級と性差-」、『敬和学園大学 「VERITAS」学生論文・レポート集』、第10号、2003年、120ページ、URL=<https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas10-10.pdf>. たぶんですが「Chrestomathia」の「Chresto-」が「役に立つ、有用な」という意味であり、「-mathia」が「学問」という意味だろうと思われます。

*9:Bentham の文脈原理については、当ブログ、2008年4月9日、「いかなる背景の下、J. Bentham は、いわゆる文脈原理を主張したのか?」も参照ください。また、Frege の文脈原理がどのようなものなのかは、とりあえず当ブログ、2020年7月26日、''The Context Principle in Frege's Begriffsschrift?'' をご覧ください。